あなたが創ったこの世界をわたしは壊したい。
第38話
事務所のドアを開けると、鉄錆のにおいがした。
それがそんなものではないことは、あたしの白い靴下を濡らす生暖かい液体からすぐにわかった。
明かりをつけなくても血だとわかった。
鉄錆のにおいは血のにおいだった。
部屋の明かりをつけると、おびただしい量の血が、床や壁、天井にまで飛び散っていた。
事務所は築何十年たっているのかわからないほど古い雑居ビルで、ピサの斜塔とまではいかないけれど随分傾いていた。
幼い頃、事務所の奥の部屋からビー玉を転がしたことがある。いろとりどりのビー玉は、壁を伝い、家具の下の隙間を越えて、入り口の、今ちょうどあたしがいるあたりに集まってぶつかりあった。
いろとりどりのビー玉の代わりにあたしの足元には大きな血だまりができていた。
あたしは人の体に何リットルの血が流れているのかは知らない。
人が1リットルの涙を流すということは何年か前のドラマで見たことはあったけれど。
事務所の奥の暗い部屋から流れてくる血は、人の体に何リットルの血が流れているか知らないあたしにも、ひとりぶんはあるんじゃないかと思えた。
それだけ血を流せば人は死んでしまうということはあたしにもわかった。
誰かが別の誰かをここで殺したのだ。
拳銃による出血にしては多すぎる。
蜂の巣のようにされたあのyoshiという男の子のときだって、こんなに血は流れなかった。
日本刀で何十回も、いろいろな方向、角度から斬りつけたなら、ひょっとしたらこんな風に、床や壁や天井を赤く染めることができるかもしれないと思った。
事務所の奥には日本刀を持ったその誰かが、別の誰かの死体といっしょにいるのだろう。
血だまりのできた事務所の入り口から外へ出ようとすれば、当然そこに向かう足跡があるはずだった。
だけどそんな足跡はなかった。
あたしの頭は冷静にドラマの探偵のように状況を分析した。
だけど人殺しが奥にいるというのに、あたしは危険だとは思わなかった。
逃げようとも思わなかった。
怖いはずなのに、そんな感情はどこかに忘れてきてしまったみたいだった。
血に濡れる足が震えることもなかった。
きっと、あたしには奥に一体誰がいて、誰の死体が転がっているのかわかっていたからだ。
事務所の奥の部屋には、北欧からわざわざ取り寄せた高いばかりで機能性の低いじいさんの机やひとりがけのソファがある。
その誰かは床に転がる死体を暗闇の中で眺めながら、じいさんの机に腰かけて日本刀を肩にかけていた。
月明かりが一瞬刀に反射して、その誰かの顔を明るく照らした。
鬼のような形相をしていたけれど、その顔はあたしのよく知る顔だった。
「田所」
あたしはその誰かの名前を呼んだ。
「お嬢、ですか?」
田所はあたしを呼んだ。
月明かりは床に横たわるじいさんの死体を照らしていた。
「じいさん、殺してくれたんだね?」
あたしは笑っていたかもしれない。
心の奥の方からこみあげてくる笑いをおさえることができなかった。
「もっと早くこうするべきでした」
田所は、じいさんがあたしにヤクザ相手に体を売らせるようになったときから、ずっと謀反を企んでいたらしい。
「だけど、あの頃の私には無理でした。頭に信頼される存在になる必要がありました。頭が私を信頼し、安心しきって、私とふたりきりになる時間ができるくらいの関係になる必要がありました。頭を殺した後で頭に代わって組をまとめあげられるだけの組織を作る必要もありました」
そのために田所は三年もかけたのだという。
「頭の信頼をようやく得たと確信したのは、轟の逮捕のときでした。同時にこの男はもう組をまかせられる頭には値しないと思いました。最早老害にすぎないと」
田所は机から降りると、じいさんの死体をまるでごみのように壁に向かってけりとばした。
「これでもう、お嬢に体を売らせるような真似をさせる者はおりません。この田所は、この三年間、お嬢のことだけを考え、お嬢のためだけに生きてきました。すべてはお嬢を新しい頭にお迎えするためです」
そして、あたしの前にひざまづき、
「八代目組長のご就任、おめでとうございます」
あたしの手をとると、王子様のように手の甲にキスをした。
「早速ですが、私に最初の命令を与えて頂けますか?」
田所はあたしを見上げるとそう言った。
「夏目の組を潰して」
それがあたしの、八代目組長としての最初で最後の命令だった。
さだまさしが全日空の飛行機をハイジャックする夢を見た。
その飛行機にあたしが乗りあわせてしまうわけではなくて、あたしはハルといっしょにテレビでその事件の経過を見守るという夢だった。
その夢の中では、あたしとさだまさしの間には少なからず因縁があるという設定になっていて、どうもあたしのじいさんも元ハイジャック犯という設定らしく、よく覚えていないのだけれどそのあたりがどうも因縁に繋がっていたらしかった。
夢に出てきた有名人はさだまさしだけではなくて、例えば元モーニング娘の飯田圭織が黒人男性と結婚していて、二児の母になっていた。
夢だから、あたしたちの年はそのままなのに、飯田圭織の子供は随分大きくなっていた。
飯田圭織の娘は飯田レナという名前で、幼いながらもモデルとして活躍していて、夢に名前が出てこなかった兄は覚醒剤だか麻薬だかの所持で逮捕されていた。
さだまさしのハイジャックは結局失敗に終わってしまい、結局動機もよくわからなかった。
けれど目を覚ましたあたしは、まるで映画か二時間ドラマのような大作に仕上がっていた夢がおかしくて笑った。
くすくす笑うあたしの笑い声に隣で寝ていた田所が目を覚ました。
あたしたちはふたりとも裸だった。
昨夜、あたしたちはじいさんの死体を山の中に埋めに行った。
「頭は幼い頃から喘息を患ってらっしゃいましたよね」
車が山道を登り始めると、田所は言った。
じいさんは喘息もちだけではなく、斜視でもあった。斜視は手術で簡単に治すことができるのに、じいさんは治そうとはしなかった。その目はじいさんの武器のようなものだったからだ。どんなヤクザもじいさんに睨まれると蛇に睨まれた蛙のように怖じ気付いていた。じいさんは糖尿病も患っていた。
「頭の死はしばらく隠します。持病の治療のため、空気のきれいなところで、軽井沢あたりですかね、療養してもらっているということにします」
あたしは、どうして? と尋ねた。
じいさんの死を組の者たちに知らせなければ、あたしは八代目を襲名できない。
「医者に病死だと嘘の診断書を書かせるのは簡単です。
エンバーミングとか言いましたっけ、どんな死体も生前の姿のようにきれいに見せる技術、あれもありますからね。組の者に病死だと信じさせるのも簡単でしょう。
ですが組の者はほとんど私の側についていますが、一部狂信的に頭を指示している者たちがいます。
彼らが頭の死を知れば、どんな行動を起こすかわかりません。当然私が殺したと疑われるでしょう。私の命が狙われるだけなら構いませんが、お嬢に危害が及ぶ可能性もあります」
なるほど、とあたしは思った。
あたしが八代目を襲名するにしてもしなくても、どちらにしても組のことは田所に任せるしかないのだから、彼の言う通りにした方がいいだろうと思った。
田所は山奥で車を停めると、死体を下ろしスコップで穴を掘り始めた。
手伝うよ、と言ったけれど、田所はスコップがひとつしかありませんから、と言った。お嬢が手を汚す必要はありませんよ、と言った。
あたしは車の助手席で田所がじいさんの死体を埋める穴を掘るのをぼんやりと眺めていた。
田所は穴を掘りながらケータイで部下に事務所の掃除を指示していた。
じいさんを埋め終わると、あたしたちは田所の住む高級マンションの部屋に帰ってセックスした。
田所のことは好きでも何でもなかったけれど、あたしにはもう田所しかいなかった。
田所があたしのことを好きでいてくれているのは知っていたし、彼があたしを求めるなら応えてあげようと思った。あたしにとってセックスはとっくの昔に特別なことじゃなくなっていたから別に構わなかった。
ただ田所に抱かれながら、あたしは誰とでもセックスできるくせに、一番好きな男の子とだけはセックスできない女の子なんだなと思った。
ハルのことを思い出してしまった。
涙があふれてきて、止まらなかった。
そんなあたしを田所は優しく抱き締めて、何度も何度もあたしを愛した。
目を覚ました田所に、あたしは夢の話を聞かせた。
田所は楽しそうにあたしの話を聞いてくれた。
彼は朝からあたしを求めてきて、あたしたちはまた何度も愛し合った。
すべては、夏目メイへの復讐のために。
「いつでも夏目組を襲撃できるよう準備をしておいて。襲撃の指示はあたしが出すから」
あたしは田所にそう言って、彼のマンションの部屋を出た。
車で家まで送ると田所は言ってくれたけれど、あたしは歩いて帰ると言った。
組の事務所とあたしの家は田所のマンションからは正反対の方角にあったし、田所には組長代行としてやらなければいけないことが山積みだったから。
あたしもひとりになって考えたいことがあった。
このたった数日でめまぐるしく移り変わっていったあたしを取り巻く環境に、あたしは果たしてついていけているだろうか、ということ。
いろんなことを無感情に受け入れすぎている気がした。
つらいことも悲しいことも、ひとつひとつ頭の中で整理する時間がほしかった。
ハルのことも。ナオのことも。じいさんのことも。
それから夏目メイのことも。
外は雨が降っていた。明け方から降り始めたらしかった。
天気予報によれば、雨は一日中降り続けるらしい。
神様が泣いているような、悲しい秋の雨だった。
あたしは田所に借りた傘をさして歩いた。
傘は女もので、田所には女がいて、その女が置き忘れていったんだろう。
家を訪ねてきて傘を忘れていくような女がいるのに田所があたしを抱いたことには、あたしは特に何も思わなかった。
男なんてみんなそういうものだ。
女だって付き合ってる男に高価なプレゼントを買ってもらうために股を開く。
一応「恋愛」しているから、それが悪いことだと本人たちは自覚していないけれど、売春と変わらない。
男と女なんて利用しあうだけの関係でしかない。
田所はあたしを理由として利用して組のトップに立ち、あたしは彼を利用して夏目メイに復讐を遂げる。
あたしたちはただそれだけの関係だった。
夏目組を潰すときは、あたしが夏目メイと今度こそ決着をつけるときだ。
あたしが彼女といっしょにいるときに、彼女が組の壊滅を知らなければいけない。
夏目メイは他人から多くのものを奪いすぎた。
だから、夏目メイが麻衣から家族を、すべてを奪ったように、彼女の家族とすべてを奪おう。
まずは小島ゆきだ。
彼女と、政治家をしているという彼女の祖父がいる限り、夏目メイの罪を法は裁けない。すべて揉み消されてしまう。
ゆきに恨みはなかったけれど、彼女には夏目メイのそばから消えてもらおう。
ゆきの祖父、参議院議員金児陽三は夏目組から長年の間、政治献金を受け続けている。その見返りに夏目組が犯した犯罪を警察に圧力をかけて揉み消している。
いつかゆきがあたしに話したその事実は、公表すればゆきの祖父を簡単に失墜させるだけのスキャンダルだ。
だけど、だからと言ってただの女子高生に過ぎないあたしがそんな話をしたところで、誰も見向きもしてはくれないだろう。
匿名で新聞や週刊誌にたれこむにしても、それなりの証拠が必要だ。
そしてあたしはその証拠を何ひとつ持っていなかった。
あたしが利用できる人間ももう限られていた。
ナオも轟ももういない。
田所は夏目組の襲撃の準備でそれどころじゃないだろう。
要を利用するのは簡単だろうけれど気がひけた。
「戸田しかいないか……」
あたしはそう呟いたけれど、戸田も警察の人間だ。キャリア組から脱落した彼が権力に簡単に屈するとは思えないけれど、あたしには彼があたしの思い通りに動いてくれるとは思えなかった。
もう一度ゆきの口から語らせて、それを録音したものを新聞や週刊誌に送りつけるしかないような気がした。
だけどそれも難しいだろう。
あたしは信号のない十字路の真ん中で立ち往生してしまった。
田所のマンションを出てからずっと、あたしのあとをつけていた男の存在に気付いたのはそのときだった。
それが誰かはわからなかったけれど、夏目メイが雇った探偵だろうということは容易に想像できた。
あたしが振り返ると、そこにはもう冬が近いというのに素肌にオーバーオールを着ただけの男が立っていた。
「はじめまして。私立探偵の硲裕葵と申します」
男はそう言うと、うやうやしく頭を垂れた。
          
それがそんなものではないことは、あたしの白い靴下を濡らす生暖かい液体からすぐにわかった。
明かりをつけなくても血だとわかった。
鉄錆のにおいは血のにおいだった。
部屋の明かりをつけると、おびただしい量の血が、床や壁、天井にまで飛び散っていた。
事務所は築何十年たっているのかわからないほど古い雑居ビルで、ピサの斜塔とまではいかないけれど随分傾いていた。
幼い頃、事務所の奥の部屋からビー玉を転がしたことがある。いろとりどりのビー玉は、壁を伝い、家具の下の隙間を越えて、入り口の、今ちょうどあたしがいるあたりに集まってぶつかりあった。
いろとりどりのビー玉の代わりにあたしの足元には大きな血だまりができていた。
あたしは人の体に何リットルの血が流れているのかは知らない。
人が1リットルの涙を流すということは何年か前のドラマで見たことはあったけれど。
事務所の奥の暗い部屋から流れてくる血は、人の体に何リットルの血が流れているか知らないあたしにも、ひとりぶんはあるんじゃないかと思えた。
それだけ血を流せば人は死んでしまうということはあたしにもわかった。
誰かが別の誰かをここで殺したのだ。
拳銃による出血にしては多すぎる。
蜂の巣のようにされたあのyoshiという男の子のときだって、こんなに血は流れなかった。
日本刀で何十回も、いろいろな方向、角度から斬りつけたなら、ひょっとしたらこんな風に、床や壁や天井を赤く染めることができるかもしれないと思った。
事務所の奥には日本刀を持ったその誰かが、別の誰かの死体といっしょにいるのだろう。
血だまりのできた事務所の入り口から外へ出ようとすれば、当然そこに向かう足跡があるはずだった。
だけどそんな足跡はなかった。
あたしの頭は冷静にドラマの探偵のように状況を分析した。
だけど人殺しが奥にいるというのに、あたしは危険だとは思わなかった。
逃げようとも思わなかった。
怖いはずなのに、そんな感情はどこかに忘れてきてしまったみたいだった。
血に濡れる足が震えることもなかった。
きっと、あたしには奥に一体誰がいて、誰の死体が転がっているのかわかっていたからだ。
事務所の奥の部屋には、北欧からわざわざ取り寄せた高いばかりで機能性の低いじいさんの机やひとりがけのソファがある。
その誰かは床に転がる死体を暗闇の中で眺めながら、じいさんの机に腰かけて日本刀を肩にかけていた。
月明かりが一瞬刀に反射して、その誰かの顔を明るく照らした。
鬼のような形相をしていたけれど、その顔はあたしのよく知る顔だった。
「田所」
あたしはその誰かの名前を呼んだ。
「お嬢、ですか?」
田所はあたしを呼んだ。
月明かりは床に横たわるじいさんの死体を照らしていた。
「じいさん、殺してくれたんだね?」
あたしは笑っていたかもしれない。
心の奥の方からこみあげてくる笑いをおさえることができなかった。
「もっと早くこうするべきでした」
田所は、じいさんがあたしにヤクザ相手に体を売らせるようになったときから、ずっと謀反を企んでいたらしい。
「だけど、あの頃の私には無理でした。頭に信頼される存在になる必要がありました。頭が私を信頼し、安心しきって、私とふたりきりになる時間ができるくらいの関係になる必要がありました。頭を殺した後で頭に代わって組をまとめあげられるだけの組織を作る必要もありました」
そのために田所は三年もかけたのだという。
「頭の信頼をようやく得たと確信したのは、轟の逮捕のときでした。同時にこの男はもう組をまかせられる頭には値しないと思いました。最早老害にすぎないと」
田所は机から降りると、じいさんの死体をまるでごみのように壁に向かってけりとばした。
「これでもう、お嬢に体を売らせるような真似をさせる者はおりません。この田所は、この三年間、お嬢のことだけを考え、お嬢のためだけに生きてきました。すべてはお嬢を新しい頭にお迎えするためです」
そして、あたしの前にひざまづき、
「八代目組長のご就任、おめでとうございます」
あたしの手をとると、王子様のように手の甲にキスをした。
「早速ですが、私に最初の命令を与えて頂けますか?」
田所はあたしを見上げるとそう言った。
「夏目の組を潰して」
それがあたしの、八代目組長としての最初で最後の命令だった。
さだまさしが全日空の飛行機をハイジャックする夢を見た。
その飛行機にあたしが乗りあわせてしまうわけではなくて、あたしはハルといっしょにテレビでその事件の経過を見守るという夢だった。
その夢の中では、あたしとさだまさしの間には少なからず因縁があるという設定になっていて、どうもあたしのじいさんも元ハイジャック犯という設定らしく、よく覚えていないのだけれどそのあたりがどうも因縁に繋がっていたらしかった。
夢に出てきた有名人はさだまさしだけではなくて、例えば元モーニング娘の飯田圭織が黒人男性と結婚していて、二児の母になっていた。
夢だから、あたしたちの年はそのままなのに、飯田圭織の子供は随分大きくなっていた。
飯田圭織の娘は飯田レナという名前で、幼いながらもモデルとして活躍していて、夢に名前が出てこなかった兄は覚醒剤だか麻薬だかの所持で逮捕されていた。
さだまさしのハイジャックは結局失敗に終わってしまい、結局動機もよくわからなかった。
けれど目を覚ましたあたしは、まるで映画か二時間ドラマのような大作に仕上がっていた夢がおかしくて笑った。
くすくす笑うあたしの笑い声に隣で寝ていた田所が目を覚ました。
あたしたちはふたりとも裸だった。
昨夜、あたしたちはじいさんの死体を山の中に埋めに行った。
「頭は幼い頃から喘息を患ってらっしゃいましたよね」
車が山道を登り始めると、田所は言った。
じいさんは喘息もちだけではなく、斜視でもあった。斜視は手術で簡単に治すことができるのに、じいさんは治そうとはしなかった。その目はじいさんの武器のようなものだったからだ。どんなヤクザもじいさんに睨まれると蛇に睨まれた蛙のように怖じ気付いていた。じいさんは糖尿病も患っていた。
「頭の死はしばらく隠します。持病の治療のため、空気のきれいなところで、軽井沢あたりですかね、療養してもらっているということにします」
あたしは、どうして? と尋ねた。
じいさんの死を組の者たちに知らせなければ、あたしは八代目を襲名できない。
「医者に病死だと嘘の診断書を書かせるのは簡単です。
エンバーミングとか言いましたっけ、どんな死体も生前の姿のようにきれいに見せる技術、あれもありますからね。組の者に病死だと信じさせるのも簡単でしょう。
ですが組の者はほとんど私の側についていますが、一部狂信的に頭を指示している者たちがいます。
彼らが頭の死を知れば、どんな行動を起こすかわかりません。当然私が殺したと疑われるでしょう。私の命が狙われるだけなら構いませんが、お嬢に危害が及ぶ可能性もあります」
なるほど、とあたしは思った。
あたしが八代目を襲名するにしてもしなくても、どちらにしても組のことは田所に任せるしかないのだから、彼の言う通りにした方がいいだろうと思った。
田所は山奥で車を停めると、死体を下ろしスコップで穴を掘り始めた。
手伝うよ、と言ったけれど、田所はスコップがひとつしかありませんから、と言った。お嬢が手を汚す必要はありませんよ、と言った。
あたしは車の助手席で田所がじいさんの死体を埋める穴を掘るのをぼんやりと眺めていた。
田所は穴を掘りながらケータイで部下に事務所の掃除を指示していた。
じいさんを埋め終わると、あたしたちは田所の住む高級マンションの部屋に帰ってセックスした。
田所のことは好きでも何でもなかったけれど、あたしにはもう田所しかいなかった。
田所があたしのことを好きでいてくれているのは知っていたし、彼があたしを求めるなら応えてあげようと思った。あたしにとってセックスはとっくの昔に特別なことじゃなくなっていたから別に構わなかった。
ただ田所に抱かれながら、あたしは誰とでもセックスできるくせに、一番好きな男の子とだけはセックスできない女の子なんだなと思った。
ハルのことを思い出してしまった。
涙があふれてきて、止まらなかった。
そんなあたしを田所は優しく抱き締めて、何度も何度もあたしを愛した。
目を覚ました田所に、あたしは夢の話を聞かせた。
田所は楽しそうにあたしの話を聞いてくれた。
彼は朝からあたしを求めてきて、あたしたちはまた何度も愛し合った。
すべては、夏目メイへの復讐のために。
「いつでも夏目組を襲撃できるよう準備をしておいて。襲撃の指示はあたしが出すから」
あたしは田所にそう言って、彼のマンションの部屋を出た。
車で家まで送ると田所は言ってくれたけれど、あたしは歩いて帰ると言った。
組の事務所とあたしの家は田所のマンションからは正反対の方角にあったし、田所には組長代行としてやらなければいけないことが山積みだったから。
あたしもひとりになって考えたいことがあった。
このたった数日でめまぐるしく移り変わっていったあたしを取り巻く環境に、あたしは果たしてついていけているだろうか、ということ。
いろんなことを無感情に受け入れすぎている気がした。
つらいことも悲しいことも、ひとつひとつ頭の中で整理する時間がほしかった。
ハルのことも。ナオのことも。じいさんのことも。
それから夏目メイのことも。
外は雨が降っていた。明け方から降り始めたらしかった。
天気予報によれば、雨は一日中降り続けるらしい。
神様が泣いているような、悲しい秋の雨だった。
あたしは田所に借りた傘をさして歩いた。
傘は女もので、田所には女がいて、その女が置き忘れていったんだろう。
家を訪ねてきて傘を忘れていくような女がいるのに田所があたしを抱いたことには、あたしは特に何も思わなかった。
男なんてみんなそういうものだ。
女だって付き合ってる男に高価なプレゼントを買ってもらうために股を開く。
一応「恋愛」しているから、それが悪いことだと本人たちは自覚していないけれど、売春と変わらない。
男と女なんて利用しあうだけの関係でしかない。
田所はあたしを理由として利用して組のトップに立ち、あたしは彼を利用して夏目メイに復讐を遂げる。
あたしたちはただそれだけの関係だった。
夏目組を潰すときは、あたしが夏目メイと今度こそ決着をつけるときだ。
あたしが彼女といっしょにいるときに、彼女が組の壊滅を知らなければいけない。
夏目メイは他人から多くのものを奪いすぎた。
だから、夏目メイが麻衣から家族を、すべてを奪ったように、彼女の家族とすべてを奪おう。
まずは小島ゆきだ。
彼女と、政治家をしているという彼女の祖父がいる限り、夏目メイの罪を法は裁けない。すべて揉み消されてしまう。
ゆきに恨みはなかったけれど、彼女には夏目メイのそばから消えてもらおう。
ゆきの祖父、参議院議員金児陽三は夏目組から長年の間、政治献金を受け続けている。その見返りに夏目組が犯した犯罪を警察に圧力をかけて揉み消している。
いつかゆきがあたしに話したその事実は、公表すればゆきの祖父を簡単に失墜させるだけのスキャンダルだ。
だけど、だからと言ってただの女子高生に過ぎないあたしがそんな話をしたところで、誰も見向きもしてはくれないだろう。
匿名で新聞や週刊誌にたれこむにしても、それなりの証拠が必要だ。
そしてあたしはその証拠を何ひとつ持っていなかった。
あたしが利用できる人間ももう限られていた。
ナオも轟ももういない。
田所は夏目組の襲撃の準備でそれどころじゃないだろう。
要を利用するのは簡単だろうけれど気がひけた。
「戸田しかいないか……」
あたしはそう呟いたけれど、戸田も警察の人間だ。キャリア組から脱落した彼が権力に簡単に屈するとは思えないけれど、あたしには彼があたしの思い通りに動いてくれるとは思えなかった。
もう一度ゆきの口から語らせて、それを録音したものを新聞や週刊誌に送りつけるしかないような気がした。
だけどそれも難しいだろう。
あたしは信号のない十字路の真ん中で立ち往生してしまった。
田所のマンションを出てからずっと、あたしのあとをつけていた男の存在に気付いたのはそのときだった。
それが誰かはわからなかったけれど、夏目メイが雇った探偵だろうということは容易に想像できた。
あたしが振り返ると、そこにはもう冬が近いというのに素肌にオーバーオールを着ただけの男が立っていた。
「はじめまして。私立探偵の硲裕葵と申します」
男はそう言うと、うやうやしく頭を垂れた。
          
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