線香花火

銀足車道

百合の花

 武士の世になる。新しい時代をつくる。喜衛門は少し欠けた月を見ながら、源頼朝から言われた言葉を思い出していた。世の中は変わらない。絶対的な正義などない。そうあきらめきっていた喜衛門にとって、源頼朝の言葉は衝撃だった。世の中が変わるかもしれない。それは、今よりももっと良くなるに違いない。正義だ。絶対的な紛れもない正義がそこにはあった。喜衛門は希望に満ち溢れていた。そして、俺は武士になるのだ。そう思うと胸が高鳴った。
 源頼朝は、あの河津三郎祐泰と対等に渡り合った喜衛門の武芸に惚れ込み、武士になることを勧めた。その後、思案した結果、流人である自分の家来にする訳にもいかなかったので、頼朝の監視役でありながら、親交のあった北条時政に書状を書き、喜衛門を武士として仕えさせて頂けないかとお願いした。時政はこれを快諾した。あの頼朝が惚れ込んだ人物とは、相当な強者に違いないと確信したのである。
 朝、目が覚めると喜衛門は、すぐさま冷の家へと向かった。まず、誰よりも先に、武士になることを冷に話し、別れを告げなければならない。だがそれは、永遠の別れではなく、いつか武功を挙げ認められた暁には、冷を妻として迎え入れるつもりであった。
 冷は、百合の花に水をあげているところだった。お日様の光を受けてキラキラと水しぶきが輝いていた。白い百合の花は、冷におじぎをしているかのように咲いていた。
「冷、ちょっといいけ」
 喜衛門に呼ばれて、冷は結婚の返事のことだと思った。胸がドキドキした。二人は沈黙しながら並んで浜辺を歩いた。冷は、この人も緊張しているのだろうと思った。その時、蟹が歩いているのを見つけた。
「蟹。また歩いてる」
 この言葉を機に、冷は喜衛門が以前のように結婚の話を切り出すだろうと期待した。しかし、喜衛門は「ああ」と相槌を打っただけであった。
 喜衛門は苦しかった。別れるのがつらかった。今までの思い出が頭に浮かんだ。漁から帰ると、いつも冷が港にいて笑顔で迎えに来てくれた。その笑顔を見ると疲れが忽ち消えたものだった。一緒に花を摘みに出かけたこともあった。冷は、花を髪に付けておどけてみせた。それは、いじらしくて、心がくすぐったかった。祭りにも一緒に行った。男性の象徴である性器を象ったご神体を前に恥らう冷を見て、耳元で「どんつく、どんつく」と囁いてからかったりした。中秋の名月、さらさらと音を立てる竹林のなかで、初めて口づけを交わしたことも大切な思い出だ。

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