加藤麻衣サーガ missing (2001) + monochrone (2002) + ?

雨野美哉(あめの みかな)

2002/02/15-02/21

2月15日、金曜日

麻衣と棗さんは先月、お兄ちゃんやヒロフミ、芹香ちゃんに別れを告げて枝幸を発ちました。
お兄ちゃんはひとりで富良野へと帰り、一度だけ棗さんの携帯に連絡がありました。麻衣とお兄ちゃんは連れ子同士で一滴の血も繋がらない兄妹だったけど、今ではもう赤の他人なのだそうです。麻衣たちが誘拐されている間にお父さんと綾音さんが離婚してしまって、綾音さんとお兄ちゃんは内倉という元の苗字に戻ったそうです。麻衣の知らない所で大事なことはいつも勝手に決まってしまいます。
ココは死にました。自殺でした。わたしたちが何故枝幸を発たなければならなかったかと言えば入水したココの水死体がマスダさんという漁師さんの網にかかってしまって、そのせいで警察の捜査が今にも枝幸にまで届きそうだったからです。
ヒロフミと芹香ちゃんは枝幸に残りました。麻衣はいっしょに逃げようと誘いましたが、ふたりとももう逃げたり隠れたりといったことには疲れてしまったそうです。ただ首を横に振るだけ。まだふたりが捕まったというニュースは聞いていないけど、ふたりとも奥歯に劇薬を詰めていることを麻衣は知っているので心配です。
枝幸を発った麻衣と棗さんは、リレーをするように盗難車を乗り継いで、時にはヒッチハイクをして、北海道を南下して青函トンネルを抜けました。
青森駅で鈍行の電車に乗りました。上野発の夜行列車というのは今ではもうないそうですが、青森駅も歌のように雪の中にはありませんでした。北陸から関東、東海、近畿、お尻が痛くなるほど丸一日堅いシートに座って車窓から景色を眺めているだけではちっとも旅をしている気分にはなれませんでした。車内の強すぎる暖房が、麻衣の頭を鈍くしてもいました。見知らぬ風景を眺めることが億劫でした。疲れる、というのはこういうことかもしれません。
難波でピュアという綺麗なラブホテルに泊まり、わたしはグランド花月に観に行きたいと駄々をこねましたが棗さんは許してくれなくて、翌朝には神戸でバスに乗りました。
明石大橋を渡って、四国へ。淡路島を通る間、棗さんはずっとうきうきしているように見えました。こどものように身を乗り出して窓の外の淡路島を見ていました。イザナギとイザナミの最初の子が淡路島なんだそうです。島を産むという感覚が麻衣にはよくわかりません。わからないことはそれだけじゃありませんでした。世界の果てを後にして、日本神話のはじまりの場所を通り過ぎ、棗さんは麻衣をどこへ連れていく気なんだろう、ということ。もう終わることもはじまることもできません。
麻衣と棗さんを乗せたバスは徳島に上陸し、それから数時間後に愛媛県松山市に入り、大街道というバスターミナルで麻衣たちは降りました。
すこし歩くとスクランブル交差点があり、目の前にラフォーレ新宿松山がありました。
答えはそこにありました。はじまりでも終わりでもないこの場所は、たぶんどこでもない場所なのです。
麻衣と棗さんは袋小路に迷い込んでしまったのかもしれません。



2月16日、土曜日

棗さんは要雅雪という名前で松山市駅前の漱石一番塾の講師をしています。何故か駅前にあるバッティングセンターの、地図には乗っていませんがすぐ裏に塾はあります。打撃音が高く大きく響くので塾の窓ガラスは二枚重ねになっているそうです。
松山は夏目漱石先生ゆかりの地で市駅のお土産屋さんでは先生の名前のコーヒー豆が売っています。松山銘菓のタルトがすごくおいしいのでこのふたつを買って帰ればお土産としては十分すぎるくらいです。
棗さんは要雅雪の名で偽造した運転免許証や保険証をいつの間にか手に入れていました。かなめ、というのは棗に麻衣の苗字を足したもので、雅雪という名前は雪国から逃げてきたからだそうです。棗さんは大学の卒業証書や中学と高校の国語と理科の教員免許も要雅雪の名前で偽造していました。たぶんトモヤが用意してくれたんだと思います。トモヤというのは佐野友陽のことで、今は音読みをして、ユウヨウと名乗っているそうです。
要雅雪先生はいつも赤いシャツを来て塾へ出勤します。先生のあだ名が赤シャツだからです。漱石一番塾では講師を坊ちゃんの登場人物となぞらえているのでした。
麻衣も要先生の授業を受けたかったけれど、ウィークリーマンションの新居でお留守番です。何故なら麻衣は要先生の奥さんだからです。夫が家の外でお金を稼いでいる間、かわりに家を守るのが妻の務めです。なんて言ったら古いって思われちゃうかな。
実際は麻衣はお部屋から出してもらえないだけ。だから富良野や枝幸のときのようにお友達を作ることはもうできません。家事は三日でしなくなりました。要先生がコンビニで買ってくる弁当を食べるだけ。洗濯も部屋やお風呂やトイレの掃除も要先生がしてくれます。
麻衣はトモヤからもらった拳銃を分解しては組み立て直す、そればかりを毎日飽きもせずにしています。



2月17日、日曜日

麻衣は16歳で高校一年生、精神疾患のために高校を長い間休んでいるそうです。名前はモモというのだそうです。要先生の妹で、モモは漢字で百と書きます。私立高校の学生証とレースのかわいい黒のセーラーと何故かそろばん三級の賞状を要先生はモモちゃんにくれました。
誘拐して監禁しておいて精神疾患なんて失礼しちゃうけど、棗さんはそうやって要雅雪先生とモモちゃんという架空の人物を松山市に作りだして、警察の捜査線上から逃れようとしているのでした。
でも棗さんからモモちゃんと呼ばれることはありませんでした。たまに棗さんが外で要先生を演じている間にかけてくる電話ではモモ、と麻衣を呼ぶのでした。なぜか麻衣はどきりとしました。麻衣の魂の名前を言い当てられたような、そんな気持ちになりました。
モモちゃんがまるで実在でもするかのように、お部屋にはよく英会話やパソコン教室からのお誘いの電話がかかってきました。
要さんのお宅ですか?
モモさんはいらっしゃいますか?
モモはわたしです。
そのたぐいの電話の人は名乗らないし、ひとを小馬鹿にした話し方をするのでよくわかります。モモは心の病気で、お部屋の外に出られないの、と頭が少し足りないようなしゃべり方をすると、みんなモモちゃんを憐れんでくれました。なんだか人気者になった気分。
お部屋の窓からモモちゃんの通っているという高校が見えます。同じセーラーの女の子たちが何十人も隊列を組んで、集団下校する様子が毎日見られます。それを見終わる頃に棗さんは麻衣のところに帰ってきてくれます。



2月18日、月曜日

枝幸で別れたみんなとはメールで連絡をときどきとりあうだけだけど、トモヤとはポストメイドで毎日連絡をとりあっています。
ポストメイドというのはポストペットのメイド版で、ちゆ12歳みたいなかわいい女の子のメイドがメールを届けてくれる、麻衣にはまだ少しおたくっぽすぎるアイテムです。メイド服やヘッドドレスの色や形、スカートの膨らみ具合など様々なバリエーションがあって(なぜかセーラー服や体操着、スクール水着なんてのもある)、衣装を選ぶだけでもすごく楽しい。ポスペと同じで、メールをお友達のところに届けるとはじめは足りない頭が少しずつよくなります。ときどきメールをくれたりもします。トモヤのメイドのユキちゃんがすごくかわいいんだ。麻衣のモモちゃんにはフォトショップでモモちゃんの学校の制服を描いて着せてあげました。タブレットはトモヤが送ってくれました。
麻衣は松山に来てからトモヤの作った番組をよく観るようになりました。それはネットアイドルやコスプレイヤーといった素人の女の子たちをたくさん集めて、ちょっとしたクイズと罰ゲームをするだけの番組でした。プロデューサーのはずのトモヤがなぜか司会をしています。女の子たちは一様にテンションがとても低くてリアクションもすごく薄い。クイズも罰ゲームとは呼べないような罰ゲームも一度も盛り上がらないうちに終わっちゃう。テレビ番組としてまったく成立していません。語尾ににゅとかにょとかをつけて話す子もいました。トモヤはその不条理さを楽しんでいるように見えましたが、麻衣から見ればすべてが痛々しく目を覆いたくなる光景です。日本語であそぼと誘っておきながら小さな女の子にまだ意味もわからないような古い詩を暗唱させているのを見せられるNHKの教育番組の方がまだましだと麻衣は思います。
だけどトモヤの番組はそのケーブルテレビの人気番組なのだそうです。麻衣が見たくないのについ見てしまうようにたくさんの人たちがトモヤの罠にかかってしまっているのです。



2月19日、火曜日

今日ははじめて駄々をこねて、道後温泉に連れて行ってもらいました。
道後温泉は千と千尋の神隠しのモデルにもなった温泉街で、そのせいか温泉街の中にはスタジオジブリのお店がありました。麻衣は棗さんに、いいえ、モモちゃんはお兄さんに、もののけ姫で首がカタカタと回っていたコダマという小人の、電灯の紐の延長紐を買ってもらいました。ふたりの部屋の電灯につけました。とてもかわいいのですが、暗闇で緑に光って少しだけ不気味です。
ぬれおかきというお菓子も食べました。
湿ったおかきが焼き鳥のように串に刺さっているのです。見た目から焼き鳥の味を想像して口に入れるととてもがっかりしてしまいますが、おかきであることを忘れなければとてもおいしいのだと思います。
整形手術で顔を変えたお兄さんは大手を振って街を歩けます。でもモモちゃんはそういうわけにはいきません。丸坊主に刈られた頭に、ラフォーレで買ったおかっぱのかつらを被ってはいますが、モモちゃんの顔は加藤麻衣なのです。だからモモちゃんはお忍びの芸能人のように、サングラスをかけました。
温泉は混浴ではなかったので、お兄さんはモモちゃんを監視していることができません。だから足湯だけをして帰りました。モモちゃんは冷え性で、血行はいつも悪く、体の中には死んだように冷たい場所がいくつもあります。生理も不順です。おりものはとてもよく出て、毎日ナプキンを欠かすことはできません。足湯はモモちゃんの体を芯から温めてくれました。
だけど誘拐されているとやっぱりとても不便です。本当の兄妹だったら、温泉にだって入れるし、わたしは本当に精神疾患でも構わないのに。

モモという名前は、モヨコかモモか選ぶように言われて決めました。
モヨコはドグラマグラという小説の女の子の名前で、モモはつげ義春の漫画の女の子の名前なのだそうです。
モモに決めたのは、麻衣の一人称が常に麻衣であったように、わたしの一人称は名前だから。
一日に何度もモヨコと言っていたら、モヨコは舌をかんでしまいます。



2月20日、水曜日

家事をしなくなったと言っても、洗い物がたまれば洗うし、洗濯物がたまればお洗濯をします。
使ってはイスの背もたれにかけて乾かしていたバスタオルが少し嫌なにおいになっていたり、明日はくパンツがなかったり、お洗濯をする理由はそのときどきで違いましたが、命の洗濯をするようにすべてを洗い流したくなる日というのがたまにあって、汚れていないものもすべてお洗濯するのでした。
今日がそんな日でした。
ベランダは道路に面していたし、通行人や隣の部屋の人に覗かれたりしないように、モモのお兄さんは部屋干し用の洗剤を買ってくれていましたが、モモはベランダに出て、背伸びをしなければハンガーをかけることのできない高い位置にある物干し竿に、ひとつひとつ丁寧にかけました。
今日はとても天気がよくて、絶好の洗濯日和だったからです。
それに他に何もすることがありませんでした。
暇さえあれば一日中でもポスメ(ポストメイドのことです)でメールに付き合ってくれるトモヤも、今日は例のコスプレイヤーの番組の総集編の編集に忙しいのでした。
色や生地を気にして、モモは八回にわけてお洗濯をしました。少しやりすぎたかもしれません。
隣の部屋のベランダの洗濯機も、モモの洗濯機に誘われるように動き始めていました。女の子の鼻歌が聞こえました。隣の部屋からはときどき女の子の喘ぎ声のようなものが聞こえて、モモとお兄さんはちょっとだけその気になったりすることもありました。その鼻歌には聞き覚えがありました。翼をください、という歌で、モモも小学校の合唱コンクールで歌ったことがありました。あのときは準優勝で惜しかったな。悔しくてみんなで泣きました。
非常時には蹴破るように書かれた薄い板ごしに、モモと翼を欲しがる女の子は洗濯物を干しました。
「はじめまして、あなたのお名前なんていうの?」
夕方、洗濯物を取り込む時間もモモたちは同じでした。まだ生乾きだったけれど、お兄さんが帰ってくるので、モモは取り込まないわけにはいきませんでしたが、隣のお部屋の女の子の洗濯物はちゃんと乾いていたのかな。



2月21日、木曜日

麻衣のお父さんと二人目のお母さんの綾音さんのせいで、お兄ちゃんと麻衣は苗字がかわって、もう兄妹ではなくなったと聞きました。
そのかわりに棗さんは、モモのお兄さんになってくれたのです。
「学くんのことをこれからは学さんと呼ばなければいけないよ」
とモモのお兄さんは麻衣に言いました。モモははい、と返事をしました。
学さんはひきこもりで、富良野に住んでいた頃、麻衣は何年も学さんのお世話をしました。
だから、ひきこもりがどんなものであるか十分すぎるほどモモは知っています。学さんは部屋のドアの向こうにお父さんや綾音さんがいなくても、麻衣がいっしょに行くと言っても、部屋を出てトイレに行くこともできなくて、すべて部屋の床に垂れ流していました。汚れてしまった絨毯をかたづけたのも、床を雑巾がけするのも麻衣の仕事でした。
その麻衣は、今モモという名前になって、ちょっとだけひきこもりをしています。
ちょっとだけ、というのは学さんのように世界と折り合いがつけられなくてひきこもってしまったわけではなく、麻衣が誘拐されてしまった女の子で、お部屋の箱庭の中だけではモモというお兄さんの妹でいるだけで、お部屋の外に出ることを許されてはいないからです。
ちょっとだけのひきこもりも、学さんをますます折り合いのつけられない人にしてしまったように、モモをだめにしかねません。
モモは女の子であることをときどき忘れてしまいそうになるのでした。
何日も洗っていないよれよれのパジャマのまま一日中過ごしたり、かつらをつけずに丸坊主のままでいることもありました。顔の産毛を処理するのを忘れるのは当たり前で、わき毛も少し生えていました。
お風呂に入らなかったり、歯を磨かなかったり、裸でお部屋の中を歩き回って生理の血を床に点々とこぼしてまわったことさえありました。
鏡に映る自分を見て、モモはいつも我に返るのでした。
女の子は女の子であることを忘れてはいけません。
お兄さんも女の子らしいモモがきっと好きなはずです。
外出なんてめったにできないけれど、いつもおしゃれをしていなくちゃ。
今日モモは、お兄さんに誉められたくて、いっぱいおしゃれをしてお兄さんが帰るのをじっと時計と睨めっこをしながら待ちました。
帰ってきたお兄さんは、ジーンズのパンツの上にスカートをスカートをはいたモモを見て、首を傾げました。
15歳も年が離れていると、こういうことがよくあります。

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