青篝の短編集

青篝

さくら

今日も涼しい風が吹く。
木の葉が揺れ、頬を撫でるように。
少女は木の枝の上で、
遥か遠い人間の街を想い、待っていた。
緑の生い茂る丘の先に
ポツンとそびえるその木は、
もう何十年もここにあった。

「ねぇ、君。そんなところにいると危ないよ。」

少女がいつものように
木の上で黄昏ていると、
不意に声が聞こえた。
少女が目線を木の根元に下げると、
そこには一人の少年がいた。
少女より少しだけ歳下で、
不健康そうな白い肌を隠すかのように、
この暖かな日なのに
随分と服を着込んでいる。

「ケガしない内に、降りておいでよ。」

届くはずもない細い手を、
少年は少女の方へと伸ばす。
少年の心配そうな瞳が、
今にも泣いてしまいそうなのは、
きっとゴミでも入ったのだろう。
ただ、少女は少年に興味を持った。
自分の姿を捉えることができる者に会ったのは
本当に久しぶりだったから。
少女は立ち上がると、
躊躇もなく木から飛び降りた。

「───えっ。」

驚いた少年は、咄嗟に持っていた本を落とした。
それから、落ちてくる少女に両手を伸ばす。
けれど、少年の思い描いた未来とは裏腹に、
少女はゆっくりと地に足を着く。
そして、少年に何かを問うように、
少女は小さく笑みを浮かべてみせた。
翠緑色の髪を腰まで伸ばし、
儚さと幼さが同居したような
可憐でかわいらしい顔をしており、
桜色の着物に身を包む容姿は、
まるで妖精のようであった。
その少女の姿を間近に見て、
少年は忘れていた物語を思い出した。
落とした本を拾い、
急いだ様子でページをめくる。

「こ、これ……。」

少年は本を少女へ渡す。
少女は疑問に思いながらも、
両手でしっかりと受け取る。
その昔、少女に文字を教えてくれた
ある男性に感謝しながら、
少女はその本に目を通す。



『桜を思ふとき、私は戦火に散る』
50年程前の小説家が書いた短編集の中の1作。

私が出会ったそれは、
他の何にも形容し難い存在だった。
見た目こそ人の形ではあるが、
どこまでも儚く、幼く、可憐だった。
新芽のような髪はどこまでも伸びそうで、
薄い桃色の振袖を纏う姿は…。
やはり、私には例えられない。
そして、私が何より驚愕したのは、
それは歳を取らないことだ。
時間と共に老いることはなく、
永遠とも呼べる年月を
生きることが可能だと。
聞けばそれは木の妖らしく、
もう何十年もこの世にいるという。
ある日、私はそれに名を付けた。
『さくら』……と。
私は彼女に文字を教え、計算を教え、
人間社会の言葉を教えた。
私がどんなことを話そうと、
彼女は笑顔で聞いてくれた。
だから、私は楽しく、愛しく思っていた。
人間ではない生き物に恋をするなど、
傍から見れば異常に見えただろう。
だがしかし、私は気にしなかった。
彼女と同じ時を刻むことができるなら、
それ以上に望むことはなかったのだから。
いつの日のことであったか、
彼女と出会って数年が過ぎた頃に
私は彼女に告げた。
人間の私では、君にとっての刹那の時間しか
一緒にいることはできないが、
それでも君と同じ時を生き、
君に私の全てを捧げようと。
…だが結果として、
私は彼女を裏切ってしまった。
徴兵と言えば分かるだろうか。
国のために命を懸けろと、
私を含むほとんどの者に令が下ったのだ。
私は彼女に何も話せぬまま、
ついに戦場に赴いた。
何を隠そう、この筆を執っている今も、
外では次々と同志が死んでいる。
火薬と肉の焼ける臭いが
脳まで支配してくる戦場だ。
言わずもがな、そう遠くない内に、
私も死ぬことになるだろう。
だからこれを私の最後の作品として、
私の懺悔として、残すことにした。
あぁ、さくら。すまない。
本当はもっとたくさん一緒にいたかった。
こんな現実が憎くて仕方がない。
きっと君は、突如としていなくなった私を
心の底から恨んでいるだろう。
出会った時と同じように、
あの小高い丘の先で。
それとも君は、私のことなど
もう忘れてしまっているのだろうか。
ただ、君が何を想っていようと、
私は君のことを心から愛している。

             風廻かざめ真次郎



それを最後まで読み終える頃、
少女は大粒の涙を流していた。
涙を堪えながら何度も何度も読み返し、
綴られた言葉を反芻はんすうする。
所々で読めない漢字や
理解できない言葉はあるようだが、
少女は繰り返して読み続ける。
まるで、思い出のページをめくるように。

「これに出てくるのって、君……なの?」

少女のその反応を見て、
少年は憶測を口にした。
物語に登場する『さくら』と、
目の前にいる少女の特徴は
完全に一致しているように感じたのだ。
少年の問いにさくらは頷き、少年を見つめる。
そこでさくらは目を見開いた。
鋭いツリ目の中に光る優しさや、
困り眉をした時の眉の角度、
帽子からはみ出たクセのある前髪。
あの人に似ている。

「き、君の…名前、は?」

今度はさくらから問う。
少年は、すぐに答えた。

「僕の名前は風廻真斗まさと。この小説を書いた、
風廻真次郎は僕のおじいちゃんなんだ。」

真斗が名乗ると、さくらはまた泣いた。
しかし今度は、涙を堪えない。
真斗の肩を抱き締め、
その温もりをしっかりと感じる。
そして、さくらは言った。

「シンのうそつき」と。

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