あなたが創ったこの世界をわたしは壊したい。
第34話
一週間後の放課後、夏目メイは要雅雪を空き教室に呼び出した。
告白をするために。
あたしとゆきとアリスは、階段教室の机の陰に隠れて、わずかな隙間から夏目メイのもとに要雅雪がやってくるのを覗いて待った。
「ねー、アリスには先生の良さがちっともわかんないんだけど」
アリスは、まだ夏目メイが告白もしていないのに、もう彼女を要にとられてしまったと思い込んでいるらしく、悔しいのか頬を膨らませて唇を尖らせてそう言った。
「アリスにはまだわかんないよね、大人の男の人の魅力は」
ゆきが言った。
「何よ、それ。ゆきちゃんはいつもアリスをこども扱いする」
アリスはまた頬を膨らませて唇を尖らせた。
「三十いくつだっけ? 要先生。若く見えるけど、結構年いってるんだよね」
先生に恋をして、空き教室に呼び出して、友達に陰から見守らせて、夏目メイがしようとしている告白は、まるでフツーの女の子になるための儀式のように思えた。
だけど生徒と教師の恋が叶うのは安っぽいドラマやケータイ小説の中だけだ。
現実の教師は、中にはそうでもない人もいるだろうけれど、自分の社会的な立場を考えて、教え子に恋なんてしない。
生徒に恋をするのは、はじめからそれが目的で教師になったロリコンの変態だけだ。
要のような。
教え子を誘拐してしまうような。
要は夏目メイの告白になんて答えるだろう。
夏目メイは緊張した顔をして要が来るのを待った。
あたしにはなんだかその顔さえも作り物に見えてしかなかった。
きっと失恋して、友達になぐさめてもらうまでがこの告白の儀式なのだと思った。
「あんたは自分で気付いてないだろうけど、あんたとメイはよく似てるよ」
あの日、ゆきはあたしにそう言った。
あたしと夏目メイが銃を向けあったあの日だ。
「同じヤクザの家に生まれて、フツーの女の子になりたがってて」
そう言われると確かにそんな気がした。
あたしはてっきり麻衣にばかり似ているものだと思い込んでいたけれど、言われてみれば夏目メイにもよく似ていた。
「あたしはメイの手助けはしてあげられても、メイの気持ちはわかってあげられない。アリスは何も知らない。あんただけがわかってやれるんだ」
だから友達になってやってよ。
そう言われて、はいって返事をしてすぐに友達になれるほど、あたしはこどもでもおとなでもなかった。
お互いに拳銃を向けあう、思春期のムズカシイ年頃の女の子だった。
だから数日後、ゆきは、あたしと夏目メイに休戦協定を結ばせることにした。
協定で決められた条件は、
1.お互いの家のことを他人に話さない。
2.お互いのことをかぎまわらない。
といったもので、全部で17条あり、あたしはさすが政治家の孫だと感心した。
あたしと夏目メイはこの協定によって「友達」になった。
あの日あたしが夏目メイに向かって投げつけたYとMとOのストラップは、ゆきがいつの間にか拾っていて、あたしと夏目メイだけが持つ、お揃いの、友達の証になった。
ただこの協定は、あたしたちふたりが対等であるというわけではないらしく、
17.鬼頭結衣は夏目メイがフツーの女の子になるのを邪魔しない。
とあった。
あたしと夏目メイはゆきが用意したその休戦協定調印書に署名と拇印を捺した。
だからあたしはゆきやアリスといっしょに机の陰に隠れて、夏目メイの告白を見守っていた。
あたしは要雅雪が九年前に女子中学生を誘拐し逮捕されていることを夏目メイに話していなかった。
協定には、知っていることをすべて話さなければいけない、というような決まりはなかったし、定められていたとしても話すつもりはなかった。
要本人の口から聞くか、あるいはお得意の身辺調査でもして知って、好きになったことを後悔すればいいと思った。
もっともこんな儀式じみた恋愛で、夏目メイが本気で要のことが好きだとは思えなかったけれど。
夏目メイはただ恋をしてみたいだけなのだ。
相手は要じゃなくても誰でもよかったのだ。
この学園に男子がいなかったから、男性教師の中で一番見映えがよくて、一番近くにいた要を選んだだけだろうと思った。
あたしはそう思っていた。
要が、やってくるまでは。
要雅雪先生へ
ごきげんよう、要先生。
突然、こんなお手紙を差し上げてしまいごめんなさい。
私、どうしても要先生にお話ししたいことがございまして、明日の放課後、お時間を割いていただけたらと思っております。
職員室に先生を訪ねていけるような用件でしたらよかったのですが、あまり皆様に聞かれたくないお話ですので、お手数をおかけ致しますが旧校舎の今はもう使われていない221B教室まで来て頂けたらと思います。
それでは明日の放課後、要先生が来てくださることを心よりでお待ち申し上げております。
夏目メイ
夏目メイは、今日の放課後この教室で待つということを、直接要に伝えていたわけじゃなかった。
昨日、手紙をそっと、提出するノートに忍ばせただけだった。
要は提出物を翌日には返却する、仕事の早い教師だった。
そして今日夏目メイの手元に帰ってきたノートからは、手紙は抜かれていた。
手紙は間違いなく要に届き、少なくともノートといっしょに返ってはこなかったことから、読まずに捨てられているという可能性もないわけではなかったけれど、要がちゃんとこの教室にやってくるのではないか、夏目メイの告白がうまくいくんじゃないかと、ゆきは自分のことのように喜び、アリスはやきもちをやき、そしてあたしはそのことに何の興味も抱けずにいた。
「なんて顔してるの、結衣。友達がこれから告白するっていうときに」
ゆきにそう言われてしまったあたしは、その唇に人指し指を当てた。
廊下から足音が聞こえていた。
片足を引きずるようにして歩く、足の不自由な要の足音だった。
ずっと前、ハルが見せてくれたことがある「マザー3」というニンテンドーのゲームで、主人公の少年の仲間には足が不自由な青年がいて、ハルはドット絵のアニメーションで不自由な足を表現しているのがすごいって自慢げに言って、ゲームをあんまりしないあたしにはよくわからなかったのだけれど、要の歩き方はその青年にとてもよく似ていた。
目を輝かせて興奮ぎみに話すハルを思い出して、あたしの胸はちくりと痛んだ。
あたしの恋はまだ終わってないんだと思った。
足音は教室のドアの前で止まり、夏目メイが大きく深呼吸して、あたしたちは息を潜めた。
ドアが開く。
教室の中を覗き込んだ要が夏目メイの姿を見付けて笑った。
針ではなく文字盤が動く高そうな腕時計に目をやって、
「待たせちゃったかな」
少しだけすまなそうにそう言った。
「いいえ、今来たところですから」
ずっと緊張した表情をしていた夏目メイの顔がぱっと明るくなった。
あたしはその瞬間、理解した。
夏目メイは本当に要のことが好きなのだ、と。
「で、話って何かな、夏目さ」
「先生……」
夏目メイは要の胸に飛び込んだ。
そんな彼女にあたしたちは驚きを隠せなかった。
声をあげそうなアリスの口を、あたしとゆきは手でおさえた。
要もとても驚いた顔をしていた。
けれど、すぐいつもの優しげな顔に戻り、
「どうしたんですか? お友達と何かあったんですか?」
夏目メイの頭を撫でた。
要はピアニストのように白く長く細い指で、夏目メイの髪をすいた。
「人には聞かれたくない話ということでしたね。話してもらえますか?」
要は、まるでこれからキスでもするかのように、夏目メイの顎に手を当て、胸に顔をうずめる彼女の顔を上に、自分に向けた。
そしてもう一度、
「話してもらえますか?」
と訊いた。
夏目メイはまるで、彼の意のままに動く人形のようにこくりとうなづいた。
「先生のことが好きです」
そして彼女は愛の言葉をつむいだ。
長い沈黙が続いた。
要は複雑な表情をしていた。
喜んでいるのか困っているのかわからない顔をしていた。
笑いをこらえているようにも、泣いてしまいそうにも見えた。
その顔は、夏目メイの告白を、ゆっくりと頭の中で噛み締めているように見えた。
返事を待つ夏目メイは、恋をする女の子にしか見えなかった。
彼女が望むフツーの恋をするフツーの女の子にしか。
「困りました」
やがて口を開いた要は、そんな言葉を口にした。
「夏目さんのような聡明な女性が、まさかぼくなんかを好きになってくれるなんて思いもよりませんでした」
その言葉は、夏目メイの告白を受け入れる言葉のように聞こえた。
彼女の顔がぱっと明るくなり、笑顔がこぼれた。
あたしは、要に失望した。
やっぱりか、と思った。
九年前に女子中学生を誘拐して逮捕された男は、再び何食わぬ顔をして教壇に立ち、かつて誘拐した少女に愛されたように夏目メイにも愛され、その愛を受け入れようとしている。
そんなことが許されてもいいのだろうかと思った。
だけど、そうなることがあたしの望みでもあったから、複雑な気持ちだった。
「夏目さんのお気持ちは、ひとりの男として大変喜ばしいことなのですが……」
しかし要はそう言った。
「ぼくとあなたは教師とその生徒です。ぼくは夏目さんの気持ちに答えることはできません」
きっぱりと夏目メイを拒絶した。
「どうして?」
夏目メイの両目から涙があふれ、こぼれた。
「ぼくが誘拐犯だからですよ」
そして要は簡単に、自らの教師生命さえ脅かしかねない過去を夏目メイに告げた。
ゆきとアリスが目を見合わせた。
その事実を知っていたあたしでさえ、要の口から唐突に告げられたことに驚いたから、それが当たり前の反応だろうと思った。
だけど夏目メイは驚くそぶりは見せなかった。
「九年前、ぼくは当時中学生だった少女を誘拐し監禁しました。
ぼくと彼女は、愛し合い何度も結ばれましたが、ぼくたちの愛が世間に受け入れられることはありませんでした。
ぼくは逮捕され、四年間刑務所に服役しました」
知ってる、と夏目メイは泣きながら言った。
彼女は知っていたのだ。
「そんなことくらい知ってるもん。それでも先生のこと好きなんだもん。好きになっちゃったんだもん」
まるでだだをこねる子供のように彼女はそう言った。
知っていて、要のすべてを受け入れる覚悟が彼女にはあったのだ。
それなのに要に拒絶されてしまった。
ひょっとしたらそれは彼女にとってはじめて受ける他者からの拒絶かもしれなかった。
「出所したぼくは彼女に、マヨリに会うことを禁じられていましたが、会いに行かずにはおられませんでした。
マヨリは高校を卒業して、もう結婚していました。
ぼくは刑務所の中でマヨリのことばかり考えて過ごしていました。
しかしマヨリはぼくのことなど忘れて、他に男を作り赤ん坊を体に宿していたのです」
要は優しく、あたしやきっと夏目メイも知らない出所後の出来事について話した。
「ぼくはその事実に傷つき、うちひしがれました。
うちひしがれたぼくはやがて、愛してはいけない人を愛してしまいました。
女子中学生を誘拐し逮捕されたようなぼくを、唯一受け入れてくれたのは父の後妻だった弥生(やよい)という人だけでした。
そして三年前の冬、大雪の降る寒い夜のことでした。
ぼくは弥生さんを助手席に乗せて旅行に出かけ、事故を起こしました。
雪の山道の急なカーブでぼくたちの乗る車は対向車にぶつかり、対向車に乗っていた夫婦と弥生さんは亡くなり、ぼくは一命を取り留めましたがこの通り、足の不自由な体になりました」
あたしの両親が死んだのも三年前の冬だった。
雪の降る、その年で一番寒い日のことだった。
雪の山道で、あたしの両親が乗る車は急カーブで対向車にぶつかり、ふたりは死んだ。
対向車の助手席にいた女の人も死んで、運転していた男の人だけが一命を取り留めたと聞いた。
はじめて要に会ったとき、あたしはどこかで見たことがある顔だと思った。
戸田という刑事から要の誘拐事件のことを聞いて、九年前のテレビのニュースで彼の顔を見たのだと思った。
だけど違っていた。
要の顔を見たのは九年も前のことじゃなかった。テレビじゃなかった。
あたしは三年前に、病院を退院したこの男が、じいさんを訪ねてきたときに会っているのだ。
「ぼくのこの不自由な体が、ぼくに与えられた罰なのです」
もし本当に、要があの対向車の運転手なら、じいさんに日本刀で斬りつけられた傷が、左肩から右脇腹にかけてあるはずだった。
要は背広を脱ぎ、シャツを脱いだ。
そこには大きな切り傷があった。
間違いなかった。
「ぼくは二度と人を愛することができない体なんです。
だからたとえ教師と生徒という関係でなくとも、ぼくがあなたを愛することはありえません」
ズボンを下ろし、下着までも要は脱いだ。
夏目メイも、あたしも、ゆきもアリスも、その光景にただ目を奪われていた。
要の下腹部にあるはずのものがなかったからだ。
要には、ペニスがなかった。
          
告白をするために。
あたしとゆきとアリスは、階段教室の机の陰に隠れて、わずかな隙間から夏目メイのもとに要雅雪がやってくるのを覗いて待った。
「ねー、アリスには先生の良さがちっともわかんないんだけど」
アリスは、まだ夏目メイが告白もしていないのに、もう彼女を要にとられてしまったと思い込んでいるらしく、悔しいのか頬を膨らませて唇を尖らせてそう言った。
「アリスにはまだわかんないよね、大人の男の人の魅力は」
ゆきが言った。
「何よ、それ。ゆきちゃんはいつもアリスをこども扱いする」
アリスはまた頬を膨らませて唇を尖らせた。
「三十いくつだっけ? 要先生。若く見えるけど、結構年いってるんだよね」
先生に恋をして、空き教室に呼び出して、友達に陰から見守らせて、夏目メイがしようとしている告白は、まるでフツーの女の子になるための儀式のように思えた。
だけど生徒と教師の恋が叶うのは安っぽいドラマやケータイ小説の中だけだ。
現実の教師は、中にはそうでもない人もいるだろうけれど、自分の社会的な立場を考えて、教え子に恋なんてしない。
生徒に恋をするのは、はじめからそれが目的で教師になったロリコンの変態だけだ。
要のような。
教え子を誘拐してしまうような。
要は夏目メイの告白になんて答えるだろう。
夏目メイは緊張した顔をして要が来るのを待った。
あたしにはなんだかその顔さえも作り物に見えてしかなかった。
きっと失恋して、友達になぐさめてもらうまでがこの告白の儀式なのだと思った。
「あんたは自分で気付いてないだろうけど、あんたとメイはよく似てるよ」
あの日、ゆきはあたしにそう言った。
あたしと夏目メイが銃を向けあったあの日だ。
「同じヤクザの家に生まれて、フツーの女の子になりたがってて」
そう言われると確かにそんな気がした。
あたしはてっきり麻衣にばかり似ているものだと思い込んでいたけれど、言われてみれば夏目メイにもよく似ていた。
「あたしはメイの手助けはしてあげられても、メイの気持ちはわかってあげられない。アリスは何も知らない。あんただけがわかってやれるんだ」
だから友達になってやってよ。
そう言われて、はいって返事をしてすぐに友達になれるほど、あたしはこどもでもおとなでもなかった。
お互いに拳銃を向けあう、思春期のムズカシイ年頃の女の子だった。
だから数日後、ゆきは、あたしと夏目メイに休戦協定を結ばせることにした。
協定で決められた条件は、
1.お互いの家のことを他人に話さない。
2.お互いのことをかぎまわらない。
といったもので、全部で17条あり、あたしはさすが政治家の孫だと感心した。
あたしと夏目メイはこの協定によって「友達」になった。
あの日あたしが夏目メイに向かって投げつけたYとMとOのストラップは、ゆきがいつの間にか拾っていて、あたしと夏目メイだけが持つ、お揃いの、友達の証になった。
ただこの協定は、あたしたちふたりが対等であるというわけではないらしく、
17.鬼頭結衣は夏目メイがフツーの女の子になるのを邪魔しない。
とあった。
あたしと夏目メイはゆきが用意したその休戦協定調印書に署名と拇印を捺した。
だからあたしはゆきやアリスといっしょに机の陰に隠れて、夏目メイの告白を見守っていた。
あたしは要雅雪が九年前に女子中学生を誘拐し逮捕されていることを夏目メイに話していなかった。
協定には、知っていることをすべて話さなければいけない、というような決まりはなかったし、定められていたとしても話すつもりはなかった。
要本人の口から聞くか、あるいはお得意の身辺調査でもして知って、好きになったことを後悔すればいいと思った。
もっともこんな儀式じみた恋愛で、夏目メイが本気で要のことが好きだとは思えなかったけれど。
夏目メイはただ恋をしてみたいだけなのだ。
相手は要じゃなくても誰でもよかったのだ。
この学園に男子がいなかったから、男性教師の中で一番見映えがよくて、一番近くにいた要を選んだだけだろうと思った。
あたしはそう思っていた。
要が、やってくるまでは。
要雅雪先生へ
ごきげんよう、要先生。
突然、こんなお手紙を差し上げてしまいごめんなさい。
私、どうしても要先生にお話ししたいことがございまして、明日の放課後、お時間を割いていただけたらと思っております。
職員室に先生を訪ねていけるような用件でしたらよかったのですが、あまり皆様に聞かれたくないお話ですので、お手数をおかけ致しますが旧校舎の今はもう使われていない221B教室まで来て頂けたらと思います。
それでは明日の放課後、要先生が来てくださることを心よりでお待ち申し上げております。
夏目メイ
夏目メイは、今日の放課後この教室で待つということを、直接要に伝えていたわけじゃなかった。
昨日、手紙をそっと、提出するノートに忍ばせただけだった。
要は提出物を翌日には返却する、仕事の早い教師だった。
そして今日夏目メイの手元に帰ってきたノートからは、手紙は抜かれていた。
手紙は間違いなく要に届き、少なくともノートといっしょに返ってはこなかったことから、読まずに捨てられているという可能性もないわけではなかったけれど、要がちゃんとこの教室にやってくるのではないか、夏目メイの告白がうまくいくんじゃないかと、ゆきは自分のことのように喜び、アリスはやきもちをやき、そしてあたしはそのことに何の興味も抱けずにいた。
「なんて顔してるの、結衣。友達がこれから告白するっていうときに」
ゆきにそう言われてしまったあたしは、その唇に人指し指を当てた。
廊下から足音が聞こえていた。
片足を引きずるようにして歩く、足の不自由な要の足音だった。
ずっと前、ハルが見せてくれたことがある「マザー3」というニンテンドーのゲームで、主人公の少年の仲間には足が不自由な青年がいて、ハルはドット絵のアニメーションで不自由な足を表現しているのがすごいって自慢げに言って、ゲームをあんまりしないあたしにはよくわからなかったのだけれど、要の歩き方はその青年にとてもよく似ていた。
目を輝かせて興奮ぎみに話すハルを思い出して、あたしの胸はちくりと痛んだ。
あたしの恋はまだ終わってないんだと思った。
足音は教室のドアの前で止まり、夏目メイが大きく深呼吸して、あたしたちは息を潜めた。
ドアが開く。
教室の中を覗き込んだ要が夏目メイの姿を見付けて笑った。
針ではなく文字盤が動く高そうな腕時計に目をやって、
「待たせちゃったかな」
少しだけすまなそうにそう言った。
「いいえ、今来たところですから」
ずっと緊張した表情をしていた夏目メイの顔がぱっと明るくなった。
あたしはその瞬間、理解した。
夏目メイは本当に要のことが好きなのだ、と。
「で、話って何かな、夏目さ」
「先生……」
夏目メイは要の胸に飛び込んだ。
そんな彼女にあたしたちは驚きを隠せなかった。
声をあげそうなアリスの口を、あたしとゆきは手でおさえた。
要もとても驚いた顔をしていた。
けれど、すぐいつもの優しげな顔に戻り、
「どうしたんですか? お友達と何かあったんですか?」
夏目メイの頭を撫でた。
要はピアニストのように白く長く細い指で、夏目メイの髪をすいた。
「人には聞かれたくない話ということでしたね。話してもらえますか?」
要は、まるでこれからキスでもするかのように、夏目メイの顎に手を当て、胸に顔をうずめる彼女の顔を上に、自分に向けた。
そしてもう一度、
「話してもらえますか?」
と訊いた。
夏目メイはまるで、彼の意のままに動く人形のようにこくりとうなづいた。
「先生のことが好きです」
そして彼女は愛の言葉をつむいだ。
長い沈黙が続いた。
要は複雑な表情をしていた。
喜んでいるのか困っているのかわからない顔をしていた。
笑いをこらえているようにも、泣いてしまいそうにも見えた。
その顔は、夏目メイの告白を、ゆっくりと頭の中で噛み締めているように見えた。
返事を待つ夏目メイは、恋をする女の子にしか見えなかった。
彼女が望むフツーの恋をするフツーの女の子にしか。
「困りました」
やがて口を開いた要は、そんな言葉を口にした。
「夏目さんのような聡明な女性が、まさかぼくなんかを好きになってくれるなんて思いもよりませんでした」
その言葉は、夏目メイの告白を受け入れる言葉のように聞こえた。
彼女の顔がぱっと明るくなり、笑顔がこぼれた。
あたしは、要に失望した。
やっぱりか、と思った。
九年前に女子中学生を誘拐して逮捕された男は、再び何食わぬ顔をして教壇に立ち、かつて誘拐した少女に愛されたように夏目メイにも愛され、その愛を受け入れようとしている。
そんなことが許されてもいいのだろうかと思った。
だけど、そうなることがあたしの望みでもあったから、複雑な気持ちだった。
「夏目さんのお気持ちは、ひとりの男として大変喜ばしいことなのですが……」
しかし要はそう言った。
「ぼくとあなたは教師とその生徒です。ぼくは夏目さんの気持ちに答えることはできません」
きっぱりと夏目メイを拒絶した。
「どうして?」
夏目メイの両目から涙があふれ、こぼれた。
「ぼくが誘拐犯だからですよ」
そして要は簡単に、自らの教師生命さえ脅かしかねない過去を夏目メイに告げた。
ゆきとアリスが目を見合わせた。
その事実を知っていたあたしでさえ、要の口から唐突に告げられたことに驚いたから、それが当たり前の反応だろうと思った。
だけど夏目メイは驚くそぶりは見せなかった。
「九年前、ぼくは当時中学生だった少女を誘拐し監禁しました。
ぼくと彼女は、愛し合い何度も結ばれましたが、ぼくたちの愛が世間に受け入れられることはありませんでした。
ぼくは逮捕され、四年間刑務所に服役しました」
知ってる、と夏目メイは泣きながら言った。
彼女は知っていたのだ。
「そんなことくらい知ってるもん。それでも先生のこと好きなんだもん。好きになっちゃったんだもん」
まるでだだをこねる子供のように彼女はそう言った。
知っていて、要のすべてを受け入れる覚悟が彼女にはあったのだ。
それなのに要に拒絶されてしまった。
ひょっとしたらそれは彼女にとってはじめて受ける他者からの拒絶かもしれなかった。
「出所したぼくは彼女に、マヨリに会うことを禁じられていましたが、会いに行かずにはおられませんでした。
マヨリは高校を卒業して、もう結婚していました。
ぼくは刑務所の中でマヨリのことばかり考えて過ごしていました。
しかしマヨリはぼくのことなど忘れて、他に男を作り赤ん坊を体に宿していたのです」
要は優しく、あたしやきっと夏目メイも知らない出所後の出来事について話した。
「ぼくはその事実に傷つき、うちひしがれました。
うちひしがれたぼくはやがて、愛してはいけない人を愛してしまいました。
女子中学生を誘拐し逮捕されたようなぼくを、唯一受け入れてくれたのは父の後妻だった弥生(やよい)という人だけでした。
そして三年前の冬、大雪の降る寒い夜のことでした。
ぼくは弥生さんを助手席に乗せて旅行に出かけ、事故を起こしました。
雪の山道の急なカーブでぼくたちの乗る車は対向車にぶつかり、対向車に乗っていた夫婦と弥生さんは亡くなり、ぼくは一命を取り留めましたがこの通り、足の不自由な体になりました」
あたしの両親が死んだのも三年前の冬だった。
雪の降る、その年で一番寒い日のことだった。
雪の山道で、あたしの両親が乗る車は急カーブで対向車にぶつかり、ふたりは死んだ。
対向車の助手席にいた女の人も死んで、運転していた男の人だけが一命を取り留めたと聞いた。
はじめて要に会ったとき、あたしはどこかで見たことがある顔だと思った。
戸田という刑事から要の誘拐事件のことを聞いて、九年前のテレビのニュースで彼の顔を見たのだと思った。
だけど違っていた。
要の顔を見たのは九年も前のことじゃなかった。テレビじゃなかった。
あたしは三年前に、病院を退院したこの男が、じいさんを訪ねてきたときに会っているのだ。
「ぼくのこの不自由な体が、ぼくに与えられた罰なのです」
もし本当に、要があの対向車の運転手なら、じいさんに日本刀で斬りつけられた傷が、左肩から右脇腹にかけてあるはずだった。
要は背広を脱ぎ、シャツを脱いだ。
そこには大きな切り傷があった。
間違いなかった。
「ぼくは二度と人を愛することができない体なんです。
だからたとえ教師と生徒という関係でなくとも、ぼくがあなたを愛することはありえません」
ズボンを下ろし、下着までも要は脱いだ。
夏目メイも、あたしも、ゆきもアリスも、その光景にただ目を奪われていた。
要の下腹部にあるはずのものがなかったからだ。
要には、ペニスがなかった。
          
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