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ペンローズの階段

橙11


日曜の夕方、出先から帰ってきた志麻がマンションのエレベーターを降り廊下を歩きだすと、ちょうど望が教科書を片手に自宅のドアを開けるのが見えた。
「望」と声をかけるのと、望が気配に気づいてこちらを向いたのはほぼ同時で、望は志麻の姿を認めるとその童顔に笑みを浮かべた。
「おかえり、志麻ちゃん」
「ただいま。わからないところ、あった?」
「うん、それでちょっと聞きたくて……今日は、お買い物? ルーちゃんと?」
志麻は望の質問に笑って首を横に振った。
望を見た瞬間から、こう聞かれるのは分かっていた。
望が志麻の家を訪れるのは、8割くらいは本当に勉強で分からないところがあるからだけれど、残りの2割くらいは、ルーのことが聞きたいからだ。
たぶん。
ただの世間話としてじゃなく、ルーの情報が欲しいのだ。
望がルーに向ける気持ちはまぶしくて、でもそれを察するたびに僅かに落胆している自分がいた。

望がルーに自分とは違う特別な感情を向けていることに志麻が気付いたのは、中学校に入学してすぐだ。
とびぬけた美貌を持っているが性格にクセがありすぎたルーは、小学校ではだれからも遠巻きにされていた。1年生の頃はともかく、学年が上がるにつれて自ら積極的にルーに関わろうとする子が減って、ルーは自分が認めた志麻と望と、あと気まぐれに気を許すほんの少しの人とだけ交流していた。
ところが中学校は地域の複数の小学校の生徒が集まるため、ルーの性格を知らない人が多く、ルーの外見にほだされた男子生徒からひっきりなしに声をかけられることになった。それに癇癪を起したルーと数名の上級性との間でひと悶着起こりかけたとき、望が間に割って入ったのだ。
まだ真新しい詰襟姿の望は、3人の中で一番背が小さくて、体の大きな上級生と比べるとまるで大人と子どもだった。
自分にしつこくした上級生に牙をむくルーと、そんなルーに面くらいつつもプライドを傷つけられてカッとなった上級生との緊迫した空気の中、2人の間に体を割り込ませて上級生を見上げた望に、志麻は息を飲んだ。

望は小さくて頼りない幼なじみではなかった。確固たる意志のもとに動く、一人の芯の強い少年として、そこにいた。

ルーが常に志麻と一緒にいたがるがゆえに、2人は「セット」として扱われた。そして、ルーのルックスがあまりにも印象的すぎるため、志麻は誰もが自分たちを無意識に比較し、ルーに視線が吸い寄せられるのを知っていた。それを「仕方ない」と思いつつも、「でも、誰かがルーではなく志麻を見てくれたらいいのに」と思っていた。もしかしたら、ずっと一緒にいた望に、その役割を求めていたのかもしれない。
だから、望がルーに特別な思いを寄せていることに気付いたとき、志麻は裏切られたような気がした。しばらくがっかりした気持ちを引きずっていたけれど、やがて冷静に自分の気持ちを分析した。
自分は、いわゆる恋愛と言う意味で望が好きなのだろうか。それとも、「ルーと志麻を比較したとき、志麻を選んでくれそうな人」として望に期待していただけなのだろうか。
誰にも相談できないこのモヤモヤした気持ちの正体を探りたくて、志麻は「他の人はどうなんだろう」と思った。その「他の人の例」を、本の世界に求めたのが、志麻が読書の虫になったきっかけだった。

図書館に入って一番に目に入るのは、返却された本を「とりあえず」並べておく背の低いキャスター付きの本棚だ。ジャンルもばらばらなその棚は新たな出会いの宝庫で、志麻は毎回、とりあえずチェックすることにしている。
その日も「とりあえず」の棚を眺め、背表紙のデザインとタイトルが気になった1冊を手に取った。柔らかな黄緑色の中にピンク色の服を着た女性だと思わしき人影がたたずんでいるイラストが表紙にあしらわれていて、それを見た瞬間、この間一緒に出掛けた古着屋でピンク色のニットワンピースを試着してくるりと回って見せたルーを思い出した。
何となくその本を開く気になれずもとに戻そうとしたとき
「それ、良かったよ」
という声が飛んできた。
視線を上げて声の方向を探すと、グレーのニット帽に黒ぶちの眼鏡をかけた女性がこちらを見ていた。自分に声をかけられたのかと驚いてとっさに返事ができない志麻に、彼女はもう一度言った。
「それ、私が借りてて、さっき返した本。全然期待しないで読んだけど思いのほかよくて、あっという間に読み終わっちゃった」
眼鏡の向こうの目はくっきりとした二重のまぶたと濃いまつ毛に彩られていた。じっと志麻を見ているけれど、愛想笑いをするわけでもない。ただまっすぐな視線が志麻に向けられた。
「あ、……そうなんですか」
「余計なお世話だったらごめんね。でも、それ読まないのはもったいないって思ったから」
それが、志麻と相羽さんの出会いだった。

日曜日の午前中は図書館に来て本を借りるのが志麻の習慣で、相羽さんも午後からのアルバイトの前に図書館に寄るのがお決まりだった。志麻が相羽さんに勧められて借りた本を返しに来た日、また二人は図書館の入り口で出会い、そこから少しずつ話をするようになった。
相羽さんは近くにある大学の1年生で、志麻にとって初めてできた「年上の友達」だった。大学の近くのアパートに下宿していて、クリスマスの前に一度だけ訪れた相羽さんの部屋は本だらけだった。そんなに本が好きなら文学部なのかと思ったら実際は法学部で、「どうして」と聞いた志麻に「法学部のほうが、資格を取るのにいいから」と答えた。弁護士ではなく、税理士や宅地建物取引主任者など、在学中にいろいろな資格を取りたいのだと相羽さんは話した。
「卒業したあとのこと考えると、資格取っておいた方がいいでしょ」
とても現実的で建設的に将来設計をする相羽さんは、ルーのようにおしゃれに入れ込むタイプでもなく、格好はいつもシンプルなニットとパンツだった。きれいな髪も外出するときはニット帽に押し込んで、化粧っ気もない。逆にそれが、志麻にはホッと出来てここちよかった。

「これ、ありがとうございました。すごく面白かった。とくにこっち」
相羽さんと仲良くなると、2人はそれぞれ自分の持っている本を貸し借りするようになった。本を大量に所有している相羽さんのおすすめはいつも間違いなかったが、返すときの志麻の感想や反応で、相羽さんが貸してくれる本はだんだん志麻の好みにぴったり合うようになっていって、それがまたワクワクした。
良く晴れた風のない冬のある日、図書館のホールで相羽さんに会い、志麻は借りていた本を差し出した。最近は、「日曜の11時半にホール」が暗黙の待ち合わせになっている。
「でしょ。榊さんはぜったい好きだと思った」
相羽さんがニカッと笑って、受け取った本をコーデュロイのトートバッグにしまった。相羽さんのダッフルコートとトートバッグは同じくすんだからし色で、そんなところが「おしゃれだな」と志麻は思う。
「先の読めないストーリーが好きだよね」
「だから、ミステリーに偏りがちなんですけど」
志麻がうなずくと、相羽さんは少し首を傾げた。
「高校生にしちゃ、渋めなのが好きだよね」
「渋めが好きというか……」
志麻は言いながら言葉を探す。
「登場人物がすごく年上の人とか、時代モノの恋愛小説ならそうでもないんですけど」
相羽さんは、恋愛小説もミステリーもホラーも歴史小説も文学作品も、実用書もエッセイも戯曲も何でも読む。ライトノベルも時々読むらしい。
「高校生で不倫小説をおもしろいって読むのって、めずらしいと思うよ」
相羽さんが茶化した。
「年齢が近い人が出てくる小説で、心理描写が多い本って……」
志麻が言葉を探しながら話し始めると、相羽さんは黙って先を促した。
「もっと共感できるのかなって思って読み始めるんですけど、どれを読んでも、なんか全然ピンとこなくて。ピンとこない部分が大半を占める物語を読み続けるのは、あまり楽しくなくて」
「ふーん」
「でも、それが自分と全然違う状況に置かれている人だったら、そういうものだろうって思いながら読めるから」
「客観的に」
「そう、客観的に」
「ふうん」
そう言って相羽さんは何か言いたそうな顔で少しだけ笑う。何か言いたそうだけれど言わない。相羽さんとのそんな距離感は、志麻にとってちょうど良かった。

志麻が読書をハマるきっかけになった「疑問」の答えはまだ見つからない。あらゆる恋愛小説に出てくる人の考え方や行動の、どれにも志麻は共感できなかった。けれど、本の中の世界にダイブするのは楽しくて、自分が暮らすリアルなこの世界と遠ければ遠いほど面白かった。
志麻と望とルーの関係を、相羽さんに話してみたら、相羽さんはなんて言うだろう。
聞いてみたいような、聞きたくないような、そして多分、自分は望のこともルーのことも、相羽さんに話さないだろうなと志麻は思う。2人に相羽さんのことを話さないように。

志麻と望とルーは同じ高校に進学した。望とはだいたい同じような成績だったから同じ学校になると思ったが、勉強が好きではないルーも合格したのは、正直予想外だった。
同性の自分から見てもびっくりするくらいかわいらしいルーは年齢を重ねるごとにどんどんきれいに成長しているのに、中身は小さいときからあまり変わっていないように志麻には思えた。それは、志麻も望も同じかもしれない。けれどルーは中学に入っても志麻と望以外を自分の周りに寄せ付けず、志麻に強く執着した。そして、自分と望以外が志麻に近づくことにも牙をむいた。
誰もが見惚れる美しい幼なじみが、何をおいても自分を一番にして頼ってくるのは誇らしいような気分がする反面、いつしか少し重く感じるようにもなっていた。そして、いつも隣に、ほとんどの人の視線を集める美しい姿があるのもまた、うれしい以外の感情を生んだ。
いつからだろう。
もうちょっと、離れたいと思うようになったのは。
ルーのことはかわいいし、好きだし、大切な友達だ。
でも、もっといろいろな人と関わりたいし、いろいろな体験をしたい。窮屈にも感じ始めた世界を広げたいという思いが、いつしか志麻の中に生まれていた。
ルーが来ない場所で出会った相羽さんは、志麻の世界を破るきっかけになるかもしれない。そうこっそり心の中で期待しつつ、そう思ってしまっていることを申し訳なく思った。
相羽さんはきっと、勝手に期待されるのは好きではない。

相羽さんは、「今週はこれ。たまにはこういうのもいいかと思って」と大きなトートバッグから今日は薄い本を取り出して志麻に渡した。
渡された本の表紙には「だまし絵」と書かれている。
「活字も面白いけど、絵も面白いよ」
「ありがとうございます」
「またウチにも遊びにおいでよ」
相羽さんはそう言って笑うと、ちらりと時計を見てから「またね」と手を振って足早に図書館を出ていった。

だまし絵は、中学校の美術の教科書に載っていたのを覚えている。あの時も面白いと思ったけれど自分で他のだまし絵を調べはしなかった。相羽さんが貸してくれた本をぱらぱらとめくる。教科書に紹介されていたのはほんの一部で、まだまだたくさんのだまし絵があることを志麻は初めて知った。
ホールの片隅に置かれたベンチに座り、借りたばかりの本を改めて膝の上で開いた。描かれる絵のほとんどはモノクロで、けれどついじっと見てしまう。目の錯覚を追うように見ていると、なんだか時空が歪むような気がしてくる。活字の本だけではなく、こんな本も持っている相羽さんの好奇心の広さを、ただすごいと思った。
相羽さんみたいになりたい。
唐突に志麻はそう思い、同時にちいさな疑問がよぎった。
相羽さんには、志麻にとってのルーのような友人や、望みたいな友人はいるのだろうか。
「誰とも比べず、自分を見てほしい」と期待するような人はいるのだろうか。もし、その人が自分以外の人をひたすら目で追っていたら、相羽さんはどうするのだろう。
開いたページに描かれていた空中に浮かぶ回廊には階段が描かれていて、その階段はずっと降りているはずなのに、同じ場所に戻ってきてしまう。階段を指でなぞり、志麻は相羽さんの後ろ姿を追うように自動ドアを見つめた。

図書館から自宅のマンションまでは歩いて10分。ゆるやかな坂道を下りながら、志麻は街路樹を見上げた。枯葉を落として枝だけになった細い枝の先に、わずかに膨らみ始めた木の芽が見えて、唐突に志麻は「あともうちょっとで、春になって季節が変わるんだ」と悟った。
ルーが犬みたいに志麻になついている間に、会うたびに望が志麻からルーの話を聞きたがる間に、「ルーより志麻に目を向けてくれる誰か」と出会うのを志麻がただひたすらに待って、望にその役割を期待している間に。
志麻は足を止めて、借りたばかりの薄いだまし絵の本をバッグの上から抑えた。
そして、コートのポケットを探ってスマホを取り出し、黒いままの画面をしばらく見つめてから、LINEの画面を開いた。

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