檸檬色に染まる泉(純愛GL作品)

鈴懸嶺

その女性(ひと)の名は……

 ダメだ。

 何度も自分に言い聞かせた。

 ダメだ。絶対行ってはダメだ。これ以上深入りしては……もう取り返しがつかなくなる。今ならまだ彼女は私にとって写真の中にいる憧れの女性。彼女をそれ以上の存在にしてはいけない。

  彼女が働くドラッグストアーは私の通学経路にある。だから学校の帰り道、どうやっても店の前を通らざるを得ない。

 私は”あの”ドラッグストアーに近づくと自転車のスピードを速めて、視線を店の方から強引に逸らしながら通り過ぎようとした。

 しかし見てはいけないと意識すればするほど、視線はドラッグストアに吸い寄せられてしまい、思っていることとは裏腹な私の視線はついに”チラリ”と、まだ少し遠目にある店の入り口を捉えてしまった。

 今日、彼女が出勤しているという保証は全くない。でも、あの入口の自動ドアが開けば……

 一瞬開いた扉からレジに立つ”あのひと”が見えると思うと、私の心拍数は跳ね上がり、冷静であったはずの自分を見失ってしまった。

 遠くから見るだけなら。

 そんな都合のいい思考が頭をもたげ、”会ってはダメだ”という思いをいとも簡単に打ち消してしまった。

 結局私は自転車を止めて、フラフラと店の前まで来てしまっていた。私は、入り口から少し離れたところから、遠巻きに店内の様子を伺った。するとガラス越しにレジの中で動く人影がうっすらと見えた。


 私はその曖昧なガラス越しから見えたシルエットを見た瞬間、全身の血液が逆流したのではないかと思うほどに顔が熱くなり、耳の後ろでは”ドッ、ドッ、ドッと脈圧を感じる程だった。

 私は緊張のあまり膝がガクガクと震えだした。

 顔が火照りすぎて、ついにじっとしていられなくなった私はしばらく夢遊病者のように店の周りをウロウロしていた。

 ”はは……これじゃあまるでストーカーだな”

 自分が家の近くで待ち伏せされることは過去に何度もあったけど、まさか自分がすることになろうとは。

 ”フフフ”

 私は顔を引きつらせながら苦笑してしまった。


「あの~……何か御用ですか?」

 不意に背後から男性の声が響いた。

 振り返ると、昨日、私の暴挙を止めに入った男性店員が怪訝な顔で立っていた。

 ”しまった!”

 そう思ったが何も言葉が出てこない。

「あ、いや……こ、これから店に入ろうと……」

 あまりにも嘘臭いセリフ。

 これでは”嘘をごまかしています”と宣言しているようなものだ。

「あなた昨日もいましたよね?確か大声出して」

 私は血の気が引いてきた。私のこと覚えている。ダメだもう逃れれらない。


 その時、咄嗟に入り口のガラス扉に張られた”アルバイト募集”のポスターが目に入った。

「わ、わたし、アルバイト希望しているんですけど。先に店の様子とか知っておきたくて、それで……」

 私は何を言い出しているんだろう?アルバイトなんてできるわけないじゃない?

 でもその男性はすぐに警戒の色を解いた。きっと高校生がアルバイトを始めるにはそれなりのプレッシャーだし不安もある。だから店の前で逡巡してる態度は全く違和感なく思ったのだろうか。

 私の言い訳は、『昨日の大騒ぎ』の理由には全くなっていないのだが、その事への追求はなかった。この人があまり思慮深くない人で助かった。

「ああ……そうだったの!」

 男子店員は、さっきの警戒心が嘘のように上機嫌になってしまった。

「ま、まだ決めてなんですけど……」

 私はギリギリの抵抗をしたが、でもこのまま逃げ切ることはできないことを私は悟った。

「私、店長の渡辺です」

 ど、どうりでいきなりの上機嫌。人不足なんだろうか?この状況ではたして断り切れるか不安になる。

「じゃ、店にどうぞ!簡単に案内するんで!」

 み、店内に入る?あの人のいる?む、無理だ、無理だ!

 そんな私の心の声なんてこの男性に全く届くべくもない。その男性はスタスタと店内に入ってしまった。もう駄目だ。一旦は従うしかない。

 私は入り口の前に立つと緊張のあまりまたまた足が震えてしまった。

「さあ、どうぞ……」

 私は”渡辺”と名乗った男性に促されて店内に入った。

 入り口のすぐ横にレジがある。

 はたして……


 い、いた……そのひとが。

 私は咄嗟に下を向いてしまった。

 直視できない。


 きっと彼女も私のことを警戒しているはずだ。昨日あんな大声出して迫ったのだから。

 私はどんな顔をしたらいいの?

 まったく自分がとるべき態度に考えが及んばず私はただただ下を向いていた。


 しかし私のそんな逡巡に全くお構いなく渡辺店長はその女性に声をかけてしまった。

「碧原さん、彼女アルバイト希望なんだって」

 流石に目を合わせないのは失礼だと思い、私はかろうじて顔を少しだけ上げた。

 彼女は顔はこちらに向けずに目を細めてから横目でチラと、一瞬だけ私の顔を一瞥した。

 その表情は明らかに不愉快そうだった。そんな彼女の表情を見て私はまた動揺する。

「えっと、君、名前聞いてなかったね?いいよね?聞いちゃって?」

 最近は個人情報を安易に聞くことに神経質なのだろうか、渡辺さんは遠慮がちに私にそう尋ねた。

「あ、はい。えっと、神沼檸檬といいます」

「神沼さんか」

 そう確認すると店長は視線を、”その女性”に移した。その渡辺店長の視線は〝彼女〝に自己紹介を促していた。

 私は緊張のあまりまた心拍数が上がった。フルネームがわかるかもしれない。

 これ以上深入りしたらまずいと思っていたのに。

 私が唯一知る、彼女の芸名。

その名前は、おそらく本名の〝名前〝からきている可能性が高いと私は推測していた。

 それが今ここで明らかになるかもしれない。

 そう思ってしまうと、すでに彼女の前に立った時点から冷静さを失っていた私だが、今はただただ彼女の口から発せられる”言葉”を冷静な思考力で期待してしまっていた。

 彼女は不満な顔を崩すことなく、でもしぶしぶ口を開いた。


「碧原……」


 ゴクリと唾を飲み込んだ。そしてその後につづく言葉に全神経を集中した。


 彼女は綺麗な切れ長の目を少し閉じながら続けた。



「”いずみ”です」


 私は口を開けたまましばらく息が止まってしまった。意識を失うのではないかと思うほどの衝撃を受けた。

 や、やっぱりそうだった。

 碧原いずみ。


 間違いない。


 彼女は謎に包まれすぎて、すでに伝説化してしまっている、あの……

 不出世の天才モデルの……


 IZUMIだ。


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