RINNE -友だち削除-

雨野美哉(あめの みかな)

プロローグ 2013年10月4日、金曜日

ぼくは中学1年の二学期に不登校になった。

そのきっかけは今思えば些細なことで、その年の体育祭で、ぼくたちの学年は出し物としてダンスをすることになっていた。
ぼくが風邪をひいて40度の高熱を出し病欠した日、体育の授業ではみんなが新しいダンスを覚えていた。
翌日、前日にぼくが休んだことを知ってか知らずか、体育教師がぼくにクラスのみんなの前で披露するように言い、当然ぼくにはそれができるわけもなく、みんなの前で体育教師から「なぜできないのか」と、激しく叱られることとなり、ぼくは赤っ恥をかかされた。
最初は1日、仮病を装って休むだけのつもりだった。
1日休むと、体育祭まで行きたくなくなってしまった。
体育祭が終わるまで休むと、二学期の間は行きたくなくなった。
そうしてぼくは以来一度も学校に行かないまま、中学校を卒業した。

そんなぼくにも行ける公立の高校があったのだから、世の中というものは不思議なものだ。
母さんが何度か担任の教師に学校に呼び出され、高校受験の手続きをすませると、ぼくは町内にある最底辺の公立高校を受験することになった。
中学校にもろくにいかず、当然内申点はボロボロ、おまけに受験勉強なんてまるでしてなかったぼくが合格するとは母さんも姉ちゃんもまさか夢にも思わなかったろう。
その高校には姉ちゃんも通っていた。
本当はN市のもっと内申点の高い高校に行くこともできたのだけれど、姉ちゃんは電車やバス通学がしたくないからという理由でその高校を選んだ。
だから、学力テストではいつも学年一位だ。

高校生活に期待に胸を膨らませていたかどうかと言えばノーだ。
高校には最初の三日だけ通った。
今日から授業が始まるという四日目に、ぼくは行きたくないと駄々をこねて、また不登校になった。
今回は特に理由なんてなかった。
たぶん、ぼくはもう学校には行けないのだろうなと思った。
母さんは受験費用や、制服や教科書代に十万円以上も使ったのに、とぼくを罵ったけれど、ぼくはもうなんとも思わなかった。
ぼくは高校に行きたいなんて一言も言ってなかったから。
ぼくは近くの病院の精神科に連れていかれ、診断を受けたけれど、何の異常もないと言われた。
母さんとしては、それはきっと不本意だったことだろう。
自分の教育が間違っていたとは思いたくないだろうし、ぼくが何かしら精神病を患っているとわかれば、それを息子の不登校の理由にできる。
けれどそうはならなかった。
母さんはもう、ぼくに学校に行けとは言わなくなった。
ようやく諦めてくれたのだと思う。
学校に行かないなら働け、とでも言われるかと思っていたけれど、それも言われなかった。
ただ泣きながらぼくの部屋のドアの前で、
「あんたのことは母さんが生きてる限り一生面倒を見ていくから」
と言った。
当然だとぼくは思った。
ぼくは生んでくれとも頼んだ覚えはないのだ。
「お願いだからもう死んでちょうだい」
とも言った。
ひどい話だ。
勝手に産み落としておいて、勝手に期待されて、勝手に失望されて、ぼくはずっといい迷惑をしていた。
この家のこどもはぼくだけじゃない。
姉ちゃんもいるし、弟もいる。
小学生の弟は本当に勉強のできない出来損ないのクズだけれど。
何しろ、学校の算数のテストで、7、14、21、28日の日曜日に印がつけてあるカレンダーの問題があり、その四つの日に共通するものは何かという問いに対して、「7の倍数」ではなく「休み」と解答したくらいの馬鹿だ。それに対し、「わたしは日曜日も働いているでしょ」と言った母さんも母さんだけれど。
弟は学校に通っているだけぼくよりはマシなんだろうけど、馬鹿は馬鹿だ。
まぁ姉ちゃんがいるから、この家は大丈夫だろうとぼくは思う。

高校三年の姉ちゃんにはバイト先で知り合った25歳の彼氏がいる。
姉ちゃんにとって同い年の男子はまだまだこどもすぎるらしい。
ぼくはその男のことが嫌いだった。
何度か姉ちゃんが家に連れてきて、母さんもその男を気に入っていて、家族ぐるみといってもいい付き合いをしていた。母さんや弟がその男の家に言ったという話を聞いたことはなかったけれど、姉ちゃんはあるのかもしれない。
その男が家族ぐるみの付き合いにぼくも混ぜようと、何かにつけてひきこもりのぼくを部屋から出そうとするのが不快だった。
ぼくは一度も部屋から出なかったから、その男の顔は知らない。知っているのは声と名前だけだ。
その男はまるで牧師か、坊主か、違うな、まるで聖人のような口調でぼくに教えを説くように語りかけた。
名前は確か、加藤学。

「ぼくも高校生の頃に不登校だったんだ」
と、その日その男はぼくの部屋のドア越しにそう言った。
「でも、ぼくを支えてくれた妹がいて、部屋から連れ出してくれた女の子がいて、ぼくはどうにかして高校に復学した。留年しちゃったけどね。なんとか大学も卒業して、今は君のお姉さんのバイト先で働いてる。フリーターだけど」
そう言って、その男はドアの前の床に、ゴトリと何かを置いた。
「ここに携帯電話を置いておくよ。君は携帯電話を持ってないだろう? ぼくの名義で契約したものだけど、気にせず好きなだけ使っていい」
その代わりひとつ条件がある、とその男は言い、
「ぼくとRINNEをしてほしい」
と言った。
「RINNEっていうのは何か知ってるかい?」
そう問われ、ぼくが無言のままでいると、
「スマートフォンのアプリのひとつで、簡単に言えばメールより手軽に会話ができるものだよ。チャットってわかるかい? あれに近いかな。無料で通話もできるんだけど、通話はあんまり性能がよくないし、君がぼくと通話したいとは思わないから、文字だけのやりとりで構わないから」
そう言って、その男は立ち上がると、ぼくの部屋の前から立ち去った。
ぼくがドアを開けると、箱に入った新品の携帯電話があった。
箱は赤く、血のような色をしていた。
どこの携帯会社かとか、製造元がどこかとか、何ていう機種の携帯電話なのか、普通は箱に書いてあるものだと思うのだけれど、箱にはどこにも書いてなかった。
箱の中の携帯電話も、充電器も、取り扱い説明書も、何もかもが赤かった。
携帯電話自体にも、携帯会社や製造元の名前は書かれていなかった。
箱から携帯電話を取り出すと、思ったより重くなかった。
充電はされていたようで、携帯電話を右手で持つとちょうど親指があたる位置に電源ボタンがあった。
ぼくはそのボタンを押す。
電源を入れても、やはり携帯会社や製造元の名前は表示されない。
一体どういうことだろう、そう思った瞬間、ぼくは背後に何かの気配を感じて振り返った。
そこには女の子がいた。

「はじめまして、草詰アリス(くさつめありす)です」
女の子はにっこりと笑うと、スカートの裾をつまんでぼくにペコリと挨拶をした。
最近インターネットの動画サイトなんかで流行ってる音声合成技術で歌を唄うアンドロイドみたいな格好をしていた。
一体どこから入ってきたというのだろう。
ぼくの部屋にドアはひとつしかない。先程まで姉ちゃんの彼氏がいて、ぼくが今開けているドアだけだ。
窓は開いていないし、割られた形跡もない。第一この部屋はマンションの8階だ。
「あ、今、アリスがどこから入ってきたのかって考えてますよね?」
草詰アリスと名乗った女の子はぼくに近寄ってそう言った。
「部屋のドアはそこしかないし、窓から侵入した形跡もない、じゃあ一体どこからアリスが入ってきたのか知りたくてしょうがないって顔をしてますよご主人様」
「ご、ご主人様?」
「はい、ご主人様はアリスのご主人様です」
女の子は笑ってそう言った。
どうやらご主人様というのはぼくのことらしい。
「お前、何者だ?」
ぼくが問うと、
「ご主人様がご主人様なら、アリスはメイドに決まってるじゃないですか」
女の子は意味のわからないことを言う。
メイドってことは、母さんがぼくの身の回りの世話をさせるために雇ったってことだろうか?
一瞬そう考えてぼくはすぐに、それはないな、と思った。
うちは半年前に父さんが飛行機事故で死んだ。
詳しくは知らないけれど、父さんは国立の研究所で何か大事な研究をしていたと聞いている。
母さんはそれなりの保険金をもらい、航空会社からもいずれ慰謝料をもらうだろうけれど、母さんはぼくはともかく、姉ちゃんや弟を大学まで行かせようと思っている。
姉ちゃんはたぶん、国立のお金のかからない大学に行くだろうし、私立に行くとしても母さんに面倒をかけないよう奨学金をもらえるような大学に行くはずだ。頭がよく、容姿もいい。きっといい会社に就職するだろう。ひょっとしたら地方のテレビ局の女子アナくらいにはなるかもしれない。
問題は弟で、頭が悪く太っていて、ゲームと女の子のことしか頭にないあいつはきっと、ぼくにでも入学できた高校にすら行けないだろう。公立以下の私立高校に行き、私立でも最底辺の大学に行き、父さんが遺してくれたお金を食いつぶすのが目に見えていた。
母さんはもうぼくのことなど見てもいない。ぼくはずっと、未来永劫この部屋で過ごすのだ。そんなぼくのためにメイドを雇うはずがなかった。
けれど、そのあとにぼくが考えたのは、もっとありえないことだった。
この女の子はどこから入ってきたのかわからず、ぼくが携帯電話の電源を入れた瞬間に現れた。
それはつまり、
「もしかして、この携帯電話から出てきたわけじゃないよな?」
自分でもありえないと思いながらその言葉を口にしたが、女の子の顔がぱーっと明るくなった。
「すっごーい、よくわかりましたね!」
俺はその言葉に頭を抱えた。
テレビの携帯電話のCMで、携帯電話が人の姿をしていて、持ち主のそばを片時も離れないなんていうのがあったけれど、この女の子は自分がそれであると言っているのだ。
そんな技術が現代日本にあるわけがない。
この女の子はどうやってかは知らないけれど、ぼくの部屋に奇妙な格好で侵入して、そして今ぼくをからかっているのだ。
「と、口にしてみたものの、ありえないって顔をしてらっしゃいますねご主人様」
当たり前だろ、とぼくは思う。
「じゃあ、それを今から証明しますので、携帯電話の電源を切ってください。あ、でもすぐに電源を入れ直してくださいね」
ぼくは言われた通り携帯電話の電源を切った。
すると、たった今まで目の前にいた女の子がまるで神隠しにあったかのように消えた。
まるで悪い夢を見ているかのようだった。
いや、きっと本当に悪い夢を見ているのだ。
でも一体どこからが夢なのだろう?
姉ちゃんの彼氏が訪ねてきたときから?
あるいはもっと前から?
ひょっとしたら、ぼくが不登校のひきこもりで、どうしようもないクズだってことも夢かもしれない。
だったらいいな。
ぼくはそう思って、携帯電話を箱にしまうとドアを閉め、ベッドに寝転んで、寝た。
早く悪い夢から目が覚めますように。
そう祈りながら。
けれど、数時間後に目が覚めてもぼくはやっぱり不登校のひきこもりだった。

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