ドリーワン ~夢を見たとき、その夢からひとつだけ現実世界に持ち帰ることができる。夢を見なかった場合、現実の世界において大切なものを順番にひとつずつ失う。 ~

雨野美哉(あめの みかな)

第1話

立てこもり事件が起きて、8時間が経過した。

事件が起きたのはぼくたちが住む町で、午後4時頃のことだった。

元暴力団の男が、息子と娘を銃で撃ち、妻を人質にして、自宅に立てこもったのだという。

「妻」が「人質」とか、「自宅」に「立てこもり」とか、成立しそうにない言葉の組み合わせにぼくは戸惑い、学校から帰ってきた妹を部屋に招き入れてテレビの前で事件の経過を見守った。

犯人が所持した銃の射程距離が300メートルであることから(射程距離が300メートルの銃なんて聞いたことがなかったけれど、報道の誤りなどではなく確かに300メートルらしい)、渦中の家の半径300メートルは警察によって道路が封鎖され、近所の大学では家に帰れない学生を校舎内に宿泊させることにしたそうだ。

「よかった、もう少しで帰れなくなるところだった」

妹はそう言って、ぼくにもたれかかった。ぼくはその小さな肩を抱いた。

静かな住宅街は、ときどき小学校のそばに変質者が出たり、交通事故が起きたりするくらいで、何年か前にはすぐそばで万博が行われたりしたけれど、こんな事件が起きたことはぼくたちが生まれてから一度もなかった。

警察官がひとり撃たれ、5時間後にようやく救出された。

その救出劇で、SATの隊員がひとり撃たれた。23歳の機動隊員は意識不明の重態だ。

「かわいそう」

妹は言った。

ぼくは、それは違う、と言った。

警察官になる、ということは、殉職することも覚悟の上ということなのだ。

ニュースは変わり、母親を殺してその頭部を交番に持参した少年についての続報をキャスターは伝える。父親は、母親を殺害した少年の親ではなく、殺害された母親の夫として手記を書いたという。
それも違う、とぼくは思う。

親になる、ということは、自分のこどものすべてを背負う、ということなのだ。
誕生日に息子に殺されて頭部を切断されたとしても同情すべき点は一点もないし、妻を息子に殺されたとしてもそれが間違いであるならば父親として息子を律するべきなのだ。最後まで。

ぼくは妹にそんな話をした。

「お兄ちゃんは冷たいね」

キャスターは再びたてこもり事件の続報を伝える。機動隊員が死亡した。

「ひきこもりのくせに」

犯人はまだ立てこもっている。

妹はつないでいた手をはなして、部屋を出ていった。

まだ温もりの残る右手を見つめながら、ぼくは3日前から机の引き出しに入っている【拳銃】について考えていた。





夢を見ない夜は嫌いだった。

寝てしまったら次の瞬間には朝になってしまうから。

隣の部屋の妹の目覚まし時計の音が嫌いだった。

新しい一日の始まりを告げる音だから。

壁に白い【チョーク】で記した「正」の字の棒の数が今日もまた増える。

ひきこもり生活307日目。

チョークをどこから拝借してきたのかぼくは記憶になかった。最後に学校に行った日、教室からくすねてきたのだろうか。ある朝床に転がっていた気もする。

手の中のチョークに一瞬違和感を覚え、ぼくは瞬きを繰り返した。それでも違和感は消えてはくれない。

妹は寝起きが悪く、始まりを告げる音は何度も鳴っては止まり、また鳴りはじめる。携帯のアラーム音も鳴り始めた。

何度目かのアラームでぼくは睡眠を諦める。

目やにでくっついた瞼を開けるには少し時間がかかる。

ぼくは今朝見た夢を思い出しながら、ゆっくりと瞼を開けはじめる。

自動販売機でドミノ倒しをする夢だった。

ピラミッドの建造にかりだされた奴隷のように、ぼくは自販機を背負って運び、ぼくが並べる横で田村正和が無邪気なあの刑事の顔で笑いながら自販機を倒すのだ。

またはじめからやりなおし。

ドミノは結局完成しなかった。

「麻衣、いい加減起きなさい」

階段の下から五分おきに母の甲高い声が響く。

その声がぼくは嫌いだ。

妹がようやく布団からもぞもぞと起き上がる頃、ぼくのまぶたは開く。

まぶたは開いてもまだ体は思うように動かない。指先が動くようになるまで五分、手足を自由に動かせるまでにさらに十分、起き上がるにはそれから三十分はかかる。

十時間以上寝ても体の疲れはとれず、疲労は日々蓄積していく。

妹の部屋のドアが開いた。

「わかってるってー」

妹がはだしでぺたぺたと階段を降りていく。

いつも変わらない毎朝の音。

「おにーちゃん、あさごはーん」

「やめなさい、どうせおりてこないわよ」

母のお決まりの台詞。

「行ってきまーす、お父さん」

遺影の父はいつも寡黙で、

「おにーちゃん、わたし先に学校行くからねー。遅刻しちゃだめだよー」

妹は今日も元気だ。

「麻衣、学のことはそっとしときなさいって何度言ったらわかるの!」

母は朝から耳障りだ。

「ごめんなさーい。じゃ、行ってきまーす」

「あ、麻衣、わすれもの!」

ぼくは目を開ける。

そして、目を疑った。

目を覚ますとぼくの部屋に【自動販売機】があった。





妹が学校から帰る音を聞き、ぼくは部屋のドアにつけられた幾重もの鍵をひとつひとつ解錠する。

階段を登ってくる妹を、ぼくはドアを少しだけ開けて部屋に招きいれた。

「何これ」

それが、昨日ぼくの部屋に突如現れた自動販売機を見た妹の第一声だった。

「自動販売機」

ぼくはその質問に淡々と答えるほかない。

「それは見たらわかるけど、何でまたお兄ちゃんの部屋に」

ぼくは首を横に振る。

「本当は昨日見せたかったんだけどさ、昨夜はバレエ教室だったろ」

ぼくは頭をかきながら妹が伸ばしてきた手をつないだ。

「それに何か変だよ。何て言ったらいいのかな、ここにあるのに、ここにない、みたいな」

それはぼくも感じていた。

まるで写真から切り取った自販機を別の写真に貼りつけたような違和感があった。だけど確かにここにあるし、触れることができた。

そういえば、机の引き出しの中の拳銃もそうだった。

「夢遊病の気があったっけ?」

「ないよ。あったとしてもこんなものどうやって運ぶんだよ」

「ひきこもりのお兄ちゃんの自我に抑圧されたもうひとりのお兄ちゃんがなんとかかんとかー」

「なんだよ、それ」

「わかんない」

「使えるの?」

「うん」

ぼくは自販機に携帯をかざしてペットボトルを一本買って見せた。

「しかも携帯で買えちゃうんだ」

「飲む?」

「お兄ちゃんは飲んだ?」

「うん。飲んだよ。変な味はしなかった。普通のコカコーラ。でも、これ、ちょっと変でさ」

ぼくはペットボトルのラベルの賞味期限が書かれた箇所を指差した。

妹は何度もまばたきを繰り返してそれを見る。

「何これ」

そこにはモザイクがかかっていた。

ラベル自体にモザイクがかけられているわけではなく、ぼくたちの目がそれを見るのを拒否しているかのようにモザイクがかかっている。

テレビのモザイク映像を見ているようだった。

「な、変だろ」

「うん、変」

妹も携帯で一本買った。

そしてぼくが一口飲むのを確認してから口をつける。

「普通においしいね」

自販機には妹が好きなミルクティーもあった。ぼくは携帯をもう一度かざしてそれを三本買う。ミルクティーは温かかった。妹に手渡すと、

「あ、ありがとう」

嬉しそうに笑う。ぼくは妹の笑顔がとても好きだ。

「ほしくなったらまたあげるよ。だから」

「だから?」

「母さんには言うなよ」

「うん。あ」

妹はミルクティーの賞味期限を指差した。

「これにもモザイクかかってる」





ひきこもりをしていて困るのは毎日をどうやり過ごすかということに尽きると思う。

妹が学校から帰ってくるまでの八時間あまり、ぼくには何もすることがなかった。

何もすることがないというのは楽なようで案外厄介だ。

ひきこもりはじめたばかりの頃は、したいことがたくさんあった。

妹にお金を渡してブックオフで漫画やゲームを買ってきてもらった。

だけど漫画は十冊程度なら1日で読み終わってしまうし、ゲームも3日もあればクリアしてしまう。

読みたい本もしたいゲームも貯金もすぐになくなった。あまり経済的じゃなかった。

今では週に一度ジャンプを買ってきてもらうだけだけれど、それもやめようかと考えている。先週号でぼくの好きな漫画がふたつも打ち切られたばかりだ。

インターネット上のおもしろいと評判のサイトもあらかた読み終えてしまった。
ゲームもほとんどプレイ済みで今はもうパソコンのごみ箱にもない。

無料のオンラインゲームをはじめてみたけれど、3日でやめた。

はじめてパーティを組んだ魔法使いの女の子が誘ってくれたミクシィもすぐに飽きてやめてしまった。2ちゃんねるも「ひきこもりは帰れ」というような書き込みをされてから覗いていない。

とりあえず、ぼくと同じように時間をもてあましている人たちはネット上にはたくさんいる、ということはわかった。

だけどそれだけだ。

ぼくはその人たちと同じ時間を過ごしたいとは思わなかったし、彼らだってそうだろう。

ブログスペースを借りてこの日記を書きはじめたのはそんな理由からだ。

ただ妹が帰ってくるまでの時間を潰せさえすればいい。

だからぼくはコメントもトラックバックもいらない。

妹とお金を出しあって買ったDVDレコーダーが、今日も1日中テレビドラマや映画を録画しつづけている。

録画したそれらを見ていれば、毎週何十時間かは時間を潰すことができた。

お金がないの再放送を見ていると妹が帰ってきた。

「またやってるんだそのドラマ」

呆れたように溜め息をつく。

織田裕二にはいつもお金がない。

ぼくにないのは一体何だろう。



          

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