加藤麻衣サーガ missing (2001) + monochrone (2002) + ?

雨野美哉(あめの みかな)

完結篇「インダスト・リアル」急

亜熱帯の決して心地良いとは言えない風に揺れるひまわりたちに囲まれた、軽トラックが毎日通って出来ただろう道を、私は孔雀老人の車いすを押して歩いた。ひまわりの丈は高く、私の身長より頭ひとつ上に花を咲かせていた。
老人は小さな日傘をさし、麦藁帽子をかぶっていた。蝶ネクタイはご愛敬だとしてもスーツに麦藁帽子と日傘はよい組み合わせとは言えなかった。喉が乾いているのか、惚けが進んだのか、老人の口は半開きのままだ。鼻をかめばいいのに、鼻くそが鼻毛にこびりついてでもいるのか、呼吸のたびに風鈴のような音を鳴らした。矢柄という魚を剥製にした杖を膝の上に乗せていた。
私は背広をかかえたシャツの脇の下に汗をずいぶんとかき、これからツチノショウコに会うのだと思うとそのにおいや黄ばみが気になっていた。香水をもってくればよかったと後悔した。
ミヤザワワタルは先頭を歩きながら、留守番をしていたこどもが夜遅く帰ってきた親にするように延々喋り続けた。時々振り返っては例のしししという笑いを見せる。数年前に小島雪から聞かされていたミヤザワワタルの人物像は今の彼には当てはまらない。
彼は今、三人が縦に一列に並んで歩くなんてロールプレイングゲームみたいだという話を、レラソファミではじまるゲームミュージックを口ずさみながらしている。その手のゲームは私も学生時代に夢中になったことがあった。ふっかつのじゅもんをノートに写し間違えて何度もやり直した思い出しかない。結局魔王までたどりつけなかった。
「一番後ろのわたしはさしずめ、魔王の呪いで犬にされてしまっていたところを主人公に真実を映し出す鏡で助けてもらった王女といったところかな」
「そう。真ん中の孔雀教授はマイペースでいつも主人公と入れ違いになる隣の国の王子」
「そしてきみは他のふたりと同じように伝説の勇者の血を引きながらもひとつの魔法も使えない愚かな王子というわけだ」
ミヤザワは足を止めた。
「ぼくは愚かじゃない」
それだけ言って再び、歩を進める。
「私だって王女じゃないし、この老人もマイペースな人ではあるが王子とは程遠いさ」
私は王子が愚かであることを否定はしても、彼が愚かであることは否定しなかった。私たちが交わしたのはそんなくだらない会話だった。
車いすの右のタイヤがオオクワガタをぶちっと踏んだ。それがスイッチが入るように孔雀老人の口を突然開いた。
「そろそろ話してくれんか。儂らを何のためにこんな世界の果てまで呼んだのか」
道中すると言っていたその話がまだだった。
「そうでした。その話をしなければいけませんね。
おふたりにはぼくとショウコの結婚式に御出席していただきたくてお呼びさせていただきました」
おくびれもなくそう言った。
「きみは雪と同じ顔をしている女なら誰でも構わないのか?」
彼はなぜ私をここまで苛立たせられるのだろう。私は気は長いつもりだ。私がツチノショウコの名付け親だからだろうか。
「違いますよ、雪もショウコも夜子と同じ顔をしているから愛したんです」
何も違わない。どちらにせよショウコはスペアでしかない。
「孔雀先生はショウコの育ての親ですし、棗先生は名付け親ですから、ぜひにと家内が申しまして。招待状をお配りさせていただいたのはお二方とショウコの遺伝上の父親だったのですが、お義父さんは御欠席だそうです」
遺伝上の娘であるショウコを受け入れなかっただけでなく産業廃棄物に貶めた父親をお義父さんとはよく呼んだものだ。
「着きました。ここが式場、はじまりのひまわり畑です」
そこには教会もなく、ただひまわり畑が続いているだけだった。はじまりの、という言い回しからここがショウコの最初のひまわり畑なのだとわかった。
その中に白いワンピース姿の少女が車いすに座っているだけだった。物憂げな表情で膝の上に開いたハードカバーの本に目を落としている。体の具合はあまりよくはないのだろう。ひまわりの花の隙間をぬって光が少女に差し込んでいた。それはとても美しい光景だった。
ショウコ、とミヤザワワタルがその名を呼ぶと顔を上げて微笑んだ。
ツチノショウコだ。
二十歳を過ぎているはずだが、童顔の顔と小さな体はセーラーに袖を通さなくても少女にしか見えない。ワンピースからすらりと伸びたか細い手足は白かった。日焼けをしない体質なのだろう。
クリームソーダのような色の培養液の中でいつもわたしに微笑んでくれた幼い頃のショウコと何も変わっていなかった。
あぁ私はショウコを愛していたのだ。
「ショウコ、孔雀先生と棗先生が来てくれたよ」
孔雀老人は泣いていた。すまなかった、儂の力が足りなかったばかりに、おまえをこんな世界の果てに行かせるはめに…、老人の言葉は声にならず嗚咽に変わった。私も気づかぬうちに涙を流していた。私はなぜ原告側の承認に立ったのか。私さえ出廷しなければ判決は変わったかもしれなかったというのに。

「やっと会えたね、先生」
舌足らずのお菓子のように甘いショウコの声。私はショウコに駆け寄り、抱きしめた。
あたたかい。
夏草の香りがした。
「どこへ行ってたの?ずっと会いたかったんだよ、先生」
耳元でショウコが囁く。鉄くさい血のにおいがした。ミヤザワと同じようにショウコも被爆してしまったのだ。わたしはただすまないと謝ることしかできなかった。強く抱きしめると折れてしまう気がしてためらってしまうほど、ショウコの体は華奢だった。私の涙は白いワンピースを水玉模様に濡らしていく。
「泣かないで、先生。孔雀先生も。ふたりが泣いたらわたしも泣けてきちゃう」
おまえも泣けばいい。そう思った。
「ふたりはわたしとワタルの結婚式が終わったらすぐに帰っちゃうんでしょ?今泣いたら、別れるのがまたとてもつらくなるよ?」
きみが私にここにいてほしいと願う限り、出来うる限り私はここにいよう。そんな気になっていた。部屋に残してきた加藤麻衣の存在などショウコに比べれば小さなものだった。ミヤザワワタルとも結婚なんかさせやしない。きみは騙されてるんだよ、ショウコ。
「彼らは帰りたくてももう帰れないんだよ」ミヤザワが退屈そうにそう言った。サングラスのレンズで、マリオは尻尾を生やして飛んでいる。彼は私たちの再会などには興味はなく、後ろ手にワイヤレスコントローラを握って遊んでいるのだ。
彼らは帰りたくてももう帰れないんだよ。
ミヤザワの言葉を反芻する。いやな予感がした。
「その証拠を見せてあげるよ」
ミヤザワは背広の内ポケットに手を入れた。体温計のようなものを取り出す。まさか体温を計ろうというわけではあるまい。
「これは電子体温計タイプの小型のガイガーカウンターだ。土に刺して、一分待つ。ピピピと鳴ったら測定完了。これを刺した場所から半径数十メートルの放射能汚染度が出る」ミヤザワはおからの地面に刺しながらそう言った。第八番夢の島はショウコのファイトレメディエイションで浄化されたはずじゃなかったか。
「ひとついいことを教えてあげましょう」
一番手近なひまわりを二輪抜いて見せる。背中を冷たい汗が流れた。左脳が急激に冷やされた気がした。右脳は熱をもち、左半身がほてったが、右半身は石のようだった。
「ここら一帯のひまわり畑は全部造花だよ。はじまりのひまわり畑は、もう一区先だ。これが何を意味するかわかるかい?」
ツチノショウコは目を見開いていた。ミヤザワの計画をショウコは知らなかったのだろう。孔雀教授は叫び、車いすから立ち上がりミヤザワに殴りかかったが、簡単にかわされて足がもつれて土を舐めた。ずっと我慢していたにちがいないショウコの涙がこぼれたとき、測定終了を伝える音が鳴った。
ミヤザワワタルとツチノショウコの小さな結婚式で、私と孔雀老人は被爆した。



棗先生を迎えにやってきた加藤麻衣と藤本花梨というふたりの女の子も含めて、ミヤザワワタルと孔雀教授、彼が産業廃棄物の丘で拾ったシャム双生児の赤ちゃんの瑠璃と琥珀、そしてわたしの八人は一つ屋根の下で生活をはじめた。作業員の寝泊まりするプレハブの隣にわたしたちの新居はあった。もちろんプレハブだ。どちらも阪神淡路大震災のおさがりだった。
わたしとワタルは新婚だったけれど、一度もセックスはしていない。八人で暮らす新居にプライバシーがないという意味ではない。棗先生と麻衣ちゃんと花梨ちゃんはよく3Pをしていた。プライバシーがあろうがなかろうが、セックスはできるものなのだろう。被曝したわたしやミヤザワの体はすでに全身のいたるところを癌に蝕まれてしまっていたから、そんなことができる体ではなかったし、それにわたしはワタルはあまり好きではなかった。言い訳にしか聞こえないと思うけど棗先生と孔雀教授を被曝させたのはワタルが勝手にしたことだった。わたしは彼らをうらんだことはあっても一度だってわたしと同じ目にあわせたいと思ったことはなかった。だからわたしはまだ処女だった。
八人のうち被曝していないのは麻衣ちゃんと花梨さんだけだ。まだ赤ん坊だというのに瑠璃と琥珀も被曝していた。麻衣ちゃんと花梨さんがこの島に上陸した頃にはワタルの造花のひまわり畑もわたしの育てたひまわりにすべて植え換え終わったあとだった。わたしはふたりのことはあまり知らない。ただ棗先生は女癖が悪いということはわたしにもわかり、幻滅した。先生はわたしの姉にも手を出していたそうだ。ワタルがそう教えてくれた。
その姉をわたしは待っていた。わたしは待ち受け少女だから。今はその言葉の意味が痛いほどわかる。雪なのか夜子なのかそれはわからないけれど、姉は必ずわたしに会いにくるとワタルは言った。人工的な処置があったとはいえ、同じ遺伝子は相反し、必ず殺しあう運命にあるのだそうだ。世界中に自分と同じ顔をした人が三人だか七人だかいて、その人たち全員に会ってしまうと死んでしまうという都市伝説はようするにそういうことだった。姉を殺す気はわたしにはない。だからまだ見ぬ姉にわたしは殺されるのだ。生き残った方が遺伝子のしがらみを断ち切り本物になれる、馬鹿な話だけど姉がそれを信じているのならそれはとても残念なことだけど仕方のないことだ。
どうせわたしはすぐに死ぬ。
それまでにひまわりのにおいを沢山嗅いでおきたい。
わたしは瑠璃と琥珀を抱いて、プレハブの新居をあとにした。琥珀の具合がずっと悪い。早く手術で瑠璃から琥珀を切り離さなければふたりともすぐに死んでしまうに違いないのに、プレハブの中のふたりの元医師は彼女たちに無関心だった。
瑠璃と琥珀を抱き上げるときに聞いた麻衣ちゃんの喘ぎ声が耳にこびりついて離れなかった。
車いすの操作にはもう随分慣れた。立って歩けないのはやはり不便だけど、車いすのわたしからはひまわりは大きく見えるから好きだった。このひまわり畑はわたしが全部育てたんだよ、と瑠璃と琥珀にはお散歩のたびに自慢している。聞きあきたよと言われる頃にはわたしはきっとふたりのそばにいないだろうから、毎日お話してあげる。
やってきたのははじまりのひまわり畑。おからの土の下では、階段から転げ落ちた片羽根の天使が眠る、特別なわたしの楽園。
癌で死ぬにしても、姉に殺されるにしても、最期はこの場所がいいとわたしは決めていた。先客はいるけど、わたしの死体もやっぱりここに埋めてほしい。燃やすなんて残酷なことはどうかしないで。瑠璃と琥珀を落ちていたひまわりの種で遊ばせているうちに、わたしはうとうとと浅い眠りに落ちてしまった。
目を覚ますと瑠璃と琥珀の姿はどこにもなかった。



わたしはひまわり畑を泳ぐ。泳ぐというのはもちろん比喩で、二本の足でしっかりとおからを踏みしめて歩いているのだけれど、泳いでいるような気になれるから。ひまわりの色は太陽の色。ひまわりのにおいは太陽のにおい。四千度の炎の海を泳ぐ、わたしはダイバーだ。わたしの体は炎に焼かれ、溶岩にどろどろに溶かされていく。わたしのために海を割ってくれるモーゼのような優しい男はいなかった。ワタルや棗先生がそうなのだと思ったけれど彼らは違っていた。
ひまわりの海面に漂いながら、空を見上げた。ひまわりの花と茎はわたしをしっかりと抱きとめてくれた。
第八番夢の島は、産業廃棄物処理業務が縮小されて水平線の向こうにあった煙突はずいぶん減っていた。しかし空はスモッグに覆われたままだ。とうに暗黒世界へのゲートを開通し終わった巨大なオゾンホールから差し込んでくる紫外線だらけの太陽の光を、スモッグが緩和しているというのだから環境破壊も捨てたものじゃなかった。
紫の空を見て思うこと。
わたしは何のために生まれてきたんだろう。
わたしはただ大切な人たちに愛されたかっただけだった。それ以上のことは望んだことはなかった。
こんな世界の果ての島に産業廃棄物輸送船の食料庫に隠れてやってきて妹を殺すために生まれてきたわけじゃなかった。
ひとりで生まれてこられていたらこんなことをしなくてもよかったのに、と思う。世界には偽物が多すぎた。
ムシャクシャしてキャミソールから伸びた手足をばたばたさせる。長く伸びた髪をかきむしる。その拍子に右手に固く握りしめていた拳銃がこぼれ落ちた。輸送船の乗務員室のクローゼットから盗み出したものだった。もうどうでもいいやと思ったそのとき、ひまわりの下から声がした。
だぁ
だぁ
だぁ?
だぁ
ユニゾンするふたつの赤ん坊の泣く声だった。下を覗くとシャム双生児の赤ん坊がひまわりの上から落ちてきた拳銃に興味をもったのか、よちよちとはいはいで近づいていた。
危ないよ、と声をかけるとふたつの顔はいっしょになって泣き出しそうな顔をしたので、そのまま眺めていることにした。
拳銃に小さな手が届く。きゃっきゃっとうれしそうにふたりは笑った。かわいかった。
赤ん坊は両足とおなかで拳銃をわたしに向けて固定して、撃ち方を知っているかのように小さな指を全部使って安全装置をはずした。続いて小さな指は引き金にのびる。
銃口はわたしの顔に向けられていたが、恐怖や危機は感じなかった。あんな小さな赤ん坊に引き金を引けるわけがな



広すぎるひまわり畑をわたしは呪った。
こんな中で小さな瑠璃と琥珀を見つけられるわけがないと思った。ひまわりをかきわけてもかきわけてもその先にはひまわりがあるだけだ。
車いすでは小回りがきかない。わたしは這っておからを舐めながらひまわりをかきわけた。瑠璃と琥珀の名前を何度も叫ぶ。すぐに声は枯れた。
わたしにできることは泣くことだけだった。
銃声が聞こえた。
すぐ近くで聞こえたような気がした。
瑠璃と琥珀の泣き声がそれに続いた。
急がなくちゃ。ふたりに何かあったのかもしれない。急がなくちゃ。急がなくちゃ。急がなくちゃ。車いすへと引き返す。転げるように降りたから車いすは倒れていた。わたしにそれを起こす力はなかった。わたしには何もできない。死にたくなった。
泣いていると、ひまわりではない影がわたしを包んだ。
ミヤザワワタルが瑠璃と琥珀を抱いて立っていた。
「探したよ、ショウコ」
ワタルは優しく笑って、瑠璃と琥珀をわたしに抱かせてくれた。ふたりは泣きつかれたのか眠っていた。ごめんね、とわたしはワタルに言った。
車いすを起こし、わたしを抱き上げて乗せてくれる。今日のワタルはとても優しかった。
「ねぇ、さっき銃声がしてたよね?」
ワタルは首を横に振った。聞こえなかったよ、と笑う。
「絶対聞こえたと思うんだけどなぁ」
銃声は確かに聞こえた。銃が今どこにあるのかもわたしは知っていた。抱き上げてくれたとき、ワタルのアルマーニのスーツの胸元に見えたから。
何があったのか、わたしはそれ以上何も聞かなかった。そのかわりに、
「キスしてもいいよ」
と、わたしはワタルに言った。

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