H.I.S.A.H.I.T.O. みだりにその名を口にしてはならない小説がある。

雨野美哉(あめの みかな)

第32話 摂政ペドフィリア

「サブローが墜ちた……まさか、そんな……」



アメノトリフネのブリッジで、イチカワアユカの体を借りたイザナミ神が、ぽろぽろと大粒の涙を流し、膝から崩れ落ちた。



ヒサヒトやオペレーターたちは、慌てて彼女に駆け寄った。



「イザナミさん? サブローさんがどうかしたのか?」



ヒサヒトは気付けば彼女の体を支えていた。

イザナミさんも同じだ。姉さんや女王アイリと。

神と王族という違いこそあれ、気高く強く見えても、弱い部分を他者に見せられない立場にあり、そうあろうとしているだけ。神も人も、変わらないのだ。



オペレーターたちは駆け寄っただけで、おそれおおいと感じているのか、そばでただ見守っていた。

女王アイリや棗はブリッジにはいなかった。



「山人の始末にあたらせていたサブローが死んだ。

たかが山人ごときにサブローがやぶれるはずがないとたかをくくっていたが計算違いだったようじゃ。

禍津九頭龍獄まがつくずりゅうごくになったとはいえ、妾とイザナギが国産みで最初に産み出したのは淡路島。

それこそが日本の核コアとなる存在。

本来ヒサヒトが、アメノヌボコをさすべきだった場所だ。

山人は、それと同化し、山人であることや、山人の繁栄という野望を捨て、九頭龍人となり、サブローを海の藻屑にしおった」



「ヤマヒトが、サブローさんを……」



「その山人の末裔とやらは何者じゃ?」



「ヤマヒトはヤマヒトだよ」



「そんなことを聞いておるのではない。あの山人、ただの山人とは思えぬ」



「そう言われても」



ヒサヒトは、そのときはじめて、自分はヤマヒトのことをなにも知らないことに気づいた。



「棗に聞いてこようか?」



「頼む……」







棗の自室を尋ねたが、何度かノックをしても中からは何の反応もなかった。

しかし、人の気配がある。

棗の気とでも呼べばいいのか、あるいはチャクラかオーラか。そのようなものも感じた。



いくら女王アイリがブリッジに不在とはいえ、摂政である棗がブリッジにいないのは珍しいことだった。

このところ、アメノトリフネでは、いくつも歴史的な発見があった。そのどれもが歴史学者の知的好奇心を刺激するには充分すぎるものばかりだった。

研究にでもいそしんでいるのだろうか。



ドアに鍵はかかっていなかった。

ヒサヒトは、だからそっとドアを開けて中を覗いた。



棗は裸でベッドに仰向けに横になっており、その下腹部には裸の女が馬乗りになっていた。



「だんなさまぁ、だんなさまぁ」



だんなさまとは棗のことだろうか、女はあえぎ声をあげながら、何度もそう呼びながら腰を動かしていた。



「お取り込み中大変失礼致しました」



棗にも女にも気づかれてはいないのに、ヒサヒトは頭を下げてそう言い、ドアを閉めた。

その瞬間、振り返った女と目があった。



今のは確か……



セカンドバベルの内部からの破壊にヒサヒトら攻略班が失敗した場合の保険として、棗が外部から破壊するために集めた八十三式の使い手のひとりだ。

名は確か、旗本慧子。



ヒサヒトが不在であった期間、棗はいつもイチカワアユカやツバイニジカを連れて歩いていたという。

ふたりは彼によくなつき、彼もまんざらではない顔をしていたと聞いていた。

ロリコン摂政だの、摂政ペドフィリアだの、まるで椎名林檎の歌のタイトルみたいなあだ名がつけられていたらしかったから、大人の女性にちゃんと興味があることを知りヒサヒトは少しだけ安堵した。



そして、ヒサヒトは、自分はヤマヒトのことだけではなく、棗のことも何も知らないということに気づかされた。







お取り込み中の棗からヤマヒトについて何の情報も得られなかったヒサヒトは、イザナミの待つブリッジには怖くて帰れなかった。

どんなお叱りがまっているか、わかったものではなかった。

しかたなく、アメノトリフネの中を目的もなく歩いて時間を潰していると、





高天原たかあまはらに 神留坐かむづまります

神漏岐かむろぎ 神漏美かむろみの 命みこと以もちて





何か呪文のようなものを唱える聞きなれた女の子の声が聞こえ、足を止めて耳をすました。





皇親すめみおや 神伊邪那岐かむいざなぎの大神おほかみ

筑紫つくしの 日向ひむかの 橘たちばなの





アイコの声だった。いや、今は女王アイリか。

アイコにはしばらく会っていない。いつからだろう。アンダーグラウンドがアメノトリフネとして起動してから?



ヒサヒトはアイコの、女王アイリの部屋のドアを開けた。





小門をどの 阿波岐原あはぎはらに

禊祓みそぎはらひ 給たまふ時ときに 生坐あれませる

祓戸はらへどの 大神等おほかみたち

諸々禍事罪穢もろもろのまがごとつみけがれを 祓はらへ給たまへ

清きよめ 給たまへと 申まをす事ことの 由よしを

天あまつ神かみ 地くにつ神かみ

八百万神等共やほよろづのかみたちともに

天あめの斑駒ふちこまの耳振立みみふりたてて聞食きこしめせと

畏かしこみ 畏かしこみも 白まをす





「それって、究極召喚のときの呪文だろ? なんでそんなもの」



アイリが呪文を唱え終わるのを最後まで待ったあとで、ヒサヒトは彼女に声をかけた。



「ヒサヒト……見ていたのですか?」



「究極召喚する気なのか?」



「そうせざるをえない状況になったときに、ちゃんとできるようにしておく必要があるのです」



「そんな状況には絶対にさせない」



「ありがとう。でもね、ヒサヒト。

私はアイコの弱い心が産み出した、本来存在するはずのない、女王の役割を押し付けられた別人格にすぎないのです。



アンダーグラウンドの女王という立場から逃げ出したい、こわい、つらい、かなしい、いっそ私も死んでしまえばよかったのに、助けて、誰か助けて、消えてなくなりたい、死にたい、



毎日毎日そんな風に思いながら泣いて暮らすアイコが作り出した別人格。それが私」



「アイリ……」



「この体は間違いなく、アイコの、ヒサヒトと同じ王族のものですが、私の人格、魂は違うのです。

私にはきっと、どれだけあのような練習を重ねたところで、究極召喚はできないかもしれない……ううん、たぶんできないの。

私だってこわくてこわくてたまらないのに……アイコはずるい」



「アイリ……」



ヒサヒトには、名前を呼ぶことしかできなかった。なんて声をかければいいのかわからなかった。



「ヒサヒト、お願いがあります」



「なに?」



「私を、アイコではなく、私を、アイリを抱いて頂けませんか?」





その日、ヒサヒトはアイリを抱いた。



ヒサヒトがアイリの中で果てると、彼女は満足そうな顔をして、



「あなたのことが、私はずっと好きでした。

おしたいもうしておりました」



そう言うと、アイリの人格は、アイコの中から消失した。



「私はいなくなりますが、どうか、どうか、アイコのことを、これからもお願いいたします。

アイコが、あなたに私を出会わせてくれたから。

ヒサヒト様、あなたに出会えて、アイリは大変幸せでございました」

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