Miss Daisy
Hanging garden
冬の雲間から淡い光が差した。
報告書から目を上げ、柏木 遥はフロア中央の空中庭園を眺めた。
本社23F。このフロアは全てミーティング用に作られている。中央に、屋上から光を取り入れた空中庭園があった。
太陽の光に気が付いたのは、この庭園のせいだ。
冷たい大気が滞る鉛色の空は、時折、心の奥に仕舞い込まれた痛みを思い出させる。
開放される術を知らないそれは、日常の雑多な物事に紛れて、今ではほとんど顔を現さない。
庭園の敷地は30平方メートル程といったところだろうか。
ガラスの壁の中に、人工池と観葉植物がバランスよく配置されている。
1辺の壁には屋上の庭園から伝うようにヘデラが施され、凝った造りになっていた。
庭園を囲むようように丸テーブルが50台近く、さらに外側にミーティング用の個室が配置されている。耐震対策の為、二年前に建てかえられ、その際環境への配慮がされたデザインが採用された。
報告書を見直す時に、遥は静かなこの場所をよく利用する。白いカップに注がれたコーヒーは、ほとんど冷めてしまっていた。
苦味の増したそれを、遥は飲み干した。
上司の野島に提出する四半期の報告書は、予定より早く仕上がった。久々にゆったりと過ごせる午後のひと時である。
打ち合わせまで、あと30分あった。
「遥さん」
感じのよい、爽やかな声に目を上げた。
グレーのスーツの青年が近づいてくるのを茫然と見つめる。
「お久しぶりです、遥さん」
目の前に現れた青年に突然記憶を掘り起こされて、遥はしばらく動けなかった。
鮮やかな笑顔を浮かべて、黒澤健介は遥の目の前に立っていた。
「帰ってきました。部署が移転して、先週から同じ20Fです。色々とお世話になると思いますが、よろしくお願いします」
運動神経の良さそうな、しなやかな身のこなし。輝きがあり、野性味溢れる目。
健康的な肌色に、やんちゃさのある現代的な風貌をしていながら、不思議と育ちの良さがある。
記憶より風格の増した姿を、遥はぼんやり眺めた。
「おかえりなさい、黒澤くん。こちらこそよろしく」
差し出された手を握って、遥は微笑んだ。
こういう時、とっさに笑顔が浮かぶのは歳を重ねたおかげだと思う。
「ここ、よく利用するんですか?」
黒澤は遥の書類に目をやりながら尋ねた。他に聞きたいことはあるだろうに、流石に再会したばかりでぶしつけだと思ったのだろう。
「ええ、静かで、集中できるものだから」
「知らなかったなあ、こんな良いところがあったなんて」
黒澤は辺りを見回している。
「ミーティングルームだけだと思っている人が多いんじゃないかしら」
「外回りしていると、意外に落ち着いて仕事する場所が見当たらなくて、困るんですよ。かといって、デスクに戻ると次から次へと仕事が舞い込んでくるので……」
「戻った早々、さすがね」
「昔と変わらず、走り回るのだけが取り柄なので」
親しみのこもった口調に、遥は警戒した。
「ずいぶんと洒落ていますね。空中庭園ですか」
「二年前に建て替えられた時にできたの。緑化事業の言行一致だそうよ。NYのオフィスも大規模に改築しているらしいわね」
「なかなか気が利いた感じになっていましたよ。完成する前に戻ってきてしまったけど」
人工池に太陽の光が反射するのを、遥は眺めていた。
自分の横顔を、黒澤が眺めているのに気がつきながら。
「元気そうでよかった」
黒澤の言葉が、遥の身体をまるで電流のように駆け抜けた。
遠くに隔てたはずの時間があっという間に手繰り寄せられ、遥は目眩がしそうになった。
「ずっと気になっていましたから」
見つめ合い、黒澤の目の中にあるものを感じ取る。
遥が目を伏せるのと同時に、黒澤の携帯電話が鳴った。
出るよう促すと、彼は残念そうに電話に手を伸ばす。
「すみません。また今度、ゆっくり」
感じよく会釈して立ち去る後姿を見送る。
姿が見えなくなっても、胸のざわめきはおさまらなかった。
下りのエレベーターに乗り込むと、上司の野島の顔を見つけた。遥に気が付くと、彼は申し訳なさそうな顔をした。
「すまん、高松部長に呼ばれてるんだ。擦り合わせ1時間後にしてもらえるか」
「わかりました」
野島は遥より6歳年上の37歳。妻と2人の娘がいる。銀縁の眼鏡に色白の柔和な風貌をしている。遥がマーケティング事業部にきた4年前からの上司である。
緻密な仕事ぶりは、この仕事に就いてから手本にしてきた。部下に裁量を持たせる寛容さもあった。一見近づき難い印象だが、親しくなると子煩悩の一面が顔を覗かせる。
「部長にどやされてな。来週はどっさり依頼が入るだろうから、頼むな」
「家族サービスの時間が減ってしまいますね」
「そうだなあ」
「亜矢ちゃんがさびしがりますね。宿題も見てもらえないし」
「そう言われているうちが華だな」
野島は乾いた笑いを見せた。クールな野島が、小さな娘達の隣に座って宿題を見てやっている姿を想像しにくい。
席に戻ると、各部署には人が戻り始めていた。
野島との打ち合わせが伸びたから、来月のデータの整理でもしておこう。
そう思いながら、ガラス壁の向こう、自席から見て左手にある開発建設第一部に目を向けた。
フロアを縦断する大型キャビネットで二分された窓側に、50人ほどの所帯の開発建設第一部がある。
確かに、先週大規模な引越しをしていたが、忙しくあまり気にしていなかった。
キャビネットから20メートル程先に、黒澤健介を見つけた。
スタッフの女性と打ち合わせをしている。
「帰ってきたんだな。黒澤」
高松部長のもとに行こうとした野島が、遥の目線に気付き声を掛けた。
「そのようですね」
社内で有名な黒澤のことは誰もが話題にする。
「懐かしいだろう。かつての戦友、ライバルか」
野島の含みのある言葉に、遥は素直に頷いた。
「ええ、4年経ちますから」
当時在籍していた金融事業部に入社二年目の黒澤健介が入ってきたのは、遥が26歳の頃だった。
金融事業部は時勢柄花形の部署で、同僚達は強いライバル意識を持ち水面下では激しい牽制が日常だったが、異動当初から黒澤の存在は際立っていた。
入って早々、達成率300%超という驚異的な営業成績をあげた。
期待と嫉妬の目がついて回る中、その後も悠々と仕事をこなしてみせた。
黒澤は不思議な人間だった。一言でいえば華がある。人から注目を浴びることに慣れていて、人間関係もそつがない。
バックグラウンドを詳しくは知らないが、物心つく頃から親元を離れ海外で生活していたという境遇が、垢ぬけた、どこか帝王学的な雰囲気を醸し出していることは、誰の目にも明らかだった。
かといってありがちな気取りはなく、愛嬌がある。
「うちの部署としては、勘弁願いたい奴だがなあ」
「そうですね」
営業から大量の依頼が入れば、マーケティング事業部は納期に追われ奔走することになる。
「ああいう奴の、いざとなった時の冷徹さと言ったら。笑顔で本当にえげつないこと言いやがる。見た目がいいから女の子達はまとわり付いて騒いでいるがなあ」
「女性には人気があるでしょうね」
遥が同意すると、野島は皮肉っぽい顔をした。
「浮かれている女なんて相手にしないさ。ああいう奴は、自分にとってプラスになる女しか選ばない。打算的だからな」
「そういうものでしょうか」
確かに、黒澤には自身の魅力をよくわかっていて最大限に利用するしたたかさや、日本人離れした度胸があった。
「NYでさらにのし上がって、順風満帆といったところか」
「そうですか……」
黒澤のNY支社でのことを遥は知らなかった。意図して耳に入れないようにしていた、という方が正しい。
「さて、部長にケツを叩かれてくるかな」
「今週中に色々終わらせておきます」
「助かるよ」
野島は疲れたような顔をした。中間管理職の悲哀が見え隠れするのを、遥はどこか微笑ましく思う。
「君も、黒澤流懐柔術に巻き込まれないように気をつけろよ」
遥は笑った。
「私は大丈夫ですよ」
遥の言葉に、野島は目を細めた。
「そうか、確かに。君は黒澤のマドンナだったからな」
部屋に入ると、買ってきた生花と野菜をキッチンに置く。
駅から徒歩で3分。
大通りの路地を一本入ったところにあるマンション。実家からの通勤が遠い為、会社から30分の場所に4年前に家を借りた。
1DKでこじんまりとしているが、女性専用で、楽器が弾ける物件に惹かれた。
新卒で商社へ入社して10年目、上司や同僚との関係も悪くはない。
部屋着に着替えてから、花瓶に買ってきた薔薇を活けた。
一人暮らしをし始めてから、花だけは絶やさず部屋に飾る。
季節の移り変わりを忘れてしまわないように、そんな気持ちがあった。
ここ数日は残業続きで寝不足だった。並行していた仕事の納期が重なったのと、報告書の作成の為だ。
引き出しからカモミールティーを取り出して、湯を沸かした。
気持ちが落ち着いたせいか、丁寧にお茶を入れる余裕がある。
これを飲んだらシャワーを浴びよう。
昼間に見た黒澤の姿が甦った。
彼がNY支社に転勤していった頃のことを、遥はあまり良く覚えていない。
あの頃は仁を失い、茫然自失で会社に行くのがやっとだった。
周囲の誰もが動揺していたが、恋人関係であった遥の比ではない。
大きなことがあった後で一人暮らしをするのは反対されたが、生活を立て直すには正解だった。
家に一人帰ると抜け殻のように座り込み、眠れない夜を過ごす事も多かったが、静かな自分だけの空間は次第に遥を癒していった。
精神的ストレスを理由に花形の部署からは異動をしたが、遥は今の堅実な部署が好きだった。
湯を注いだカップから、カモミールの優しい香りがする。
キッチンから戻ると、ナイトテーブルの上に飾った薔薇が目についた。
冬の薔薇は凛とした風情だ。
感情をなくせば平和であった。
日常の雑多な出来事も淡々とこなし、周囲との軋轢をおこすこともない。
心は死んでいるが、身体は生きている。それで十分だった。
仁を亡くしてから誰かを愛することもない。
人恋しさに誰かに身体を委ねてみたくなる瞬間もあったが、何かが拒否をした。
仁に義理立てしているわけではなく、もとから淡白なのだと思う。
寒い部屋で呼吸する花弁に、そっと触れた。
心がざわつくのを苦い思いで振り払う。
会社にいれば、いずれ黒澤と再会することはわかっていた。
だが胸に広がった痛みは想像以上のものだった。
遥は多くを失い、黒澤は多くを得ていた。
これは怒りなのだろうか。充実した姿であらわれた黒澤への。
呼吸をすることもしんどく感じたあの頃の闇が、再びやってくるような気がして、遥は目を瞑った。
冷たい孤独の中で感じる痛みが、今日は惨めな感情をも連れてくる。
もう二度と触れることのできない、仁のぬくもりと共に。
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