Miss Daisy
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開発建設第一部から大型案件の依頼があったのは、黒澤に再会してから一週間後のことだった。
野島のデスクに行くと、彼はOutLook上で課員のスケジュールを眺めながら少々苦しい顔をしていた。
開発建設第一部営業1課が、今回大手デベロッパーのマーケティングを請負うらしい。
依頼者は帰国したばかりの黒澤健介だった。
エントリーできるのは、先週大きな仕事の区切りが付いた遥以外いない。
大型案件は心身ともにストレスがかかる。度重なる要件変更に泣かされる日々が来るのかと、遥は少々身構えた。
このスケジュールだと、全日程でサポートに入る同僚は確保できなさそうだ。調査実務を外部に委託をするにしろ人手不足は否めない。
「柏木は、前に不動産会社の市場調査を手伝ったことあるよな。あれはなかなかいい事例だったろう」
「はい。ただ対象数が一万ほどで小規模でしたから、今回とは比較できないと思いますが」
「まあなあ……だが、経験者のがいいだろう。開建の方に話をつけておくから、後で打ち合わせに参加してくれないか」
「わかりました」
この規模の仕事なら三ヶ月はまたぐだろう。
年度の実績も左右する、久々に長丁場の仕事になりそうだった。
23Fのミーティングルームの一室に入ると、すでに開発建設第一部の菊池課長と黒澤健介が打ち合わせをしていた。
遥に気が付くと、菊池が素早く手を挙げた。
「営業1課の菊池です、よろしく。それから担当の黒澤です」
菊池は40代前半、営業畑一本でやってきた豪胆な人物だった。日焼けした丸顔に黒斑の眼鏡で愛嬌がある顔をしているが、眼差しの奥は鋭い。
これまで仕事をした事がないが、実績もよく評判は悪くはなかった。
ただ、フロント特有の間接部門軽視の傾向は強いと遥は感じていた。
「あれ、野島君は?」
「申し訳ありません、打ち合わせが入りまして。この案件は私が担当させていただきます。野島課長と菊池課長には経過をご報告しますので」
「黒澤が不動産業界の経験者の方がいいと希望したので、柏木さんに今回の件をお願いした次第でね」
菊池はいくらか横柄な口ぶりで言った。
どうやら遥が一人で来たのが、気に入らないらしい。
黙って二人のやり取りを眺めていた黒澤が、初めて口を開いた。
「顧客は今後大きな利益が見込める重点先です。柏木さんには無理をお願いすることもあるかと思いますが、今後に活かせると思いますので、前向きなご支援をお願いします」
ダークグレイのスーツにブルーのネクタイは洗練されていながら、溌剌として見える。
にこやかで低姿勢だが、決して下手に出ている雰囲気ではない。部署の力関係はこれまでにも何度も味わってきたから、身の処し方はわかっていた。
内容は分譲マンションの主な購入対象である30代・40代への販促調査だ。
顧客のデベロッパーはマーケティング部門が脆弱な為、将来的に少人数で運営できるマーケティングシステム構築を望んでいるらしい。
「今回調査した結果をデータ化し、基幹システムと連動させます。以降は顧客自身で調査を行い、データベースを増強していきたいそうです。柏木さんには、うちのマーケティングシステムをベースに、顧客に合ったフォーマットの提案と初回調査を行って頂きたいんです」
黒澤の言葉に、遥は頷いた。
「わかりました。お尋ねしたいことがいくつかあります。まず過去の調査データはありますか?」
「一年前のものがあります。ただ、倉庫に紙で保管されているため、検索に多大な時間がかかっているそうです」
「それならば過去の調査データをスキャンして検索できるようにすることも、顧客に検討して頂いてはどうでしょう」
「そうですね」
「過去のデータはさあ、いいんじゃないの?契約書類なら別だけど、古い調査情報を労力かけて保管する価値があるか?23万件だろう」
菊池課長が口を挟んだ。口調に少々棘がある。
「調査の際、過去の履歴が思わぬヒントをくれることもあります。一年前のデータでしたら十分に価値があるかと思います」
菊池はその後もいくつか横槍を入れたが、遥が穏便な態度を崩さなかったことをつまらなく感じたのか、後は担当者同士で、と出て行ってしまった。
「すいません。菊池課長、先ほど統括部長にきつく言われて、むしゃくしゃしているみたいで」
「別にいいのよ。こちらも野島さんが来れなくて、仕事始めなのに申し訳なかったし」
「そう言っていただけると。そちらもかなり立て込んでいるようですね」
黒澤の表情は軽やかになった。
「この規模なら、本当はもう一人うちから入りたいところだけれど、あいにく皆ふさがっていて」
部署としては、大型案件へのサポートが手薄だと指摘されるのは避けたい。
「納期はできるだけ負担にならないように、調整しますよ」
「助かるわ」
「遥さんの調査は、緻密で素晴らしいと聞いてます。マーケティング事業部の若手の中では断トツだって」
柏木さん、はあっという間に遥さんに変わった。
「ほめてくれるのは嬉しいけれど、無理な事ははっきり言わせてもらうわ」
「もちろん、そうして下さい。僕は帰ってきて一緒に仕事をするのを楽しみにしていたんですよ」
人懐っこい笑顔の黒澤に、遥は表情を変えなかった。
同じ部署の同僚であった頃より、自然と距離がとれる立場であることを最大限に利用するつもりだった。
4年前の好意をいまだに意識するほど、遥も初心ではない。
「あちらで頑張っていたんですってね」
「向こうでは上司がかなりラフで、色々させてもらえたんです。失敗も沢山しましたが」
不敵な表情を見せても、爽やかなのは昔から変わらない。
「いい経験をしてきたのね」
「そう思います」
手帳を閉じて、黒澤はおもむろに言った。
「あちらでは予想以上に勉強できましたし、日本に戻って役立てたいと思って帰ってきました。僕の拠点はあくまで日本ですから」
海外転勤を経験してきた人間は、数年と待たず昇格していく。中東、ヨーロッパと各地を転々とする人間もいるが、その出世のスピードは国内組とは明らかに違う。
将来の幹部候補であった。
彼を目の前にすると、静まり返っていた心にさざなみが立つ。封印してきた過去がとっさに顔を出そうとする。
会話を切り上げたいと思いながら、何かに引っ張られるように身動きが取れない。
「遥さんは、どう過ごしていたんですか」
「それほど変わりはなかったわ」
何とか椅子から立ち上がりながら、感情を交えない声で言った。
第一線を外れた自分の立ち位置を、みじめだと思ったことはない。周囲がどう言うかは別として、今の自分にとっては相応しい場所だった。
「実は僕は」
ためらいがちな言い方の割に、飄々とした声が響く。
「なんて声を掛けようか、とても考えたんですよ。でもあなたを目の前にしたらそんなこと忘れてしまった」
再びこちらを見つめた眼差しには、訴えかけてくる感情がある。
「あの頃よりもっと、魅力的だって」
目が左手を鋭く捉えた。
「結婚していないんですね」
二、三日中に顧客にアポイントを取るので同行して下さい、と黒澤は告げてミーティングルームを出て行った。
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