あなたが創ったこの世界をわたしは壊したい。

雨野美哉(あめの みかな)

第3話(第118話)

「みかなお姉ちゃん!」

芽衣はみかなの顔を見ると、その胸に飛び込んだ。


お姉ちゃん?
わたしはその呼び方に違和感を覚えた。

ふたりともわたしと同じ学年同じクラスで、高校2年だ。
苗字も違うし、顔もふたりともかわいいけれど、あまり似てはいなかった。
同い年の従姉妹か何かなのだろうか。


「ほら、芽衣。学校ではお姉ちゃんて呼んだらダメだって言ったでしょ?」

「だって芽衣、知らない人たちにいっぱい囲まれて怖かったんだもん」


芽衣は、みかなの胸に顔を埋めて、えぐえぐ泣いた。
みかなはそんな芽衣の頭を優しく撫でた。

「もー、芽衣ったら、せっかくわたしがお化粧してかわいくしてあげたのに、泣いちゃったから崩れちゃってるじゃない」

芽衣のメイクが涙で崩れただけじゃなく、みかなの半袖の白いセーラー服に、芽衣のチークやファンデーションや口紅がついてしまっていた。

「だって、だって」

そのやりとりを見ていると、ふたりは本当に姉妹のように見えた。

わたしは、その不思議な光景をぼんやりと見ていた。


「ごめんね。迷惑かけて。返璧(たまがえし)さんだったよね?」

「え? あ、うん、別に平気」


わたしは、目の前の光景だけではなく、みかながわたしの名前を知っていたことにとても驚かされた。
ショートホームルームは、ふたりの自己紹介と、出席者の確認だけで終わっていたからだ。

返璧 真依(たまがえし まより)というわたしの名前は確かに珍しいものではあったけれど、めずらしい分覚えにくい名前だった。わたしはただ担任の教師に名前を呼ばれて返事をしただけだった。

それだけでわたしの名前を覚えたのだろうか。


「この子、わたしの親戚の子なんだけど、見ての通りすごく人見知りで、さっきみたいに怖いことがあると、こんな風に子どもみたいになっちゃうんだ。
だから、返璧さんが連れ出してくれて助かったよ。ありがとね」

みかなは、芽衣の頭を撫で続けながら言った。

「こっちこそごめんね。デリカシーのない奴らばっかりで」

謝らなきゃいけないのはわたしの方だと思った。
学校は、転校生の受け入れ方のようなマニュアルを作らなければいけないと思った。
誰も自分を知る者がいない心細い状況で、先ほどのような経験をしてしまったら、転校初日に新しい学校を嫌いになってしまう人がきっといるだろう。2日目から不登校になってしまう人もいるだろう。


「芽衣、お化粧、落としにいくよ。もう一限目始まってるんだからね」

「やだやだ、もう芽衣帰る!」

「わがまま言わないの。あんまりお姉ちゃんを困らせないで? ね?」

「……うん」


みかなは芽衣の手を握り、

「本当にありがとね。返璧さんも教室に戻ろ?」

わたしにそう言って階段を降りていこうとした。


だからわたしは、

「雨野さん、気づいてないみたいだけど、制服、大変なことになってるよ?」

彼女を引き留めた。

みかなは、自分の制服の胸元を見て、

「ほんとだ……口紅までついてる……困ったなぁ」

と言った。
口紅は洗濯をしても落ちないのだ。


「クレンジングオイルと、歯ブラシとあと食器用洗剤があれば落とせるよ」

わたしは言った。

「ほんと?」

と、みかなは目を輝かせた。

「口紅がついたところにクレンジングオイルを垂らして、歯ブラシで叩くみたいにして擦る(こする)の。
口紅がとれたら食器用洗剤でクレンジングオイルを洗い流したらだいじょうぶ。チークもファンデーションもたぶんそれで落ちるよ」

わたしの父はよく、そんな風にしてワイシャツについた不倫相手の口紅を落としていた。

みかなは「よかった~」っと一安心していた。

問題は、必要な道具がないことだった。
あったとしても制服が乾くまでは時間がかかることだった。

「このまま一限はさぼっちゃおうよ。
休み時間に、わたし、教室にジャージを取りにいくから。
雨野さんはそれに着替えたらいいよ」


みかなは、きょとんとしていた。

どうしてそこまでしてくれるの?

そんな顔をしていた。


わたしにも、よくわからなかった。

芽衣に対して初めて芽生えた感情だけでなく、わたしはこれまでこんな風に困っている誰かに手を差しのべるようなことを一度もしたことがなかったから。
今はもういなくなってしまった大切なたったひとりの友達以外には。

人が誰かに優しくするときは、見返りを求めているからだと思っていたから。

だからわたしは、手を差しのべたこともなければ、差しのべられた手を握ることもなかった。


わたしは、子どもの頃から学校では常に、その今はもういなくなってしまった大切なたったひとりの友達とだけいっしょにいた。

その子以外に友達がほしいなんて思ったことは一度もなかった。


だけどこのとき、わたしは、ふたりと友達になりたいと思っていた。


          

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