遺作 ―残された1年の寿命で、ぼくには一体何ができるか―

雨野美哉(あめの みかな)

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洋文は、人生の半分以上を小説を書くことに捧げてきた。

だが、自分には小説を書く才能はどうやらなかったらしい。

そのことに、小説を書き始めて10年ほどで気づきはじめていたはいたが、だからといって、彼は書くことをやめることはできなかった。

新人賞はいつも二次審査止まりで、受賞するどころか最終選考にたどりつくことさえ洋文には出来なかった。

ネットにアップした小説も、熱心に読んでくれるごくわずかの読者はいたし、それはとてもありがたいことだったが、出版業界の誰かの目に止まることはなかった。

恋空などのケータイ小説が流行り始めたときも、これくらいの物なら自分にも簡単に書けると思った。
すぐ書籍化されるだろうと思った。
でも、そうはいかなかった。

けれど、27歳のときに、漫画原作の脚本で新人賞の佳作を取ることができた。
もう12年も前の話だ。

洋文はその新人賞で、受賞者としては上から三番目であり、同じ佳作の受賞者はもう一人いた。
けれど、審査員の中には、彼が尊敬してやまない、漫画原作者であり小説家でもある三人の作家のうちのひとりがいて、

「投稿者の中で一番才能を感じた」

と、コメントしてくれていた。

それは、彼にとって最高の褒め言葉であった。
彼の、これまでの、ただただつらいだけだった人生が、その言葉をもらうためのものだったと思えるくらいに。

そして、彼は自分が選ばれた特別な存在である、と勘違いをしはじめるようになった。

いわゆる、天狗になるというやつだ。

自分が選ばれた特別な存在であるという大きな勘違いを、さらに加速させる要因は他にもあった。

彼よりも上の2人の受賞者は、受賞作を漫画化しデビューさせるには、ほとんど一から書き直す必要があると編集部に判断されたらしく、もうひとりの佳作受賞者はその時にはデビューすら出来なかった。

だが、彼は受賞作を一切書き直すこともなく漫画化され、雑誌に掲載され、漫画原作者としてデビューした。


小説は、それまでの10年で、どれだけ書いたのか、もはやわからないほどだったが、脚本を書いたのはそれが初めてであり、もちろん漫画原作の新人賞に投稿するのも初めてだった。
それなのに、たった一週間ほどで書いた、400字詰め原稿用紙に換算したら40枚弱の脚本に、新人賞の佳作という評価だけではなく、50万円の賞金が支払われた。

当時、洋文は、JAの雇員(こいん)だった。
雇員とは、一般企業でいう契約社員にあたり、彼がしていたのは残業がほとんどない事務の仕事で、月収は手取り13万ほどしかなかった。
一週間で書いた原稿に、彼の4ヶ月分の月収に当たる値がついたのだ。

出版業界のことを、漫画業界のことを、漫画原作という仕事のことを、何もわかっていなかった洋文は、同じペースで原稿を書いていけば、1ヶ月に200万稼げるのではないか? と考えたりもした。
それだけで、彼の当時の年収を簡単に上回る。
さらにそれを一年間続けたならどうなるか? 年収は2400万円だ。
連載さえできるようになれば、単行本が出版されれば、そこにさらに印税が加わる。
年収は5000万か? それとも億か?

いくら無知であったとはいえ、さすがの彼も、そんな単純な計算の通りになると思い込んだりはしなかったし、そこまで金に執着していたわけではなかった。
ただ、金に困るような生活だけはしたくはないと考えてはいた。

洋文には当時、交際2年になり、同棲もしていた4つ年上の恋人がいた。彼女は31歳で、彼と結婚をしたいと考えていてくれたし、こどもも欲しがってくれていてくれた。

彼は両親とは仲は悪かったが、国公立の何倍も金がかかる私立の大学にしか入学できなかった上に、一年留年までした、両親曰く「出来損ない」の息子を、卒業までさせてくれたことを感謝していたし、これまでに自分にかけてくれたお金を全額返したいという思いもあった。
老後は、そのお金で、ふたりがしたいことをしたいようにして過ごしてほしいと考えていた。

漫画家は、連載が決まったとしても、原稿料のほとんどが、漫画を描くための部材や資料、アシスタントへの給料で消えてしまい、赤字がしばらく続く。
単行本が発売されて、印税が入ることで、ようやく黒字になる。

それに対して、漫画原作者は、資料や取材等は必要になるが、アシスタントを必要とせず、パソコンが一台あれば原稿を描けてしまう。黒字続きだ。

それほど遠くない未来に、恋人と結婚し、両親にも親孝行ができると思った。

彼は、そう信じて疑わなかった。


          

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