あなたが創ったこの世界をわたしは壊したい。

雨野美哉(あめの みかな)

第42話(最終話)

身支度をして家を出ると、県警の戸田という刑事が車を停めてあたしを待っていた。

通りすぎようとするあたしを、

「テレビを見たよ」

戸田はそう呼び止めて、助手席のドアを開けた。

「保土ヶ谷の駅の近くの公園、だったね。送るよ」

そう言った。

あたしは素直に助手席に座ることにした。

車はゆっくりと動き出した。

あたしは戸田の車についていたカーナビでニュースの続きを見た。

テレビカメラの前であたしに宣戦布告した夏目メイはもうテレビの中にはいなかった。


「繰り返しお伝えします」


先ほどのレポーターが草詰アリスの死を伝えていた。

番組は、アリスが屋上から落下する瞬間の映像を何度も流していた。

戸田がこうして動いているということは、警察が動いているということだろうか。

硲によって金児陽三と夏目組の癒着が表沙汰になり、警察が金児の圧力に屈してきた事実も公けのこととなって、警察の面子は丸潰れになったことだろう。

警察が体裁を保つために、これまで揉み消したり不起訴処分としてきた事件を掘り返す可能性があった。

夏目メイが起こした事件もそのうちのひとつだ。

ようやく夏目メイと決着をつけられる時が来たのだ。みすみす警察に彼女を渡すわけにはいかなかった。


「夏に人気ロックバンド、エンドケイプのボーカルsinが刺されるという事件があったのを覚えていますか?」

戸田は赤信号で車を停めるとサイドブレーキを引いて、ハンドルに両腕を預けてそう尋ねてきた。

こんなときに人気バンドのボーカルの話だなんて、警察は動いていないのだろうか。戸田は組が夏目組と、あたしが夏目メイと敵対していることを知っている。動いているならもっと他にあたしに話があるはずだろうと思った。

事件のことはよく知らない、とあたしは答えた。ただエンドケイプというバンドやリーダーのsinの名前くらいなら聞いたことがあった。

「ゲイっぽい顔した人でしょ」

顔にも見覚えがあった。

あたしの言葉に戸田は声を出して笑った。

「sinはいわゆるゲイという奴で、男の体を買っていました。彼は特に少年が好みだったようです」

最低な奴ね、とあたしは言った。

「sinを刺したのは、事件があった夜、彼に体を売った少年でした。水島十和というまだ17歳の。あなたのお友達、加藤麻衣さんの恋人だった少年です」

不意に飛び出した麻衣の名前に、あたしは驚いて何も言葉にならなかった。

「これからあなたが向かおうとしている場所は、夏目メイの売春強要から生理のため五日間だけ解放された加藤麻衣さんと水島十和が、寝起きを共にし、おままごとの延長でしかなかったとはいえ、お互いに体を売ることで疲れ果てていたふたりが、穏やかで愛に溢れる時間を過ごした場所です」

だけど、そこで麻衣と夏目メイの物語は終わったのだと、夏目メイが言っていた。

「あなたもご存知でしょうが、夏目メイは探偵を雇い加藤麻衣の身辺調査をさせていました。麻衣の恋人である水島十和のことも調べさせたのでしょう。彼女は水島十和がsinを刺した犯人であると知り、ふたりが暮らすその公園に警察を呼んだのです。ふたりが一番幸せな時に、その幸せを壊すために」

水島十和は逮捕されたが、官僚である父が事件を揉み消したのだという。

「ふたりはいつか海で海の家をしようと約束していたようです」

その後、水島十和の行方は麻衣同様わからないそうだ。

「海の家は」

戸田は言った。

「海の家の人たちは秋になったら何をしてるんでしょうね」

海の家の人たちが秋になったら何をしているかなんて、あたしは考えたこともなかったし、どうでもいいと思った。

ただひょっとしたら麻衣は海の近くで、麻衣と同じで行方がわからない水島十和という男の子といっしょに暮らしているのかもしれない。

このあたりの海って言ったら湘南だろうか。

だけどふたりがこのあたりにいるという保証なんてなかった。

横浜には、ふたりにとってつらい思い出が多すぎる。

「ねぇ、ひょっとして麻衣の居場所、知ってるの?」

ひょっとしたら戸田は知っているのかもしれないと思った。

「知ってますよ」

戸田が随分簡単に言ってくれたので、あたしは驚いた。

「以前話しましたよね、私の友人の安田という刑事のこと。
彼は今、一家離散し家族にも見捨てられた加藤麻衣の後見人をしています」

「後見人?」

「親代わりといったところでしょうか。もっとも彼は今、あなたが教えてくれた宮沢渉と名古屋マユミの潜伏先であるマニラにいます。彼の代わりに私が彼女の面倒を見ていますが」

「教えて。麻衣はどこにいるの? あたし麻衣に会いたいの」

「条件があります」

戸田はあたしを見て言った。

視線はすぐ、前方に戻り、彼はさっきから城戸女学園の前からレポーターが同じ情報ばかり繰り返し伝えるテレビを、カーナビに戻した。


「次の信号を右折してください」

カーナビには目的地の公園がセットされているのか、機械の女の人の声が戸田を誘導した。

しかし、戸田は信号を右折しなかった。

「どういうつもり? 条件って何!?」

あたしは声を荒げた。


「夏目組を襲撃するのはやめてもらえませんか?」

しかし戸田は冷静に、淡々とそう言った。

「それから夏目メイのことは我々警察にまかせてもらえませんか?」

そう続けた。


やはり警察が動いていたのだ。

「交渉は決裂ね。もういい。麻衣はあたしが自分で見つけるから」

車は目的地からどんどんと離れていく。

「あたし、夏目メイと待ち合わせしてるんだけど」

カーナビは次から次へと戸田に公園に向かうための経路を説明していた。


「夏目組の襲撃をやめる。夏目メイのことは我々警察に任せる。このふたつの条件を守っていただけないなら、夏目メイとあなたを会わせるわけには行きません」

戸田の言うことは矛盾していた。

彼の条件をのまなければ、あたしを夏目メイが待つ公園には連れていかないと言う。

彼の条件をのめば、彼はあたしを夏目メイのところへ連れてはいくが、彼女のことは警察にまかせなければならない。

どちらにせよ、あたしは夏目メイと決着をつけることができない。

条件をのんで、彼女が警察に逮捕されるのを指をくわえて見ていろだなんてふざけてる。

「なら、いいわ」

あたしは時速60kmで走行中の車のドアを開けた。

「何をするつもりですか?」

「飛び下りるのよ」

「やめなさい。怪我をするだけですよ」

「言ったでしょ。交渉は決裂だって」

あたしはケータイを取り出して田所に電話をかけた。

「田所? あたしよ。今すぐ夏目組を襲撃して」

言い終えると、あたしは車から飛び下りた。


そこからどうやって夏目メイが指定した公園まで歩いたのか、あたしには記憶にない。

あたしの体はひどい全身打撲で立っていられるのが不思議なくらいだった。

医者でもないのに骨が折れているのが、自分でもわかった。

左腕はだらりと垂れて動かなかったから。

あばらも何本かひびが入っているようだった。

走行中の車から飛び下りたのだ。無理もなかった。

助手席から飛び下りたから対向車に牽かれることはありえなかったけれど、これだけの怪我で済んだのは幸運だったかもしれない。

もし頭を強く打ちでもしていたら死んでいたかもしれなかった。

とにかく、気が付いたらあたしは夏目メイの前に立っていた。

そこは、とても静かな場所だった。


駅の近くなのに電車の音は聞こえなくて、マンションが立ち並ぶ住宅街のそばなのに人気はなくて、あたしと夏目メイしかいなくて。

耳が痛くなるくらい静かだった。


「遅いわよ。テレビ見てなかったの?」

夏目メイがあたしを見て最初に言ったのはそんな言葉だった。

「見てなかったら、こんなところにわざわざ来ないわよ」

口を開くと痛みが走った。口の中が切れているのがわかった。

「まぁ、いいわ。何があったか知らないし知りたいとも思わないけど、いろいろあったみたいね」

夏目メイはあたしの体を下からなめまわすように見て言った。

うん、ちょっとね、とあたしは笑って言った。

「だいぶ待たされたから、ひょっとしてあんた来ないんじゃないかって、あたし心配しちゃった」

夏目メイの足元にはどこかの地上絵みたいな絵が描かれていた。彼女の手には枯れ木の枝が一本握られていた。きっとあたしを待つ間の暇つぶしに描いたのだろう。

どこかの地上絵は当時の人々にはけっして描くことができるものではないほど緻密で、高度な文明を持つ宇宙人がUFOの発着基地として描いた、とまだノストラダムスの大予言だとかが騒がれていた頃のテレビで見たことがあった。

地上絵の中心に立つ夏目メイは、まるでこれからUFOを呼ぶ儀式でもするみたいに見えた。

「何言ってるのよ。あたしがあんたとの約束、すっぽかすわけがないじゃない」

だけどあたしたちはUFOを呼び出したりしない。夏目メイは自分のことを知りすぎた邪魔なあたしを今度こそ殺すつもりだろう。

夏目メイはうれしそうに笑って、枝を放り投げた。

「あたしたち、友達だもんね」

夏目メイがいつか言った言葉をあたしはつむいだ。

夏目メイはたぶん拳銃を持っている。いつかあたしに向けた銃と、それからあたしがあのとき手放してしまった銃だ。だけどあたしは身を守るものを何ひとつ持っていやしなかった。

恐くはなかった。そんな自分が不思議だった。

殺されても構わない、そんな風に考えていたのかもしれない。夏目メイがあたしを殺しても殺さなくても、彼女は結局すべてを失うのだ。

心残りがあるとすれば、あたしはもう一度麻衣に会いたかった。

だけどもう、十分だった。

よくやった、とあたしは自分を誉めてあげたいくらいだった。

「そうよ、大親友だもの」

夏目メイの作りものの笑顔が笑う。

あたしたちは自分たちが掛け合う言葉がおもしろくて、お互いに声を出して笑った。

先に笑い終えたのは夏目メイの方だった。

「そろそろ、この友達ごっこも終わりにしましょ」

二丁の銀色の拳銃があたしに向けられていた。

「あんた殺さないと、あたしフツーの女の子になれないみたいだから」

だから死んでよ。

夏目メイは何のためらいもなく、二丁の拳銃の引金を引いた。


弾丸があたしの左耳と右の太股をかすめた。

そのときようやく、あたしは弾丸がかすめたのに左耳が何も聞こえなくなっていることに気付いた。

「あたしを殺しても、もう誰もあんたの罪を揉み消しちゃくれないわよ」

だから耳が痛いくらいに静かに感じたのだ。聞こえる耳を澄ませば、ガタンコトンという電車の音が遠くから聞こえていた。

「そうね。あんたを殺したら顔を変えることにするわ。あたし、いい腕してる整形外科医知ってるの。今の顔もあちこちいじってるんだ。夏の終わりに麻衣が余計なことしてくれたからね」

だから夏目メイの笑顔はいつも作り物みたいに見えたんだ。

本当に作り物だったから。

「名前も変えることにする。夏目って苗字のままじゃ、知ってる人が聞けばすぐに夏目漱石じゃなくて夏目組を連想しちゃうからね」

ケータイが鳴っていた。あたしのケータイだった。

「出れば?」

夏目メイは言った。

「誰からか知らないけど、どうせあんたんところの組の人でしょ。助けを求めてもいいわよ。どうせ間に合わないから」

電話が終わるまで待っててあげる、今度は外さない、夏目メイはそう言って、もう一度二丁の拳銃をあたしに向けた。

電話は田所からだった。

電話に出て、田所から報告を聞くと、

「あんたにいい知らせよ」

あたしは夏目メイにそう言って電話を切った。

「あんたの組、今あたしの組が潰してあげた。あんたの家族はみんなうちの田所が始末してくれたそうよ」

これでもうあんたには友達も家もない。

「もう終わりよ。夏目メイ。
あんたはたくさんの人たちからいろんなものを奪いすぎた。だからあたしがあんたのすべてを奪ってあげた。あんたにはもう何もない。
あたしの勝ちよ」

あたしは一歩一歩夏目メイに歩を進めながら言った。

本当にもう、十分だった。

あたしを殺したければ殺せばいいと思った。

あたしが死んでも、あたしの勝ちは変わらない。

あたしは夏目メイに勝ったのだ。

麻衣の仇がとれたのだ。

「ありがとう」

だけど夏目メイの口からこぼれたのはそんな言葉だった。

感謝の言葉だった。

「そこまでしてくれるなんて、やっぱりあんたは、あたしが思ってた通りの、麻衣以上のすてきな玩具ね。
あんたならきっとあたしを縛りつけるあの忌々しい組を潰してくれると思ってたの」

作り物の顔の、作り物じゃない笑顔だった。

あたしには夏目メイが何を言っているのかわからなかった。

「まだわからないの? あんたにうちの組を潰してもらうのが、あんたにはじめて会ったときからずっとあたしが進めてた計画だったのよ」

その言葉は、甘い声といっしょにあたしの片方だけ聞こえる耳から入って、だけど脳がその言葉の意味を理解をすることを拒否していた。

信じられなかった。

最初から最後まで夏目メイのてのひらの上で踊らされていただけだなんて。

信じたくなかった。

あたしはそうとも知らずに、夏目組を潰すように田所に命令して、それがうまくいって、勝った気でいたなんて。

意識がとおのいていく。

もう立っていることさえできそうになかった。

夏目メイは、呆然と立ち尽くすことしかできないあたしを抱き締めた。

あたしの頭を撫でた。

「本当にありがとう、結衣」

夏目メイがあたしの名前を呼んだ。

「やっぱりあたしたち大親友ね」



それが、あたしの物語の終着駅だった。



          

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