少女ギロチン

雨野美哉(あめの みかな)

インターミッション

「ぼくの発現した三度目のカスケードは、高校入試を目前に控えた冬の日の出来事でした。
二度目のカスケードによってぼくは、ぼくの内に秘められた話術もジェスチャーも必要としない人身操作術カスケードの存在を確信していました。
学級規模でのカスケードを何度繰り返したところで、ぼくの器を推し量ることはできない、そんなことを考えていたように思います。だから試してみたくなったのです。
その日は妹の葬儀の翌日でした。日付は1987年の11月29日です。
行き先を母に告げず早朝にカメラを首からさげて家を出たぼくは、名鉄の電車に乗って名古屋に出ました。名古屋駅のみどりの窓口で、その月のはじめに母から渡されていた小遣いで東京行きの新幹線の往復チケットを買い、新幹線に乗りました。そして東京駅で新幹線を降り、山の手線に乗り換えて新宿で降りました。
アルタの前の、ちょうど「笑っていいとも」のタイトルのバックに映し出される、その真ん中にぼくは立ち、正午の数分前からカスケードをはじめたのです。
ぼくは、女たちは裸で街に歩くのが当たり前である、というカスケードをぼくの前を通り過ぎていく昼休みのオフィスレディたちに植え付けました。ぼくの蒔いたカスケードの種は女たちの脳にすぐに根をはり発芽して、成長をはじめました。
女たちは、恥ずかしがりながら、
『あ、ちょっと暑いかも。脱ぎたいな』 と言って、ひとりまたひとりとスーツを脱ぎ始めました。
北風が吹きすさむ中でぼくは砂漠をさまよう女たちの太陽でした。
裸の女は数十人という数になりました。
美しい女も、かわいらしい女も、髪の長い女も、短い女も、醜い女も、痩せた女も、筋肉質の女も、背の高い女も、低い女も、太った女も、胸の大きい女も、小さい女も、桜色の乳首の女も、黒い乳首の女も、毛のない女も、毛深い女も、年増の女も、若作りした女も、みんなぼくの目の前で裸になりました。
裸になった女たちにぼくはさらなるカスケードを送り込みました。
裸で並んで、「いいとも」のカメラに映るのが彼女たちの最先端の流行だというカスケードです。
女たちは正午きっかりに整列を終えて、「いいとも」のタイトルのバックは、裸の彼女たちで埋め尽くされました。
そして映像がアルタ前からスタジオへ移る瞬間、予想外の出来事が起こりました。
一台の暴走車が裸の女たちの群に突っ込み、女たちは次々とはね飛ばされはじめ、ふみにじられはじめました。
まるでマネキンを牽き壊しているようで、それはとても美しい光景でした。
ぼくは彼女たちの肉の壁によって守られ、怪我ひとつおいませんでしたが、彼女たちは皆死にました。ある女は首がもげていました。別の女は腕はちぎれ、足はちぎれ、だるまのようでした。まんがのように、下半身だけがぺらぺらに潰れてしまった者、上半身が潰れて欠けた肋骨が飛び出してしまった者、上半身と下半身が離れてしまった者、皆死にました。暴走車の運転手はノイローゼで精神薄弱の状態だったそうです。裸の女の群を見つけて、ひき殺そうとふと思ってしまったそうです。
ぼくは駆けつけた警官に取り押さえられるまで、彼女たちの死体の写真を撮り続けました。警官にカスケードを使わなかったのは、写真を撮ることに夢中で、気がつかなかったからです。ぼくは抵抗し、尚も写真を撮ろうとしました。
彼女たちの死をぼくは予想していませんでしたが、死んでしまった以上彼女たちはまぎれもない妹への供物でした。妹の写真を撮り続けたそのカメラで彼女たちの写真を撮ることで、ぼくは生け贄を捧げられると思ったのです。
ぼくは補導され、交番で警官たちに罵られ、殴られましたが、ネガを没収されることはありませんでした。母は泣きながらぼくを迎えにやってきました。
その写真はずっと、ぼくの宝物で、『彼女』にも見せたことはありません。おそらくぼくの家からの押収物の中にあるはずです」



―――棗弘幸の聴取記録(平成11年8月24日)より抜粋

コメント

コメントを書く

「推理」の人気作品

書籍化作品