ヨモツヘグイ

田所舎人

私が好きな花はいつの間にかなくなっていた

 少女はカーテンの隙間から差し込む光で目を覚まし、目を擦りながら起き上り、乱れた髪を手櫛で解す。
 少女は部屋を出て廊下を歩く。家の中からは自身の足音以外に物音はしない。リビングを覗くとテーブルの上にラップを掛けられたお皿とメモが置いてある。
 少女は自身にとって少し背の高い椅子に腰掛けてメモ書きを読むと、書き始めは『ナオへ』とあり、平仮名で外は危ないから家を出ないように、お腹が空いたらおにぎりを食べるようにと書いてあった。
 ナオは手を洗ってラップを開封し、小さな口でおにぎりを頬張る。指に着いた米粒まで食べてしまうとすることがなくなってしまった。
 休みの日に一人で遊びに行く事はナオにとって珍しい事ではない。
 メモ書きに外は危ないから家を出ないようにと書かれてあっても、頭の中で外に出かけるなら気を付けなさいと勝手に解釈した。
 ナオは少しだけならと思い、公園に行こうと思ってお気に入りのポーチを肩から下げて玄関へと向かう。
 お気に入りの靴を履いて扉を開く。休日の朝は不思議と静かだ。
 ポーチから鍵を取り出して鍵を掛ける。ナオは少しだけ誇らしい気持ちになった。
 ナオが公園に向かおうとした時、何か違和感を覚える。それは何だろうと周囲を見渡すと、山がある事に気が付く。休みの日に今まで気が付かなかったことに突然気が付くことは時々あるが、あんなところに山なんてあったかなとナオは首を傾げた。
 ナオがその山に目を凝らすと赤い何かが幾つも見える。けれど、それが何かはよく分からなかった。
 ナオは気を取り直して公園へと向かう。歩いて数分。いつもならすぐに着くはずだった。しかし、歩いても歩いても辿り着かない。見知っているはずの道だと思ったのに今日は何故だか道に迷う。それでも立ち止まることはできず、どんどんと右へ左へと曲がり続けるうちに自分がどこにいるか分からなくなってくる。徐々に不安を覚え、誰かに道を尋ねようと周囲を見渡す。
 誰も居ない。車も走っていない。
 そのことに気が付いた時、更に怖くなった。
 怖くなると余計な事に気が付いてしまう。
 どの家もカーテンを閉めており、物音一つしない。鳥の鳴き声も無い。
 自分一人しかいない不安感に襲われ、ナオは走り出した。
 家に帰ろうと来た道を辿ろうとする。しかし、今までどう歩いて来たのか分からなくなった。不安を抱えたまま自分が来た道がどちらかと周囲を見渡す。すると視界の端に黒い何かが動いている事に気が付いた。そちらに振り向くと塀の上を悠々と歩く黒猫を見つける。
「猫さん!」
 街の中で唯一見かけたその黒猫はナオにとって不安に渦巻く胸中に差し込んだ希望のように感じた。
 咄嗟にその黒猫を追いかけるナオ。
「猫さん! 待って!!」
 黒猫はナオへ振り向くも、特に気にした様子もなくプイと顔を背けて塀を先程よりも早く歩く。
「待って! 待ってってば!!」
 ナオは必死になって黒猫を追いかける。見失えば再び不安感に襲われるからだ。
 黒猫は自由自在に塀を渡り、ナオから逃げるようにどこかへと向かう。対してナオは塀に上る事が出来ず、塀に沿って黒猫を追う事しかできない。
 次第に距離は開き、徐々に視界に捕えられなくなり、脚も疲れてくる。すると、また不安感が襲い掛かり、目に涙が浮かぶ。涙が浮かべば次第に嗚咽が漏れ、脚が動かなくなる。
「猫さーん!!待ってってばー!!」
 恥じらいも無く、大声で泣き、黒猫を呼ぶ。それでも黒猫は現れない。
 ナオは塀に寄りかかって膝を抱いて泣き、泣けば泣く程寂しさが湧き上がる。その寂しさをナオは我慢できず、声を大にして泣いた。
「うるさいよ。お嬢ちゃん」
 どこからか声がした。
 ナオは泣きはらした顔を上げて左右を見渡しても誰も居ない。
「こっちよ」
 ナオの頭上から声がする。ふと見上げると黒猫が居た。
「え……」
 先程までわんわんと泣いていたナオだが、見上げれば黒猫がいた。黒猫が本当に現れたことにも驚いたが、それ以上に驚くことがあった。
「私を呼んだんでしょ?」
 女性言葉を使う黒猫は塀から飛び降りてナオの目の前で腰を下ろして座る。
「え……喋ってる……」
「あら、喋れるとおかしいかしら?」
 黒猫は尾を優雅にくねらせる。それも二本。
「私が喋れると分かってて待ってと言ったんじゃないかしら?」
 ナオはもちろん黒猫が喋れるなんて思っていない。しかし、ひょっとしたら言葉が通じるかもしれないという期待はあった。
「あの……ナオは……ナオって言います」
「ナオね。私はハナよ」
 普通に自己紹介が出来て名前を教えてもらった。色々と不思議な事が起こってナオは理解が追い付かない。
「えーっと、ハナちゃん?」
「ちゃん付けはやめて。呼ぶならハナにしてちょうだい。それで、ナオはどうして私を呼び止めたのかしら?」
 なぜ呼び止めたのか。そう問われ、ナオは先程までの不安を思い出す。
「あの……一人だと怖くて……」
「そうなの? だったら早くおうちに帰りなさい」
 そう言われてナオは悲しくなった。こんなことになるなら遊びになんて出掛けなければ良かったと。
「おうちがどこか分からないの……」
「あら、迷子なのね」
 ハナは何かを思ってか立ち上がってナオの手を嗅ぐ。
「そういうことね」
 何かに気が付いたようなハナにナオは首をかしげる。
「そういうことってどういうこと?」
「ナオ。これから言う事は本当の事だけど、信じるかどうかは貴女に任せるわ」
 ハナはそう言葉を区切る。ナオはハナの言葉の続きを待った。
「ここは黄泉平坂(よもつひらさか)。常世と現世の狭間。簡単に言うと、死んだ生き物が必ず通る場所」
 ハナの言葉をナオは理解できなかった。
「……それってどういう……」
「でも安心しなさい。ナオはまだ死んではいないわ」
 ハナは安心しろというが、当然ナオは安心なんてできない。
「ナオの手から生きている匂いがするもの」
 そう言われ、ナオはクンクンと手を嗅ぐが先程食べたおにぎりの臭いが薄っすらとするだけだ。
「あの山が見えるわよね」
 そう言ってハナが見上げるのは家を出るときに気が付いた山だ。
「あの山の頂上に行けば現世、つまり元の世界に帰れるわ。私は現世に戻るためにあの山を上る途中なの」
「元の世界って?」
 ナオがいまいち現状を理解していないためハナは少し考えてから話す。
「ナオのお父さんやお母さんがいる世界よ。ここには居ないでしょう?」
「……うん」
「だから、お父さんとお母さんに会いたかったらあの山を上ればいいわ。ナオがもう会いたくないって言うなら、どこかにある下り坂を下るといいわ」
「下るとどうなるの?」
「死ぬだけよ」
 ハナはそう冷たく言い、その言葉にナオは得体の知れない恐怖を感じた。
「イヤだ! お父さんとお母さんに会いたい!」
「そう。なら、ついておいで」
 ナオはさっさと歩き始めたハナについていくため立ち上がる。
 ハナはまるで道を知っているような足取りで歩み始めるが、袋小路で立ち止まる。
「ハナ、どうかしたの?」
「ここ、さっき見た時は道だったんだけど……何故か塞がってるわね」
「そうなの?」
 ナオは行き止まりの壁を触ってみるも他の塀と同様の質感だ。
「普通の壁だよ?」
「……何かがイタズラをしているみたいね」
「何かって?」
「ここは黄泉比良坂。現世よりも多くの妖怪がいるのよ。だからこういったおかしなことが起きた時は妖怪を疑うものなのよ」
 そう言いながらハナは壁を見上げる。
 ハナだけならば、壁を上って向こう側に行ける。しかし、その場合はナオを置いていくことになる。一度は連れて行くと約束した以上は放っては置けない。
「仕方ないわね。あまり気は進まないけれど、アイツに会った方が話が早いわね」
 ハナは溜息をつきながら一人ごちる。
「アイツ? ハナ以外に誰かいるの?」
 ナオにとってはこの世界にいるのは自分とハナだけだと思っていた。だからこそ驚く。
「ええ。こういった事が起こった時に役に立つ奴がね」
 ハナは二つの尻尾を左右別々に動かし、周囲を探るようにくねらせる。
「こっちよ。ついておいで」
 ハナが踵を返すのでナオも再びハナの後を追う。
 ハナは迷いない歩みを見せて数分。周囲は住宅街の様相は変わらないが、そんな中で際立つ立派な門構えをしたお屋敷の前でハナが立ち止まる。
「やっぱり、こう言う所が好きなようね」
 瓦付きの塀に囲われ、木造りの門構え。一目見るだけで武家屋敷といった印象を受ける建物だ。
「その人はここに住んでるんですか?」
「人じゃないけれどね。人の家に勝手に居座って縁側でお茶を啜るような図々しい奴よ」
 ナオ達は門を潜り、中庭を回って縁側に向かう。
 白砂利が撒かれており、雑草一つない綺麗な庭に面した縁側には和装の老人が湯呑を片手に陽光を受けて朗らかにお茶を啜っていた。
「大将、久しぶりね」
 ハナはその老人に対して旧知の仲のように話しかけた。
「おう、ハナか。お前さんから来るとは珍しいな」
 ハナに大将と呼ばれた老人の声は低く穏やかで品のある声色だ。
「こっちはナオ。彷徨ってたから声を掛けて、色々あって連れてきたの」
 ハナは老人の前で腰を下ろす。
「色々、か」
 老人は湯呑をお盆に置いてすくっと立ち上がり、ナオに歩み寄って顔を覗き込む。
「なるほど。人間か。ならば、もてなさねばならんな」
 老人は踵を返し、縁側から上がりお盆を持って室内へと移動して振り向く。
「ナオちゃんや、中へお入りなさいな」
「えーっと……」
 ナオは見知らぬ人の家に上がってもいいものかとハナに視線を送る。しかし、ハナは気にした風も無く家に上がり、ナオもそれに続いた。
 広い畳の部屋が襖で仕切られており、和室独特の臭いがナオには新鮮だった。
 そのままある一室に通され、円卓で待つように老人は言われナオは大人しく従う。
 しばらくすると老人はお盆に二つの湯呑を乗せて戻ってきた。
「さてと、喉が渇いておらんか? これでも飲みなさい」
 そう言って老人はナオに湯呑を差し出す。ナオが湯呑の中を覗くと緑色の液体が入っており、香りを嗅ぐと抹茶だった。
「あの……私、抹茶飲めないんです」
 ナオがそう言うと老人は笑った。
「そうかそうか。飲めないか。それは悪かった」
 老人は差し出した湯呑を戻し、自分で一息に飲んでお盆に戻す。そして、少し息を溜めて吐く。
「ナオちゃん、もしも誰かに食べ物や飲み物を勧められても決して口にしてはいけないよ」
「えーっと……なんでですか?」
 飲んではいけないものを勧める老人の行動が理解できず、疑問を口にした。
「現世の住人の言葉で言えば『あの世の食べ物を食べるとあの世の住人になる』という言葉があっての。どんなに喉が渇いても、どんなにお腹が空いても決して口にしてはいけないよ」
「食べたら山を上っても元の世界に戻れないんですか?」
「ああ。食べてしまったら戻れない」
 大将が断言するその言葉にナオはふと家で食べたおにぎりを思い出した。
「あの……大将さん。ナオ、おうちでおにぎり食べたんです……」
 ナオは恐る恐るそれを口にした。
「……ほう。しかし、ナオちゃんからは屍人の臭いはせんから安心しなさい。きっと、そのおにぎりは現世のものだろう。もし、そのおにぎりを口にしていなかったら、今頃は空腹だったかもしれないな」
 大将に否定してもらって安心するナオ。しかし、大将が言うおにぎりが現世の物という言葉の意味をナオは良く分からなかった。
「あまり難しい事は考えなさんな。ナオちゃんはあのお山に上って、現世の戻るための宝物に触れればいい。それだけを覚えておくといい」
 大将は優しくナオを諭すように言う。
「大将。その山を登る道だけれど、妖怪のイタズラで塞がれてるのよね。どうにかならないかしら」
 円卓から頭だけを出すハナが本題を切り出す。
「ほう。道を塞ぐ妖怪か」
「ええ。何か手はないかしら」
 ハナは大将に助言を求める。
「……ならば、あれを使うといい」
 大将がそう言って指差す先に手鏡が一つ伏せてあった。
「ナオ、私は持てないから貴女が持ちなさい」
「あ、うん」
 ナオは恐る恐る手鏡を手に取る。鏡に写る姿は何故か目を閉じて寝ている自分の姿だった。
「え……何で……」
 鏡を見ているならば、写っている自分の目が閉じているはずがない。なのに、目を閉じた自分が写っていた。
「その鏡は写された者の真の姿を写す。その鏡を使えば道を塞ぐ何者かの正体も分かるだろう」
 そう言われると鏡の隅に映るハナをちらりと見る。
 ハナはそのままの黒猫だが、鈴が付いた赤い首輪を付けており、尾は一つしかない。
 そして次に大将の姿を確認する。
 しかし、大将の姿は写っていなかった。
 ナオはその事に驚いて振り向いた。
「ハハハ。儂が写っておらんから驚いたんだろう?」
 ナオはもう一度鏡を見るが大将は写っていない。影すらなく、目に映る姿と鏡に写る姿は異なっていた。
「ナオちゃんやハナは現世に本当の姿がある。しかし、儂らは現世に本当の姿はない。儂らが居られるのはこの世界と現世に生きる者の心に差す影、言い換えれば恐怖心の隙間のみ」
 僅かに重い空気が流れる中、ハナが卓に頭を乗せて大将に目配せをする。
「大将、ナオは子供よ。そんな難しい事を言っても伝わらないわ」
 きょとんとするナオに気が付いたハナがやんわりと大将を嗜める。
「おっと、すまんかった。人間と話すのは久々だったからの」
 大将は笑ってごまかし、お茶を啜る。
「ナオ、その鏡は本当の姿を写すものなの。だから、鏡に写る姿と目に写る姿が異なればそれは妖怪なのよ」
 ハナが大将の言葉から大事な部分だけを切り取ってナオに説明する。
「この鏡があればお山に登れる?」
「ええ。道を塞いでる妖怪さえ分かればあとは簡単よ」
「それはお嬢ちゃんにやろう。これも何かの運命じゃろう」
 大将の言葉に礼を述べてハナは立ち上がる。
「おや、もう行くのか?」
「そうね。長居をしていても仕方ないもの」
「そうか。寂しくなるの」
 そう言いながらも見送りのために立ち上がる大将。その様子を受けてナオも立ち上がり、縁側へと足を運ぶ。
「ナオちゃん。その鏡は落とさないよう鞄に入れておきなさい」
 大将はナオが肩から下げるポーチを指差して言う。どうやら、大将はポーチの事を鞄と言っているようだ。ナオは言われた通り鏡を下げたポーチの中に入れる。
「それじゃあ大将、世話になったわね」
「気にしなくてもいい。たまにこうして珍客をもてなすのも儂の趣味。それじゃあ気を付けていきなさい」
「はい。ありがとうございました」
 ナオはペコリとお辞儀をして屋敷を出る。

 ハナの後を追うナオ。
 向かう先は道が途切れた袋小路。ハナはナオに目配せをし、ナオはポーチから鏡を取り出す。
 ナオが鏡を覗き込むと左右に白い塀が続く中、袋小路を成す正面の壁が鏡の中では古い漆喰の壁として写っていた。
「ハナ! あの壁!」
 ナオが壁を指差してハナに声を掛けた。
「もう少し近寄って鏡を掲げてみなさい。そうすれば道が開くはずよ」
「う、うん! 分かった!」
 ハナに言われるがままにナオが鏡を壁に掲げる。
 壁は鏡に写されると、徐々にその姿が透けだし、徐々に存在が消失していき、最後には何も無かったかのように、当たり前のように道が続いた。
「あれ?」
 壁があった場所に何かが転がっていた。
「これは……ひょうたん?」
 くびれた部分に紐が掛けられ、頭には栓がしてある。
「ハナ、これってなんだろう?」
「……たぶん、さっきの妖怪が持っていたものだと思うわ」
 ハナは注意深く瓢箪の周りをぐるっと周り観察した上で、ゆっくりと近付いて顔を近づける。
「……これはたぶんお酒ね」
「お酒?」
 ナオが知っているお酒と言えば缶に入ったビールぐらいのもので、こんな奇妙な形のお酒は見たことが無く、いまいちピンと来なかった。
「ナオ、これも持っていくわよ」
「ええ!? 私、お酒飲めないよ? もしかして、ハナが飲むの?」
 まさか自分がお酒を持つなんて想像したことも無く、それを持つ事は悪い事だと思っていただけにナオはとても驚いた。
「妖怪の中にはお酒が好きな奴も居るわ。何かの役に立つかもしれないし、そんなに重たいものでもないでしょう?」
「妖怪もお酒を飲むの?」
「ええ。大将だってお茶を飲んでたでしょう? そんな感じで妖怪は食べたり飲んだりする奴もいるの」
 ハナはあえて言わなかったが、お茶やお酒を好む妖怪以外にも人肉を、それも幼い少女の物を好む妖怪がいる。丁度、ナオのような可愛らしい少女を。
 それを言った所でナオを怖がらせるだけだろうと思い、ハナは口にしなかった。
「分かった。ハナが言うならそうする」
 ナオは信頼を寄せるハナの言う事に従って瓢箪を拾ってポーチに入れる。それは学校に持っていく水筒よりも軽く、中に入っているお酒だろうものがチャプチャプと音を立てた。
「それじゃあ、行くわよ」
 真っすぐ山へと続く道をハナは歩き出し、今まで通りナオがついていく。
 道中、また先程の妖怪が道を邪魔するのではないかとナオは心配したが、山裾まで何も邪魔する者は現れず、また、ナオとハナ以外の何者とも出会わなかった。それが改めてここが現実じゃない、現世ではないことに気が付かされる。
「ナオ、疲れてないかしら?」
 ここまで休みなく歩いてきたため、ハナはナオを気遣って声を掛ける。
「大丈夫だよ」
 不思議とそこまで疲れは無く、汗もかいていない。
「疲れたら言いなさい」
 素っ気ない言い方だが、ナオにはハナが心配してくれている事に気が付いた。
「ありがとう。ハナ」
「ふん」
 山頂まで舗装された歩行者道を二人は歩く。その道は曲がりくねっており、街中から見上げた時は真っすぐな道に思えたが、いざ山間に入るとその道は九十九折りだと分かる。
 山間だけに木々が真っすぐに伸びて木陰を作り、ひんやりとした空気が心地良い。
 そんな道を何度か曲がった所で、ハナが急に立ち止まった。
「ハナ、どうしたの?」
「……」
 ハナは答えない。
 ナオはハナが見据える先を同じように見た。するとそこには一人の女性が蹲っている。
「あれ? こんなに所に人?」
「……ナオ、気にしちゃダメよ」
 ひょっとするとハナはあの女性が妖怪だと思っているのかもしれない。
 ナオは鏡を取り出して女性を写す。すると、女性は女性の姿のまま写っていた。
「ハナ。あの人、人間かも知れないよ?」
「そうだとしても、気にしちゃダメよ。ナオは現世に帰りたいんでしょう? なら、寄り道なんてしちゃダメ」
 ハナはそう言い切ってスタスタと極力その女性に近寄らないようにして脇を通り過ぎようとし、それにナオも続く。
 脇を通り過ぎる時にナオは女性の横顔をちらりと見るも、その顔は両手で覆われていて分からない。
 ナオは気にしつつもハナに置いていかれないよう付いていく。
 女性から十分に離れた所で最後に一度だけと思い、女性へと視線を向ける。
 女性はニヤリと笑った。
 女性は背を向けたままニヤリと笑った。大きな口を開け、乱杭歯を剥き出しにして、舌なめずりをし、その舌に髪が絡み付く。
 女性が背を向けているのに、顔を手で覆っているのに、何故笑ったと分かったのか。
 それは、女性の後頭部に大きく醜く広げられた口があったからだ。
 ナオがそれを理解した瞬間、その化け物は姿勢は後ろ向きのまま、醜い口を大開きにしてこちらに駆けてきた。
「ハナ!」
 ナオの鬼気迫る声をハナは瞬時に理解し、立ち止まった。
「走りなさい!!」
 ナオを先に行かせ、ハナはその後を追う。
 ちらりと後ろを振り向くハナ。追いかける女の形をした化け物。
「二口女!? 厄介な奴が現れたわね!!」
 二口女。後頭部に口がある人から変じた妖怪。尽きぬ飢餓感を生むその大口は食事を与えず死んだ継子が憑いた物だという話がある。
 鏡が写した姿が普通の人の姿だったのは元が人間であり、その妖怪の本性が鏡で映し出されていない後頭部にあったからだろう。
 二口女はその尽きぬ飢餓感のために容易に振り切ることはできない。執念深さが異常なのだ。
 このままでは体格の差からナオが追いつかれるのは時間の問題だ。ハナ一人ならば逃げ切る事は可能だろうが、それでは意味がない。
「……仕方ないわね」
「ハナ!?」
 ハナの呟きにナオが振り返る。すると、ハナはその場で立ち止まって二口女を迎え撃とうと威嚇していた。
「ナオ! そのまま走りなさい!!」
「で、でも!」
「私なら直ぐに追いつくわ! だから、早く!!」
 二口女との距離は既にかなり詰められている。問答する暇なんて与えてはくれない。
「ッ!――絶対に来てね!!」
 ナオは不安と恐怖を抱えながらも、ハナはきっと大丈夫だと強く思う事でなんとか前を向いて走り出した。
 ゲラゲラと大口を開けて笑う二口女は威嚇するハナに目もくれず、走り去るナオに焦点を当てていた。
 立ち止まる素振りの無い二口女の気を引こうとすれ違いざまに爪を剥き、二口女の脚を引っ掻く。しかし、二口女の脚は止まらない。気にする素振りも見せない。
「こいつ人食い!?」
 人食い。人の味を知り、人を襲う妖怪。野生の獣が人の味を知ることで人を襲うようになるのと同じく、妖怪もまた人の味を知ることで人を襲うようになる。
 このままでは二口女がナオに追いついてしまう。
 ハナは四肢を全力で動かして二口女を追いかけ、その脚に爪を食い込ませて牙を突き立てる。
 バランスを崩した二口女の脚は遅くなるもナオを逃がせるほどではない。
 必死に脚を動かして懸命に走るナオ。それでも大人と子供の体格差はハナの助力をもってしても埋まらない。体格差だけでなく、二口女の執念深さも合わさり、ナオとの距離は徐々に詰まる。
 ハナは決心して二口女の体を爪を立ててよじ登り、脚、腰、胴、背、そして肩に爪をより強く突き立てた。
 ハナが背をよじ登る形だが、実際は二口女の後頭部にある大口が頭上にある形。乱杭歯から滴る涎がポトポトと落ち、ハナの体毛に絡まり嫌な冷えを感じる。
「大人しくしなさい!」
 枯れた肌に浮かぶ筋が目立つ首に牙を突き立てるハナ。さすがの二口女もその激痛は無視できず、枯れた細腕からは想像できない力でハナを掴み叩きつける。
 横腹から地面に叩きつけられたハナ。声が出ず、息が出来ず、四肢が痺れて動けない。
 二口女も痛みによって混乱しているのか、足取りは乱れ、数歩も歩けば頭から塀に突っ込む。それでも、ナオを襲う意志を未だに感じる。
 この様子ならナオは逃げられるだろうとハナが思った時、二口女越しに立ち止まるナオの姿が映った。
 足を止めるなと叫びたいハナ。しかし、まともに呼吸ができないハナに声を出すことはかなわない。
 ゆっくりとした足並みの二口女だが、立ち止まっているナオとの距離は少しずつだが縮まる。
 それはこちらの様子を窺っているナオ自身も分かっているはずだ。なのに、なぜ逃げないのか。
 ……あの子、まさか。
 ナオが見ているのは二口女ではなく、ハナ自身だった。
 ……私の事を心配して逃げられないのね。
 ハナはナオを逃がすために捨て身で二口女に爪牙を剥いた。それは一定の意味を持ったはずだったが、ナオが逃げなければその意味も無くなる。そのことをナオが分かってないとハナは憤った。
(早く逃げなさい!!)
 心の中の叫びはナオに届かなかった。それどころか、ナオは何を思ったのか肩から下げたポーチの紐を手に持って乱暴に振り回して二口女の側頭部にぶつけた。
 その時、嫌な音が聞こえた。距離があるハナだが、耳は良い。その音は何かが割れた音だった。
 ポーチの隙間から割れた何かが地面に落ちる。
 ナオがポーチの中に入れていた物で割れそうな物と言えば一つしか心当たりがない。
 二口女はポーチで殴られた程度では痛がる素振りも見せない。しかし、その落ちた何かを見た瞬間、二口女は今までにない悲鳴を上げた。その悲鳴は妖怪の物というよりも、ヒステリックな女の悲鳴のものだった。
 二口女は枯れた細腕で乱杭歯を剥く大口を掻きむしる仕草をし、その大口を塀に何度も何度もぶつける。まるで、何か見たくない物を見てしまったかのように。その何かを追い払うかのように。
 その狂気に染まった行動を繰り返し、次第にその姿は消えていった。それはまるで鏡に写した壁が消え失せた時に似ている。
 二口女が消えてから十分に時間が経った後、ナオはハナに駆け寄った。
「ハナ!!」
 座り込み、ハナの顔を覗き込むナオ。
「……大丈夫よ」
 ハナは震える声を紡ぐ。
「本当に?」
「ええ」
 危険が去った安心感もあり、ナオを見上げた空が眩しく感じた。
 ハナは立ち上がろうと態勢を変え、俯せになる。その状態から前脚で体を起こそうとするが力が入らない。
「ハナ?」
 心配そうなナオの声。そんな声を出させないように立ち上がろうとするハナ。しかし、気持ちだけでは体は動かない。危険が去り緊張感も去ったためか、四肢は麻痺と弛緩でどうにも上手く動かない。
「……仕方ないわね。ナオ、その鞄に入れてくれるかしら?」
 ハナは体が動かないならば仕方がないと考える。このまま自身を置いて、ハナに行かせることを考えたが、二口女を倒してまでハナを助けたことを考えれば、ナオは聞く耳を持たないだろう。それに、このままナオを一人で行かせることに不安が無いわけではない。
 それに、鏡が割れたならばそこに入る余地はあるだろう。
「ちょっと待ってね」
 ナオはポーチの中身を片付けてハナが入れるスペースを作ってハナを入れる。ひょっこりと顔だけを出すハナが妙に可愛くナオには映った。
「狭くない?」
「丁度いいくらいよ」
 猫であるハナは不思議と狭い所が安心できる。ちょっと狭いぐらいが丁度いい。
 ナオはあまりハナの身体に障らないようゆっくりと持ち上げてあまり揺れないように歩く。
「大丈夫?」
「大丈夫よ。それより、ナオこそ重くないかしら?」
「重くないよ。ハナ、軽いから」
「そう。それならいいわ」
 かなり走って疲れていないはずないが、ナオは元気そうだ。大人しそうな見た目なのに体力は意外にあるみたいだ。
 それでも目的の山頂まで続く道はまだまだ続いている。安静にして、早く自分で歩けるようにならなければとハナは考えた。



 ナオは軽快な足取りで山道を暫く歩くと赤い鳥居が見えてきた。
「ああ、これが見えてたんだ」
 ナオは鳥居の前で立ち止まって見上げる。
「どうかしたの?」
 なんとか自力で歩けるようになったナオの横で立ち止まる。
「家を出た時に赤い何かが見えてたんだけど、何かなって思ってたんだよね」
 どうやらナオが言う赤い何かというのがこの鳥居だったようだ。
「たぶん、もうすぐ山頂だよ。頑張ろうね!」
「ええ」
 ナオの言う通りならばそうなのだろう。ハナ自身、蘇るためにこの山に登ったことはあるが、その都度姿を変える。今回の山頂はそういうことなのだろう。
 鳥居を潜る。その先にもまた鳥居。それを潜った先にまた鳥居。潜った鳥居の数が十を超えた所で数えるのをやめたが、感覚としては三十以上はあっただろう。
 そして、数多の鳥居が立つ九十九折の山道を抜けた先にもまた鳥居。しかし、山道が階段になっていた。
「これを登ったらいいのかな?」
「そうね。あともう少しよ」
 山頂までの道が変わる事はあってもこの階段だけは必ず登る必要がある。
 ハナは階段の左によって一段一段ひょいひょいと登り、その後をナオが追う。
 ハナは階段を登りながら少しだけ考え事をする。
 ここを登りきればナオとはお別れだ。
 この世界で偶然知り合った少女。出会った当初は泣きじゃくっていた少女。そして、その泣き声に自分の心が揺れ動いた。だから気になって声を掛けた。まさかここまで懐かれるとは思わなかったが、それが不思議と嫌ではなかった。
 大将の家で映り込んだ自分の姿を見た時、なるほどと納得した。
 赤い首輪は自分が飼われていた証だ。そして、飼われていた家には一人の赤ん坊が居た。よく泣く赤ん坊はハナによくじゃれていた。その赤ん坊にナオは少し似ていた。



「ハナ! もうすぐだよ!」
 いつまでも続くかと思った階段の終わりが見えたナオは嬉々とした声を上げ、足取りが早くなった。
「ナオ、転ばないように気を付けなさいよ」
 母親のような物言いをするハナの声が妙におかしくてナオは笑った。
「大丈夫!」
 この階段を登りきれば山頂だ。
 ナオが最後の一段に脚を掛ける。すると、今まで潜ってきた鳥居よりも更に大きな鳥居が視界に真っ先に入ってきた。目の前にあるこれを潜れば目的地だと確信を持った。
 そして次に視界に入ってきたのが異様に大柄な男だった。異様というのは単に大人だからだとか背が高いからではない。
 座り込んだ男はまるで大き目の車のような大きさ。そして何より目を引くのは頭から生えた角だ。大きな体に角が生えた人間のような姿。
 妖怪に詳しくないナオでもその存在に相応しい呼び方があることは分かる。
 鬼だ。
 鬼は鳥居の下で座り込み、赤い皿のようなものを口に付けて何かを飲んでいる。そして、その皿が空になったからか、隣にある大きな瓢箪の栓を外して水のような何かを注ぐ。
 その時、ナオは鬼と目が合った。
「なんだ? 人間か?」
 鬼はナオに視線を向けたまま赤い皿を傾けてゲップをする。
「お? 何だお前も来たのか?」
 今度はハナを見て鬼が言う。
「あんた、まだいたの?」
「ガッハッハ。この山は居心地がいいからな」
 どうやらハナとこの鬼は顔見知りらしい。
「またこの中に入るのか?」
「ええ。この子も一緒にいいかしら?」
 ハナがそう言うと、鬼は面白くなさそうな表情を浮かべ、ナオから視線を切り、再び赤い更に何かを注ぐ。たっぷり時間を掛けて鬼は言った。
「お前は良いが、そいつはダメだ」
 鬼はハッキリと、ナオが中に入る事を拒否した。
「あら、私だけはいいの?」
「お前だけじゃないさ。人間以外なら誰だって通してやる。だが、人間だけはダメだ」
 鬼は吐き捨てるように言葉を紡ぎ、何か苦い物でも飲み込むように赤い皿に口を付ける。
「どうして私はダメなんですか?」
 普段は人見知りをするナオだが、常識外れの存在に出会い少しは慣れた様子だ。それに二口女に比べれば話が通じるだけに話せば分かるかもしれないと声を掛けた。
「……俺様は昔、人間に騙されて首を落とされてな。それ以来、人間は嫌いなんだ」
 ナオは首を落とすという意味は良く分からなかったが、この鬼が人から騙されて怒っていることは分かった。けれど、その理由で自分が鳥居の向こう側に行けないのは納得できなかった。
「どうしたら通してくれますか?」
 無理矢理通ろうとしても鬼が邪魔をすれば簡単に通せんぼをされるだろう。
「そうだな……俺様と飲み比べをして勝てたなら通してやってもいいぞ」
 そう言って鬼は赤い皿に並々と注ぐ。
 ナオがその赤い皿に近付くと臭いからお酒だと分かった。
「ナオ、お酒飲めない」
 ナオは知識としてお酒を飲んではいけない事は知っているし、臭いからしてもとても飲みたいとは思えず、それを美味しそうに飲む大人やこの鬼は不思議だと思う。
「そうだろうな。そんな小さい体で俺様に勝てるわけがない」
 鬼はガハハと笑って並々と注いだお酒を一息に飲み干す。
「他にどうすればいいですか?」
 困り顔をして食い下がるナオを面白がってか鬼は意地悪な笑みを浮かべた。
「そうだな……俺様が納得するような酒を持ってきたなら通してやろう」
 ナオは鬼が言う言葉に思う所があった。
「……お酒を持ってきたら通してくれますか?」
 鬼は片膝を立て、クククと意地悪な笑みを浮かべる
「ああ。俺様は人間と違って嘘は付かない。俺様が納得する酒さえ持ってくれば通してやろう」
「ナオ、こいつが言う事は本当よ。こいつは嘘を吐いたり騙したりはしない。だって、そういう存在なのよ」
 ハナはナオを後押しする。
「分かった」
 ナオはポーチからお酒が入っているという瓢箪を取り出した。
「あの……これじゃダメですか?」
 ナオはそれを鬼に差し出す。鬼はその瓢箪を見つめ、次にハナを見る。視線を向けられたハナはこくりと頷く。
 鬼は指先で瓢箪を受け取り、反対側の爪先で栓を外す。
 クンクン。
 注ぎ口に鼻を近づけて嗅ぐ鬼。
「こいつは……」
 鬼は驚きつつもその瓢箪の中身を赤い皿に注ぐ。その量は多くは無いが、鬼にとっては非常に魅力的な香りを放っていた。まるで花蜜の如く、至高の一滴一滴を凝縮したような酒の香り。
「人間、こいつをどこで手に入れた?」
「えーっと、拾ったんです。何かの妖怪が落としたみたいなんですけど」
「この子が言う事は本当よ」
 鬼はナオではなくハナの言葉に耳を傾けた。
「……良いだろう。味を確かめてやる」
 鬼は赤い皿に口を付け、ゆっくりと傾けた。
 ゴクリ、ゴクリと先程の飲みっぷりとは違って一滴一滴を確かめるように嚥下する。そして、感じ入ったかのように大きく溜息を吐いた。
「どうかしら?」
 ハナの言葉に鬼は応えず、何故か目をとろんとさせている。
「……私の声、聞こえているかしら?」
 ハナが改めて声を掛けるが、鬼は返事をしない。
「酒呑童子!! 私の声が聞こえないの!!」
 ハナの大声にも鬼は反応が無い……かと思われたが、その大声のせいか鬼は後ろに倒れた。
「……えーっと」
 ナオはどうすればいいかとハナを見る。
「……飲み過ぎたみたいね」
 さすがのナオでもそれはないだろうと思ったが、だからと言って他の理由が思い当たるわけでもなかった。
「とりあえず、これでいいんじゃないかしら。さっさと現世に戻れば、さすがのこいつも追いかけてはこないわよ」
「そ、そうだね」
 倒れてズズズと鼾をかく鬼の隣を足音を殺して通り過ぎるナオ。そして、鳥居を潜った先に建物が見える。鳥居の先の建物と言えば神社だろう。大将が言っていた宝物とは神社で祀られている何かだろうとナオは思った。
 普段ならば立ち入ろうとも思わない場所だが、好都合なことに戸は開かれており、白い布で装飾された神棚に祀られている物があった。
「ハナ! あったよ!」
 ナオが振り向くとハナは居なかった。
「ハナ? ハナ!?」
 社を出て辺りを見渡す。すると、鳥居の前、鬼のとなりでちょこんと座ったまま動かないハナ。
「……ハナ? どうしたの? 一緒に帰ろうよ?」
 何故付いてきてくれないのか。そんな疑問がナオの頭に浮かぶ。
「ごめんなさい。私は少しこいつと話があるから、ナオだけ先に帰っててもらえるかしら?」
「……向こうでまた会える?」
 自分の声が泣きそうに震えている事に気が付くナオ。それでも泣かない。
「ええ。きっとまた会えるわ」
「約束だよ?」
「ええ、約束するわ」
 ハナは穏やかな声でナオを送り出す。
「絶対だよ!」
 ハナは笑って頷いた。
 ナオはハナとの約束を交わして社で祀られる宝物に触れた。すると、急激な睡魔に近い物を感じ、意識を手放した。




 ナオはカーテンの隙間から差し込む光で目を覚まし、目を擦りながら起き上り、乱れた髪を手櫛で解す。
 周囲を見渡すと見知らぬ白い部屋で自分の物ではない服を着ていた。
 自分が寝ていた場所も普段から使っている布団ではなく、白い清潔なベッドだった。
 起き上がり、歩き回るとここが病院である事に気が付いた。
 そして、看護師に見つかったナオはその後めまぐるしい出来事があった。
 ナオが事故に遭い長い間意識を失って入院していたことを説明を受け、母親が迎えに来て泣きつかれ、その後は良く分からない検査や質問をされたりして、退院する運びとなった。
 久しぶりの家に帰ると前はこんなものが在ったかなと思う神棚が飾られていた。
 神棚には鏡が祀られており、お供え物ととしてお米とお酒が置かれていた。
 そして、今まで気が付かなかったが壁に赤い首輪が飾られていた。
「お母さん、この首輪って何?」
「首輪? ああ、ナオは覚えていないかしら? そうよね。まだ、ナオが小さい頃だったもんね」
 そういう母親はその首輪が昔飼っていた猫の首輪だと話してくれた。
 革の首輪に金属板が付いており、そこに『HANA』と刻まれていた。



 ナオが社の奥に向かい僅かな間の後に社が光に包まれる。それはナオが現世に帰った証だろう。
「これでよかったのか?」
 背後から声を掛けられて振り向くハナ。そこには神出鬼没な大将が居た。
「良いも悪いも無いわよ。だって私、とっくに命を使い果たしてたんだもの」
 猫の命は九つあると言われているが、ハナはそれをとっくに使い果たしていた。だから、ここまで来て宝物に触れた所で現世に戻れるわけもなく、かといって常世に行くわけでもなく繰り返し黄泉平坂を登っては降り、降っては登っていたのだ。それに気が付いたのは大将が用意したあの鏡、照魔鏡に自分の姿が映った時だった。
「それより、酒呑童子。あんた、私の事知っていたでしょう?」
 狸寝入りをしている酒呑童子に声を掛ける。
「ガハハ。バレたか」
 酒呑童子は横になったまま笑った。起き上がる様子を見せないのはあの酒のせいだろう。
「それは儂がこやつに黙っておるよう言ったからじゃ」
「総大将にそう言われちゃ、俺様達は逆らえないからな。だってあんたはそういう存在なんだからな」
 ハナが大将と呼ぶこの老人はぬらりひょんと呼ばれる妖怪の総大将という存在。そういう存在であるがゆえに照魔境に映された所で存在は揺るがない。
「何となく気が付いておったが、ナオちゃんとハナは生前からの知り合いじゃなかったのかの?」
「ええ。あの子は覚えていないようだったけれどね。と言っても、私も気が付くまでに時間がかかったわ。だって、私が死んだ時はまだナオは赤ん坊だったもの。まさか十年も時が経っていたなんて思わなかったもの」
 ハナの記憶の中にあるナオはハナと同じく手足を使ってハイハイをしていた。目線もハナと変わらなかった。
「お前さんはこれかだどうするのかの?」
「どうするもなにもないわよ。私の命は十年も前に無くなってるもの。あとは常世に向かうだけ」
 ナオのことは心配だが、現世に帰った今、ハナがナオに何かしてあげられることは無い。
「世話になったわね。大将のおかげでナオは無事に帰れたわ」
「気にすることは無い。生者を現世に返した。ただそれだけだからの」
 大将は発光が収まった社を感慨深げに眺める。
「儂の助力なぞ大したことは無い。あのお嬢ちゃんに帰ってきてほしいという家族の願いがあってこそだろう」
 そう。ナオにとって都合の良い事が幾つかあった。
 一つ目は黄泉比良坂に来た直後に食べたというおにぎり。仮に何も口にせずにこの世界に長居をすれば飢えを覚え、こちらの世界の食べ物を口にしてこちらの住人になったことだろう。
 二つ目はナオを障害や危険を取り除いた鏡。妖怪や幽鬼を退ける照魔鏡。あんなものが都合よく手に入るはずがない。
 三つ目はこの人間嫌いの酒呑童子を痺れさせたあの酒だ。あの酒の正体は神便鬼毒酒という曰くのある酒であり、この酒は妖怪の類、特に鬼を強く惹き付ける香りがあり、飲めば三日三晩は身体が痺れ動けなくなるといった毒酒だ。
 これだけナオにとって都合の良いものが揃っている事が奇跡だった。
「しかし、お嬢ちゃんを最も支えたのはお前さんに違いあるまい」
「……大きくなっても手間がかかるのは変わらないわ」
 ハナは大将の言う事に鼻を鳴らす。
「それじゃあ大将。私はこれで失礼するわ。もう二度と出会う事も無いでしょう」
 ハナは大将の返事を待たずに登ってきた階段を降った。

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