Miss Daisy

二草 絢

           One's hand


ペットでも飼うか、と仁が言った。

「犬?猫?」

「猫かなあ」

「どんな猫がいいの?」

 聞き返すと仁はうーん、と考え込んでロシアンブルーと言う。

「どうして?」

「遥に似てるだろう。最初はつんとして見えるんだけど、人見知りでシャイなところが」

 フライパンから熱いボンゴレを皿に移しながら笑った。

「二人とも家にいないんじゃ、かわいそうじゃない」

「子供ができたら飼えばいい。産休の間はゆっくりできるよ」

「飼いたいけど、子供の世話で手いっぱいよ、きっと」



 昇進の話が出始めた頃から、仁は結婚の話をするようになった。
 同じ金融事業部営業二課で、七年先輩の牧原仁と付き合い始めたのは入社して三年目、25歳の時だった。
 紅一点の部署で毎日限界を試されながら奮闘する、そんな日々をいつからか彼にさりげなく見守られている気がしていた。
 付き合い始めたきっかけは、友人が行かれなくなった代わりに、コンサートに誘ったことだった。
 困ったようで嬉しそうな顔をした仁を、今でも覚えている。
 人当たりがよく、面倒見のよい仁は分け隔てなくメンバーを助け、バランスが取れた仕事振りで上司からの評価も良かった。
 自分に厳しく必ず結果を残す仁を慕う気持ちが、恋に変わるのにそう時間はかからなかった。

 ボンゴレの皿を持っていくと、仁はまだサラダに手をつけておらず新聞を読んでいる。

「差押えが出始めた」

「住宅ローン?」

 二人の間で最近話題になっているのはアメリカの住宅ローンだった。信用度の低い人向けのサブプライムローンについて、仁は動向を気にしていた。

「冷めないうちに」

 促すと、仁は新聞を置いてパスタを食べ始めた。
 仁が実は非常に繊細でプレッシャーを受けやすい人間だということに、付き合い始めて気が付いた。
 自信にあふれ大胆な決断をする人が、プライベートで見せる少年のような柔らかさは遥の心を強くとらえた。

「ロシアンブルーって、目の色がきれいよね」

「エメラルドグリーンの目だな」

 二人とも動物が好きだったことは幸いだった。こんな会話をしながら二人で家庭を作っていく姿が、素直に思い浮かべられる。

「そういえば、黒澤の知り合いにいいブリーダーがいるって」

「黒澤くん?」

 声のトーンが変わらないようにと意識した自分に、遥は苛立った。
 仁の口から黒澤健介の名前が出ることはよくあることだった。
 仁にとって、10歳年下の黒澤は刺激を受ける伸び盛りの後輩だった。彼は黒澤を非常に評価し、大きな仕事もふっていた。黒澤も期待以上の成果を出し、二人の関係はよい状態だった。
 黒澤が遥に好意を示しても、その状態は変わらなかった。仕事上、三人で組むこともあったが、仁は気にした風でもなかった。

 黒澤の遥へのレディーファーストぶりは有名だった。あまりにも直球なので、周りがからかうことも忘れてしまう。
 最初は相手にしていなかった遥だが、二人でいる時、彼の目に真剣な輝きを認めるとたじろぐことがあった。
 自分の何が黒澤を惹きつけているのか、よくわからない。
 3歳年下の黒澤はずば抜けて優秀で、タフであり、確かに魅力的だったが、自分にとってどこか異質であった。
 華やかで注目を集める黒澤と、そういったものを避ける自分。
 たとえ仁と付き合っていなかったとしても、自分が黒澤と恋愛をすることは考えられなかった。

「顔が広いのね。黒澤くんって」

 立ち上がってお茶を入れようと、キッチンへ行った。
 買い置きしていた紅茶の葉を、温めたポットに入れる。
 思い出したくないことが頭をよぎる。
 黒澤の柔らかで、物憂げな歌声。

 あわてて振り切ろうとする。先日の夜から、何かがおかしかった。

 湯気を上げる薬缶を見つめながら、仁へ向かって言った。

「ねえ、住む場所、どこがいいかしら」

「考えてるよ」

「杉並区あたりはどう?今度、見に行ってみない」

 返事がないのでキッチンから振り返ると、仁はまた新聞を読んでいる。

「ねえ、仁」

 呼びかけると、厳しい顔をしていた仁が顔を上げ目元を緩ませた。

「ああ、聞いてるよ」

 床の冷たさに、スリッパを履かなくてはと、あたりを見回した。
 澄んだ空気が部屋を満たしている。



 遥は冬の日差しが好きである。
 控えめで優しく、心に染み入るようだからだ。
 彼が死んだのは冬なのに、自分はこの日差しが好きなのだ。
 仁を亡くした年の夏の日差しは、命を削るように辛かった。

 顧客の本社ビルから出ると、黒澤が丁寧に頭を下げた。

「おかげさまで、助かりました」

「こちらこそ」

「疲れましたか」

 隣を歩く黒澤がふと言った。

「ああ、ごめんなさい」

「もしかして体調が悪いのかなって」

 久々に、仁の夢を見た。
 目が覚めた後は眠れず、結局朝まで本を読んで過ごした。

「いいえ、大丈夫。ありがとう」

 黒澤は満足そうな表情をしている。打ち合わせは思った以上に順調で、幾つか試行錯誤する点はありそうだが前途多難というほどではなかった。

「遥さんでよかった。神経質な担当者なので。いつになく前向きでしたよ。頼れそうな人で安心したと」

「それはよかった。最後までその評価が変わらないといいけれど」

「遥さんなら心配いりません」

 黒澤は時計を見てから、道路脇のカフェに顔を向けた。

「時間ありますか。よかったら」

 スツールに腰掛けて車道を眺めていると、目の前にコーヒーが置かれた。
 黒澤がするりと隣に座った。

「コーヒー好きでしたっけ」

「最近は外ではずっとコーヒーなの」

 節ばった男の手が視界に入り、遥は目を反らした。

「ピアノはまだ弾いてますか?」

 唐突に黒澤が言った。

「ええ」

「また聴きたいな」

 返事ができない遥に、黒澤は話題を変えた。

「何度かあちらからメールしたんですけど、見てくれましたか?」

 感じが悪いと思いながら、遥はまた沈黙せざるを得なかった。
 黒澤からのメールは、読まずに全て削除していた。

「見てくれてはいなかったわけだ」

 彼は堪えた風でもない。

「もう少し、気軽に接してください。これからしばらく仕事をするんですし、僕は遥さんが今どうしているのか知りたいんです。知りたいと思うのは、当然でしょう」

 黒澤はいつもそうだ。
 普通の人間なら言いよどんでしまう場面でも、さらりと突破する。
 物事が上手くいくのは当たり前だとでもいうように。

 仁もそういう人間であったなら、あんな事にはならなかったのではないか。そう思い、遥は突然腹が立った。

「あなたが異動になったのをあちらで知ったんです。よく、辞めずに続けられましたね」

「辞めて忘れられるなら、そうしていたかもしれないわ」

 仁が昇進したら結婚する予定だと告げたあの夜、黒澤はどんな顔をしていただろうか。

 思い出せない。

 仁が不可解な死を遂げたのはその一ヶ月後で、その前後の記憶はあまりはっきりしないのだ。


 仁は、昇進試験後、電車に飛び込み自ら命を絶った。
 一ヶ月近くにわたる準備、連日の徹夜、期待とプレッシャーに何かがバランスを崩したのか。
 誰もが茫然自失の事態だった。出世頭だった彼がなぜ、まさかと誰もが呟き、沈黙した。
 遥にわかるのは、いつも仁が自分と戦っていたことだ。繊細な自分を恐れ、強くあるようにと自身を駆り立てていた。
 遥がもっとそばで支えてやらなければならなかったのだ。
 そう気付いたのは、全てが終わってからだった。
 遺書はなかった。
 仁の死後、黒澤とはほとんど話した記憶がない。
 数週間後人事が発表され、彼はその春かねてから希望していたNY支社へ転勤していった。

「僕は本当に心配だったんです。あなたが壊れてしまわないか」

 何度も言い聞かせている。
 黒澤には関係ないことだと。けれど、淡々と語るのが許せなくて、身体が震えそうになる。

「あの当時のことは思い出せないことも多いし、きっともう二度と思い出さないこともあると思うわ」

 黒澤はカップを握ったまま、窓の外へ目を向けている。

「誤解をしないでほしい。僕はあなたを苦しませたいわけじゃないんです」

 彼とは目線を合わせずに、同じ窓の外を眺めた。
 ビジネスマンが足早に行きかう道を眺めながら、遥は気が付いた。
 この4年、全ては風景だった。人との関わりもぬくもりも、全て避けて生きてきた。
 婚約者の死は、確実に遥の人生を変えたのだった。

「私が今、どうしているかは言葉にしなくても、多分あなたにはわかるでしょう。私は自分を見失うほど弱くはなかったけど、以前と同じ生活を続けられるほど強くはなかった。二度と取り戻せないものを追い求めて、立ち止っているの、今も」

 手をきつく握り締めた。
 すると、何も言うなというかのように、黒澤の手が重なった。

「すみません。僕の悪い癖だな。無神経でした」

 黒澤のこういうところが嫌いだったのだと思う。
 大胆で残酷で、人を追い詰める純粋さが。

「それじゃ、僕の話をしましょう」

 黒澤のカップのコーヒーは、ほとんどなくなっていた。
 言葉に出すのをわずかにためらった様子で、彼は話し始めた。

「向こうへ行ってしばらくして、結婚しました。すぐに別れましたが。大して考えもせず、親族が勧めてきた娘とそのまま……」

 黒澤も28歳になる。結婚をしていてもおかしくはないと思っていたが、すでに別れているとは思わなかった。
 再会した彼に、男としての微妙な深みを感じたのはそのせいだったのかと遥は思った。

「どんな人だったの?」

「まあ、一言でいえば勝気なタイプかな。お嬢様育ちで頭もいいんですが、理詰めで考える……」

 言いかけて、黒澤は自分で納得したような顔をする。

「僕は勝気な女性は好きなんですけど。あなたも、あまり表には出さないけど強気だもんな」

 答えに困って、遥は肩をすくめた。

「結婚生活……といっても仕事が多忙でほぼすれ違いでしたが、結婚したからにはきちんと家庭を作っていくつもりでした。ただ、見極めなかったつけですね、喧嘩になることが多くて。喧嘩をするほど仲がいいと言いますけど、僕には当てはまらなかったな」

 そう言って照れたように笑う黒澤は、意外なほど無防備だった。

「みっともない話はあなたにしたくないんですが、とにかく結婚生活は破綻してしまった。しばらく家を出て、ホテル暮らしをしていたんですが、ある時、古い友人がグランドキャニオンに行くと言ったんで、気晴らしに出掛けてみることにしたんです。彼はネイティブアメリカンの研究がライフワークで」

 黒澤は楽しげに続ける。

「見事な景色でした。岩も太陽の光も、風もすべて。テントを張ったものの、夜眠れずにずっと二人で星空と月を眺めていました。彼とは子供の時似たような境遇で、よく草むらに寝っ転がって、夜通し月を見ていたりしたんです。空を見上げるのは久しぶりでした」

「……」

「浮かんできた感情は全てとても素朴で。自分が何を見失っていたか、思い出したんです」

 しばらくして離婚が成立し、以来仕事に没頭してきたと黒澤は言う。

「仕事を依頼したのに、下心があったのは認めます。でも、ただ純粋にあなたと仕事もしたかった」

 それは、率直な彼の気持ちだろうと思えた。黒澤は遥の力を昔から買っていた。恋愛感情だけで仕事を頼んでくるような、生易しい男でもない。

「さあ、僕の手札はすべて見せました。楽しくやっていきましょう。僕達はあと三ヶ月はこうして関わるんですから」

 窓の外を行き交う車を、遥は無言で眺めていた。

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