コードガール

Natsuma Tsunesawa

第一章・記憶

 何年か前に、日記を書いておけばよかったと思ったことがある。日々の暮らしの中で見たことや感じたことを、こと細かく日記帳やノートに書きとめていたならば、自分の人生は今とは全く違ったものになったのではないか。あるとき、そんな考えが頭の中に降りてきて、しばらくのあいだ離れなかった。

 その日のことは、よく覚えている。土曜日の夕方、三週連続となる休日出勤を終えて、帰宅する途中だった。七人掛けの座席の真ん中に座っていた私は、後頭部を窓ガラスにぺったりとくっつけて、酷使し過ぎた脳を休めていた。

 百人以上の開発エンジニアが関わるプロジェクトに参加して、数ヶ月が経過していた。深夜残業と休日出勤に耐える生活の毎日で、心身はともに限界。そんなとき、ふと視界に入った車窓の外の光景に、目を奪われた。

 駅前の広場にいる幼い姉妹が、しゃぼん玉遊びに興じていた。その近くでは、母親と思われる女性がベンチに腰掛けて、二人を温かく見守っている。ストローから放出された、きらきらと輝く気泡もまた、二人を祝福するかのように、宙を漂っていた。

 どこからどう見ても、心温まるシーンだった。けれども私は、なぜか落ち着かない気持ちになってしまった。

 彼女たちと同じように、私にも、毎日を純粋に楽しんでいた時代があった。しかし、それはもはや遠い昔のこと。私が覚えていることは、あまりにも少なかった。二十七歳になったいま、厳しい現実と向き合う日々は、幸せだった記憶をさらに目減りさせているのかも知れない。

 美しい思い出は、すべてを解決してくれるわけではない。けれども、希望を失った人間には、どんな些細なことであっても光になる。大切な人と笑いあった思い出が、明日を生きようとする力になる。だから、私は後悔している。あっという間に過ぎ去ってしまう日々の記録を、日記という形で保存していたならば、私はいまとは別の人間になったのではないか。そう考えるときがある。

 これから語ろうとする物語は、日記のようなものかも知れないが、私にはそれ以上の存在になるという、確信のようなものがある。なぜなら、この数週間に私の周りで起きた数々の出来事は、あまりにも非日常的で、あまりにも多くの変化を私にもたらしたからだ。

 すべてが終わったいま、私が考えているのは、人間にとっての生と死であり、出会いと別れだった。それらは、表面的には別の顔をしているが、根底では密接に結びついている。

 今回の経験で、私はそのことを学んだが、そこに至るまでには、多くの時間が必要だった。けれども、無知だった自分を責めても、失った時間は帰ってこない。一介のプログラマーに過ぎない私にとって、あらゆる状況が未知だったことは、言い訳となるだろうか。

 置かれていた状況の中で、正しい行動をできたのかどうか。それはこの物語を読んでくれる人の判断に、委ねたいと思う。


コメント

コメントを書く

「現代ドラマ」の人気作品

書籍化作品