少女ギロチン

雨野美哉(あめの みかな)

第Ⅶ章 さよならロリコ(アンジェリーナ)

抗精神病薬漬けの仲村賢司朗は愛知県警の捜査本部から、ロリコは名古屋駅前のナナちゃん人形の下からカスケード・リターンを行うことがきまった。
「カスケード使いではない者を特定するなんてはじめてですよ」
班長はそう言ってロリコの頭にヘッドギアをかぶせた。
興味深そうに通行人が通りすぎていく。
ストリートミュージシャンが何組か等間隔に並んで、彼らの前に座り込む人々がただでさえ人の多い駅前の通行を妨げていた。中東から出稼ぎにきているのだろう外国人の一組が母国の歌を歌っている。音楽は言葉がわからなくても届くものだ。だけどそれはあくまでの歌う者の母国語で歌われている場合のみで、
「日本人が馬鹿みたいにかっこつけで英語の歌詞を唄うコアとかとはやっぱり違うね」
とロリコが言った。「コアってどれも同じに聞こえるよね」
とぼくは言う。
「あんな音楽聞いてるとバカになるから聞かないほうがいいよ」
ロリコはちょっと機嫌が悪いみたいだった。
「すぐ終わるからさ。片羽真吾もすぐ見つかるし」
ロリコの頭を撫でようとすると、腕を班長に捕まれた。ヘッドギアから伸びた配線がずれてしまうのだそうだ。
「いいですね戸田刑事、カスケード・リターンを連続して行えるのは30分が限度です。必ず30分以内に片羽真吾を保護してくださいよ」
片羽が仮に名古屋市内にいるとして、あとは各区で待機している捜査員たちの腕の見せ所だ。
「だそうですよ監理官、こちらは準備整いました」
ぼくはスーツにつけた小型無線のマイクに話した。無線は捜査本部に繋がっていた。
「わかった、はじめてくれ」
「はじめてください」
班長はうなづいて、CRWのスイッチを入れた。びくん、とロリコの体がのけぞった。あっ、あっ、あっ、感じているような声を出した。
ぼくはカスケード・リターンを目の当たりにして、少し興奮してしまっていたかもしれない。班長がぼくの名前を呼ぶ声がまったく聞こえていなかった。
「戸田刑事っ」
彼の声が聞こえたのは、ぼくの背中をどん、という衝撃が襲ったときだった。
「お…まわ…りさん」
ロリコがぼくを見上げて悲しそうな顔をしている。
ぼくはすべてを察して、班長が握るCRWの液晶画面をのぞきこんだ。名古屋市の地図の上で交わる二本の赤い直線。
その交点は……。
数秒遅れて鈍い痛みがぼくの全身を貫いた。
ぼくは首を背中に傾けた。
片羽真吾。
片羽真吾が差し歯を覗かせながらぼくの背中にナイフを突き立てていた。
ぼくはきみを助けたかっただけなのに。



ぼくは洗濯物と一緒に物干し竿に干されていた。ぼくが着ているシャツに竿が通されているのか、ぼくの腕が竿なのか、よくわからない。
右隣のトレーナーがぼくに言う。
「おたくはどこから来たんだい」
名古屋からだとぼくはこたえた。
その隣のパーカーがぼくに言う。
「ナゴヤってのは一体どこだい。フランスかい」
日本だとぼくはこたえた。
左隣のパジャマが言う。
「あなたは何しにきたのかしら」
さぁわからないとぼくはこたえた。
その隣のネグリジェが言う。
「あなたはどうしてここにいるの」
さぁわからないとぼくはこたえた。
奇妙な隣人たちにぼくは言う。
「ここはどこだい」
天国だよとトレーナーが言う。
みてわからないか地獄だよとパーカーが言う。
見ての通りの物干し竿よとパジャマが言う。
ここはあなた自身よとネグリジェが言う。
物干し竿とぼくらの他にはこの世界には何もなかった。
真っ白ですらない。
真っ黒ですらない。
風に吹かれて飛んできた紙がぼくの首に突き刺さる。紙はみるみるぼくの首と胴を分けていく。血は出なかった。
ぼくはふたつの存在となる。
ぼくの生首は宙に浮き始めた。
ぼくの胴は物干し竿に干されたままだ。
ぼくの生首はどこまでものぼっていく。
だけどぼくの胴と隣人たちと物干し竿はちっとも小さくならない。
やがてぼくの生首は遠い胴の背中に痛みを感じた。
それは泣き笑いの涙の味がした。


おれたち仲間9人そろってタエコ先生に恋をした
タエコ先生自転車乗って保育園にやってくる
ムチムチおしり サドルになりたい
かかとのヒール ペダルになりたい
指ではじかれ ベルになりたい
ぎゅっと握られ ハンドル希望
誰もタイヤになりはしない 誰もタイヤになりはしない
ましてやライトなるものもなく ましてやライトなるものもなく
サドルペダルベルハンドルサドルペダルベルハンドル
サドルペダルベルハンドルサドルペダルベルハンドル
希望殺到 性的倒錯
彼女を愛しているならサドル以外のものになれ
タイヤになれ タイヤになれ タイヤになれ

サドルには俺がなるから ペダルには俺がなるから
ベルには俺がなるから ハンドルには俺がなるから
タイヤになれ タイヤになれ タイヤになれ タイヤになれ



目を覚ましたとき、ロリコがぼくのそばにいてくれたのが、ぼくはなによりもうれしかった。
ロリコは泣きはらして目を真っ赤にさせていた。
名前を呼ぼうとすると、ロリコはぼくが目を覚ましたことに気づいた。
「か、た、ば、ね、は?」
ぼくは横向きに寝かされていて、声がうまく出ないのはそのせいなのか、背中の傷が思いの他ひどかったからなのかわからない。
ロリコは首を横に何度も振った。涙が勢いよく左右に飛んだ。
「きみが、無事でよかった。すぐに、犯人を、捕まえる、よ」
無理だよ、とロリコは笑った。
「おまわりさん、全治三ヶ月だって。シンゴマンに刺された傷がひどくて、ずっと集中治療室にいたんだよ。あと何ミリかで死んでたんだって」
踊る大捜査線でもキャリアのユースケ・サンタマリアが刺されていたっけ。安田刑事は織田裕二みたいに必死に捜査してくれているのだろうか。だけど柳葉敏郎のような人が安田刑事にはいない。父が彼と協力するなんてことはありえないことだ。
「おまわりさん、うそつきだね。ナカムラくんはロリコが知ってるナカムラくんじゃないみたいだったし、シンちゃんもロリコが知ってるシンちゃんじゃなかった」
「シンちゃんなんて呼んでるのか」
「うん、バリくんはお兄ちゃん、シンゴマンはシンちゃん。ロリコはふたりのために生まれてきたのに、ふたりともわたしの前からいなくなっちゃった」
「……ごめん」
ぼくには謝ることしかできない。
「なんであやまるの?」
「内倉学は事故死じゃない。ぼくが殺したんだ」
静寂が病室を支配する。
「……ごめん」
ぼくはもう一度だけ謝った。
ロリコは立ち上がった。
「ごめんね、ロリコはおまわりさんのことももう誰も信じられないみたい」
だからもう会わない、とロリコは言った。
「ロリコね、今、おまわりさんのこと殺したくてしょうがないんだ」
そうしてロリコは前歯を覗かせて笑った。
そこには例の差し歯があった。
ぼくはずっと疑問だった。
なぜ刑事ドラマの刑事は犯人に刺されたり撃たれたり何度死にかけても復帰しようと思うのだろうか、と。
なぜ殉職するまで戦い続けるのか。
もう二度とこんな怪我をしたくない、と思うはずだ。
ナイフの刃先や拳銃の銃口が以前にも増してこわくなるはずだった。
だけど負けたままではいられない。
一生誰にも何にも勝てなくなってしまう。
だからぼくはまだ戦いたい、と思った。
パラドックスと。
ロリコを守るために。
ロリコがいなくなってしまった病室は、なんだかさびしかった。



安田刑事も父も訪ねてきてはくれなかった。ぼくの見舞いに来てくれたのはマユだけだった。
「わー、ゲロくんホントに入院してるー。ねぇ救急車には乗ったの?マユは入院したことも救急車に乗ったことも一回もないんだぁ」
マユは今日も元気だった。
右手で花束を胸に抱いて、左手は果物がたくさん詰まった籠を持っていた。花束をぼくに差し出す。
「こっちが呉羽からでー」
今度は果物の籠。
「こっちがマユからだよ。りんご食べる?マユが剥いてあげよっか?」
ぼくは花束に添えられたメッセージカードを手にとった。中東の言葉にも見えなくもないミミズがはいずった痕のような汚い字だった。「それ、呉羽からの伝言だよ」
―――橋本依子がパラドックスだ。
汚い字だが、そう読めた。
「伝言はそれだけじゃないんだ。内倉くんと仲村くん、それから片羽くんが通ってたってロリコちゃんて子が言った自己啓発セミナーなんてなかったんだって。同じ名前の新興宗教はあったけど事件とは無関係だったみたい。呉羽はロリコちゃんの行方を追うって。ねぇ、りんご食べるの?食べないの?」
違う。
ロリコが嘘をついていたとしても、ロリコは軽カスケード障害だし、彼女の前歯は例の差し歯だったんだ。
ロリコがパラドックスのわけがなかった。
「ねぇ、りんごはー」
マユは花瓶に花をいけながらそう言った。
食べるよ、とぼくは言った。だけど皮を剥くナイフはあるの?
あー、とマユは大声を出して、それがぼくの傷口に響く。
「売店に売ってるかなぁ?ごめんね、すぐ買ってくるからね」
マユはロリコと同じ甘ロリのひらひらしたスカートをめくれさせながら病室から出て行った。
ぼくは点滴の針を腕から抜き、体を起こして壁にかけられていた背中に穴のあいたスーツを着た。シャツはなかった。手術のときに切り裂かれてしまって捨てられたのだろう。
ジャケットを羽織るだけなら痛みも我慢できたが、ズボンをはくとなるとさすがに耐えがたい痛みが走った。
花瓶のそばに置かれていた鎮痛剤をラムネ菓子のように奥歯で噛み砕いて飲み込んだ。
安田刑事よりも先に、ロリコを見つけださなくてはいけない。大切な人を失って悲しんでいるというのに、犯人だと疑われるなんて悲しすぎる。
「ごめーん、ゲロくん、ナイフ売ってなかったのー。洗ってあげるからかぶりつけー」
病室に戻ってきたマユの手を引いて、ぼくは病院を出た。



タクシーの中でぼくはマユのりんごにかぶりついた。歯茎から血が出てしまった。マユにりんごを押しつける。ばっちいなぁ、シソーノーローじゃないのゲロくん。マユはりんごにかぶりついてみせた。
「前から言ってるけどゲロって呼ぶなよ。ローターでイカせるよ」
「ふぁふぅふぃふぇほぉ、ふぁふぅ、ふぇふぉふぅんふぃ、ふぃふぁふぁふぇふぁふぉふぉふぁふぃふぉ」
「りんごにかぶりつきながらしゃべるなよ」
「悪いけどマユ、ゲロくんにイカされたことないよ。呉羽と違ってヘタクソだもん。悔しかったら潮でもふかさせてみせてよ」
マユは唇の両端に指を差し込んで、イィーとした。
運転手がくすりと笑った。
ぼくはおもしろくなかった。
ぼくはマユのトートバッグ(バストトップとアンダーのロゴがあった)から携帯電話を取り出した。パンダやくまぬいぐるみのストラップがたくさんついていて邪魔でしかたがなかった。スーツにぼくの携帯はなかったから、ぼくが眠っていた間に安田刑事か誰かが持っていってしまったんだろう。マユの携帯の電話帳にはもちろん入っていない愛知県警の番号をプッシュする途中で捜査本部に電話して安田刑事に知られてはいけないと気づき、CRTの班長の携帯にかけなおした。
セックスは下手でも11桁の番号くらい一度見れば暗記できる。だってぼくはキャリアなんだから。
班長はすぐに出た。「戸田刑事?だいじょうぶなんですか?」
「橋本依子はパラドックスじゃない。あの子の前歯は例の差し歯だったんだ。すぐに仲村賢司朗と片羽真吾を使ってカスケード・リターンをしてほしい。安田刑事たちがロリコを逮捕してしまう前に、居場所を特定してください。お願いします」
ぼくは一方的に喋り電話を切った。
「お客さん、刑事さんなんですか?」
運転手がそう訊いてきたけれどぼくは無視した。「なんだか名古屋も物騒になりましたよねぇ。ギロチンの犯人まだ見つからないんでしょう?」
マユの携帯電話が鳴った。着信音はバストトップとアンダーの最後の楽曲のサビだった。バンドメンバーが次々と事件に巻き込まれたことでバストトップとアンダーは社会現象になっていた。
「知らない番号だ」
マユが言った。
CRTの班長の番号だった。
「戸田刑事に伝えておかなければならないことがあります。橋本依子の部屋からは例の差し歯が大量に見つかっているんです。それから逆にカスケード波を発する差し歯も見つかっています。橋本依子の歯はその差し歯じゃないんですか?」
ロリコがパラドックスだなんて、ぼくにはどうしても信じられなかった。



安田刑事は名古屋駅前にできたばかりのツインタワーの展望台で、名古屋の街を見下ろしていた。駅前に彼のバイクが停められているのをタクシーの窓からマユが見つけたのだ。
ぼくとマユは手を繋いで彼が振り向くのを待っていた。
一時間も待った頃、日付が変わり、展望台はぼくたちだけを残して静かになっていた。
「いつまでそうしている気だ、戸田」
と振り向かずに彼は言った。彼は気づいていたのだ。
「安田刑事こそいつまでそうしている気ですか」
ぼくはそこから動かずに彼に言った。
「お前は病院で寝てろよ」
傷口が開いて出血しはじめ、今にも倒れてしまいそうぼくをマユが支えてくれていた。
「パラドックスはカスケードで自分の分身を作りだし、例の差し歯を植え付けて疑似カスケード使いを作り出します」
「知ってるよ」
「パラドックス橋本依子を特定することはもう不可能です」
「わかってるよ」
「ぼくたちはあの子に負けたんです」
彼の背中は疲れきっていた。
世界に蔓延するカスケードに翻弄されて生きてきたぼくたちは、カスケード使いパラドックスを逮捕することでどうにかしてカスケードから逃れたかった。しかしぼくたちはこれからもカスケードに弄ばれて生き続けるしかないのかもしれない。
「俺はカスケード使いに妹を狂わされ、その妹に妻とこどもを殺され、パラドックスに妹までも殺されたんだ」
「昔の話でしょう。あなたにはマユがいるじゃないですか」
「お前も母親を狂わされて、母子ともども監理官に見捨てられたクチだろうが」
「それも昔の話です。それにぼくが憎んでいるのは母の葬儀にも出席しなかった父です」
マユはぼくの手を強く握った。マユの手はぼくの血で汚れてしまっていた。ぼくを見上げる。その目は行ってもいい?と聞いているように見えた。ぼくは小さくうなづいた。マユはぼくの体から手を離し、安田刑事の背中を抱きしめた。
「もう帰ろうよ呉羽。ゲロくんが出血多量で死んじゃうよ」
安田刑事は首をマユに傾けた。
その横顔は泣いていた。
マユ、と彼は少女の名を呼んだ。
「一生俺のそばにいてくれるか」
うん。
「どこにもいかないでおくれよ」
うん。
「俺にはもうおまえしかいないんだ」
うん。
少女は泣きながら何度もうなづく。
安田刑事はこどものように大きな声で泣いた。
意識が次第に遠のいていくのを感じながらぼくは少しだけ嫉妬した。
少女ギロチン連続殺人事件は、これでようやく終わったのだとぼくは思った。

コメント

コメントを書く

「推理」の人気作品

書籍化作品