ゴブリンロード
第71話 忍耐
皮膚だったものの厚い層で覆われ変わり果てた姿のジヴァはおもむろに片手を掲げる。
「ジェス、こちらへ来てくれ」
発せられた声の声色はジヴァのものだとわかるがほんの先ほど前と違っている。枯れ気味だった年寄りのような重さはなく透き通るような軽快さの発声だった。
ユウトは自身の悪い予感がその現実味をおびてゆくのをひしひしと感じる。そのユウトの緊張を他所に視界の隅から赤い鳥が突如現れ差し出された手にとまった。
赤い鳥はラトムによく似ている。ただラトムと比べて二回りほど大きな印象をユウトは受けた。
「ジェス。余計な皮と毛を焼いてくれ」
「はっ、かしこまりました」
ジヴァとジェスと呼ばれた赤鳥が短い会話を済ませるとジェスの飾り羽が円を描いて光を放ちだしジェスとジヴァの接触点から発火する。炎は広がりジヴァの体を覆う皮膚だけを燃やしように炎の輪が体のラインを伝って手から腕、肩を周り首と胸に別れゆっくりと進み続けた。
赤く燃える輪が通り過ぎたあとには白磁のように艶のある白い肌が現れる。しっとりと濡れたように見える肌にはそれまでの年齢を重ねた重みを感じさせない。
体をなぞる一対の炎の輪の片方はつま先まで到達しもう片方は顔をゆっくりとせりあがっていく。じらすように瞼の上を抜けると一気に速度を増して髪を駆け抜け老婆の頃にの乾燥した髪を燃やして一瞬大きく炎が上がった。
その燃え上がる炎を合図に今度は足先の床の方から上昇気流のような風が起こり抜け殻の燃えカスを吹き飛ばす。ユウトには一連の流れがまるで生まれ変わりの儀式のように感じられた。
姿の見違えたジヴァは乱れた髪を空いた手でかき上げ、ユウトを正面に一糸まとわぬ姿で堂々としている。その容姿はどこまでも冷淡で突き刺すように奇麗さにユウトは息を呑んだ。
ジヴァのあまりの変貌に驚けるほどの余裕のあったユウトの精神は最後に巻き起こった風がやむと同時に窮地に立たされる。それまで内包されていた香りのない女性の匂いは吹き抜けた風によって部屋全体にいきわたり充満していた。
慌てて息を止めたユウトだったがすでに遅く全身が震え、呼吸は荒くなり全身が熱をおびていくことがユウトには自覚できる。ユウトは充血した目をジヴァから話すことができなかった。
それを黙って見つめる若返ったジヴァは口の端を釣り上げこの世の悪意をすべて詰め込んだような笑みを浮かべて言葉を発した
。
「縛り付けてしまってすまなかったな。今解いてやろう」
それまでユウトを縛り付けていた糸が消える。身体が不自由なことで抑えられていた衝動が自由になってしまったことでユウトの精神への負荷がさらに重くのしかかる。
ユウトの腰はガタッと音を上げ椅子から離れたがその場で腰を落とし足を横に広げて屈むような体制をとってその場から動かさない。人としての理性とゴブリンとしての本能がこの世界に来て最も激しくユウトの内面でしのぎを削っていた。
ゴブリンの体は瞬きも忘れ、汗、涎、涙と全身から液体があふれ出し全身を震わせる。それでもまだユウトはこらえた。
「ほう、見上げた精神力だ。ジェス、指輪を持ってきてくれ」
ジヴァは目線だけを落としてつぶやき赤い鳥は手を離れる。そしてユウトと正反対に涼しい顔をしてゆっくりとユウトへ歩みを進めだした。
ユウトはさらに追い込まれ震える右手が前に延びる。ジヴァを掴もうと強張り広がった指の右手を左手が手首を掴んで引き戻しその腕にユウトは噛みついた。
あふれ出る真っ赤な血が腕をつたい肘先からぽたりぽたりと雫となって床を叩く。ユウトは口いっぱいに広がるゴブリンの血の味を感じた。
迫るジヴァはユウトの目の前で止まるとゆっくりと丁寧にしゃがみ、されに手をついて身体をしならせユウトと視線の高さを合わせる。
「よく耐えた。楽にしてやろう」
ジヴァはそう言うとジェスが持ってきた指輪を受け取りユウトが噛みつく自身の右手の広げた指の人差し指にその指輪を通す。そして立ち上がるとそのまま背を向け元居た場所へと歩きだした。
火花が散りだすほどの戦いを繰り広げていた精神と肉体とのユウトの内面激突はジヴァから指輪をはめられてからというもの肉体の疼きが一気に冷えあがっていくことに気づく。瞳は瞬きを思い出し、力んだ顎を弛緩させ腕に食い込んだ歯を抜いた。
ユウトは指にはめられた指輪をまじまじと観察する。なんの装飾もない平内の指輪。しかしよく見ると模様が浮かび上がって見えた。ユウトはそれが魔術具であることに気づく。そしてこの魔術具の作用で体の暴走を抑えることができたのだろうという予測へつながった。
ユウトは周囲の様子へ意識を向けるとジヴァは脱いでいた服を着なおしている。どうやら魔力の糸を活用して服が浮き上がり本人が腰を下ろすことなく優雅に手間を掛けずに服を身に着けていた。ユウトの足元では人形たち数体が床に落ちたユウトの血や涎などの体液をふき取り掃除を行っている。先ほどまでの騒動が冗談だったように場が落ち着いていた。
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