イヴの林檎

二草 絢

イヴの林檎





 ビル群の光はどこまでも続いて、時間の流れを忘れたように輝いている。


 最上階のレストランの眺めは壮観だった。
 全枠ガラス張りの広大な窓を見下ろせば、冬の暗闇にネオンを散らした木々が、 延々と広がっている。
 向かい相手のいない二人席から見ると、外の風景もレストランの光景も、同じ温度で自分を包み、選択を提示しているように思える。


 ジェニーには時間がなかった。
 目の前には二つ道がある。どちらを選んだらよいだろう。


 エドワード・ラグマンとは大学時代に出会って、共通の趣味を持っていたことから付き合い始めた。
 卒業して、ジェニーは新聞社の記者になった。
 仕事を持ってからは時間は減ったものの、付き合いはそれなりに順調に続いていた。


 事の始まりといえば、エドワードがジェニーの会社の同僚と浮気をしていたこと。
 彼らが自分の身近で平然と逢っていた事に、ジェニーは怒るより、とにかく驚いた。一体、いつの間にと不思議にさえ思ったのだ。
 「一時的な関係」と釈明したエドワードは、エリン・アンダーソンに別れを告げた。
 エドワードは欠点を含めても、十分優しくて魅力的な人であったし、ジェニーはどこか彼を突き放せない弱みがあった。
 付き合い始めて彼が浮気をしたのは一度目ではなかったし、ユーモアがあり、長年気心の知れた彼を失いたくない気持ちが強かったのだ。
 ジェニーにプライドがないわけではないけど、ごめんと素直に謝られると許してしまう雰囲気が、エドワードにはあった。


 ところが、問題はそれで治まらなかった。
 予想外だったのは、エリンが思いのほか気性の激しい人間だったこと。さらに社内の権力構造を熟知し、活用できる人間だったこと。
 職場でのエリンのジェニーに対する仕打ちは酷いもので、ジェニーはおかげで居たたまれない目に遭うことになった。
 「降るときは必ずどしゃ降り」とはよく言ったもので、仕事上でのミスがきっかけで、ジェニーの会社での評価は一変してしまった。悪い事に、その過失は思わぬほど重大事になってしまい、会社側も少なからず損害を受けることになった。
 周囲は明らかに冷たい。
 辞めなければならないだろうと、ジェニーは感じていた。 うんざりもしていた。
 すると、そこへまるで運命のカードのように、エドワードの海外転勤の話が来た。


『長期なんだよ。
 はっきりとした期間も知らされていないし、いつ帰れるかわからない』


 彼が早急に呼び出したのは、出発が週明けに迫っているから。
 多分、ここで小さな箱をさりげなく渡しながら言う。
 整った顔に清潔な微笑を浮かべて。


『一緒に行くだろう?』


 ジェニーは仕事が好きだった。
 疲労がたまってクタクタで帰ってきても、徹夜になっても、所構わず呼び出されても、終えた時の何ともいえない爽快感は格別だった。
 彼はジェニーが仕事に没頭するのを、良い目で見ていなかった。
 結婚したら仕事はできない。働く必要もないと思っている人なのだ。


 居場所を追われるかのように、今日付けで退社した。
 記者を続けたくても、このあたりで雇ってくれそうなところはないと思う。
 離れた他の土地で、仕事を探さなくてはならない。


 どのみち、エドワードと行っても行かなくても、ここにはいないという事だわ―――。






 卓上に、グラスに浮かぶ赤いロウソクがある。
 水に映る輝きは、灯の揺れの度に幾重にも変化する。


 ジェニーが迷っているのは、どちらの選択も、自分が望んでいるのかわからないからだった。
 子供の時から、何かを選択しなければならない時、ジェニーはいつも満足できるものを選んだ。
 それがなければ、いつまでも強情に首を振った。


 あの頃の私は、どこにいったのだろう。




 突然、目の前にブラウンのジャケット姿の人間が立った。
 聞こえてきた声は、待ち構えた人物のものより朗らかだった。
「やあ姉さん、偶然……」
「ケヴィン」
 思わぬ姿に、声が大きくなった。
 褐色の瞳をした快活な笑顔は、三歳下の弟ケヴィンだった。今はフットボールに夢中の大学生である。
「誰かと待ち合わせなの?ガールフレンド」
「ちょっとね」
 照れくさそうに笑う。
 ケヴィンの背の高さは、周囲のお客の目を引いた。
「学生がこんなところでお食事とは、おえらいわね」
「アルバイトの賜物かな」
「無理はしないでって言ってるのに」
 彼のバイタリティーにはジェニーも感心するほどだ。昔から、頭の回転の速さと行動力には驚かされる。
「無理なら身体が根をあげるはずさ」
 短く刈った頭に手をやって、相変わらず飄逸である。
 彼はチラチラとこちらを伺っている給仕人の視線に目を向けた。
「待ってる間、いい?姉さんの相手もまだだろう」
「どうぞ」
「少し話をしよう」
 ケヴィンは向かいのイスに腰掛けた。
「久し振りになるわね。まとめて休みを取れたら、帰りたいと思っていたのに」
「すっかり忘れているのかと思った」
 彼は肩をすくめた。


 ケヴィンとは血が繋がっていない。
 7つの時、ジェニーの家に引き取られてきた。彼は両親の長年のビジネスパートナーだったウェイランド氏の忘れ形見だった。
 彼がジェニーの家にやってきた事は、非常に大きな出来事だった。
 ケヴィンは天使ではなかったけれど、それまで静かだった家族に、いくつもの嵐を起こして、笑い転げる毎日を連れて来た。
 4人の家族は数多くの思い出を作った。


 幸せな時間は9年続いたものの、両親は5年前、ジェニーが19、ケヴィンが16の時、交通事故で亡くなった。
 親戚はなく、二人だけが残された。
 彼がいてくれたことで、ジェニーは天涯孤独の運命から救われたともいえる。


 幸い両親がまとまったお金を残してくれていたおかげで、生活していくのに問題はなかった。
 大学に入ってからはアルバイトをして余裕があり、お金を残す事ができた。
 ケヴィンも大学に進んだが、学費も十分出せるのに、彼は奨学金を受け、その上アルバイトをして家のお金にほとんど手を付けようとしない。
 ジェニーの両親が亡くなってからは割と静かになったものの、運動好きで明るい、法律家の卵である。
 二年前から、ジェニーは仕事の関係で職場に近いアパートに住み、彼は一人、家から大学に通っていた。


「クリスマスイヴにのんびり食事ができるのって久し振りだわ。この時期は事故が多いんだもの」
「何でも『久し振り』なんだなあ。電話でもいつも『ああケヴィン、久し振り』」
 彼の口真似がそっくりなので、ジェニーは吹き出した。
「これからは暇よ。ゆっくり休養できるわ」
「どうして?」
「今日で仕事を辞めたのよ」
 彼は黙り込んだ。どういった事情かは、わかっているのだろう。
 ジェニーの起こした「誤報」騒動は他社の新聞でも話題になったくらいだから。
「結婚するの?ラグマン氏と」
 唐突に、ケヴィンが言った。
「さあ……あと一時間もすれば、決まるんじゃない」
「何だか、人ごとみたいな言い方だな」
 確かにそうだ。仕事を失って、今はただ何も考えたくないのかもしれない。
「思ったことをすればいいのに」
 ケヴィンはぽつりと言って、窓の外へ視線を移した。




「姉さん。昔さ」
「何?」
「『イヴの林檎』っていうのがあっただろ。覚えてる?」
「イヴの林檎……?覚えてるわ。学校中ではやっていたし……それに、ひどく痛い目にもあったもの」
 ジェニーは突然、大事にしていた人形を見つけたような、無邪気な昔の気持ちを思い出して微笑んだ。


 『イヴ』というのは、クリスマスのイヴと、「女」の意味のイヴをかけたもの。
 12歳の頃だった。
 当時女の子の中で広がった、おまじないのようなものだった。
 熟していない青い林檎の実に、心を寄せる人間の名前を書いて、クリスマスの一週間前から杉の木に結び付け、イヴの日までに色が変わるように願うのだ。
 一週間のうちにその実が赤くなれば、相手に想われているということ。
 雪が積もっている程寒い外で、実が熟すはずはないのだが、だからこそ少女たちはつのる想いを林檎に託して熱心に願う。
 ジェニーにもその時、密かに好きな少年がいた。
 家族に秘密で、気付かれないように庭のはずれの杉林の、高い杉の上に結びつけた。


 真剣に願いながら、どこか信じられなかったものの、イヴの夜、覗きにいったら、木の上には色付いた赤い実がある。
 驚いて実を取ろうとして、木の上で足を滑らし、落下して意識を無くした。
 目が覚めたのは翌日の病院で、頭を打ったせいか、その時の記憶がいくつか抜け落ちていた。
 林檎の実はどこかにいってしまって、その後探しても見つからなかった。
 不思議に思ったものの、曖昧な記憶と一緒に、いつの間にか薄れていった。


 ただ、どうしても気になっていることが一つあった気がして、ごくたまに振り返ることがある。
「そういえば……あの時、何か忘れている事があったの。父さんや母さんにも言ってなかった事よ……」
「思い出せない?」
 ケヴィンがふと、寂しさの滲んだ声で言った。いつもの彼らしくなく、無表情で窓の外を眺めている。
 レストランの中ではグラスの触れ合う音や、上品なざわめきしている。
 バックミュージックはシューベルトだった。


 彼が言った。
「もう一つ道はあるよ」
「道?何のこと?」
「あいつと行くか、どこか別の場所へ行くか―――もう一つの道」
「一体、何を言ってるの」
 彼がなぜこんな事を言い出すのか、わからない。
「思い出せない?」
 そう言って、彼はまた過去の話に話題を移す。
 ここまで来て、ケヴィンの様子がいつもと違う事に気が付いた。
 理知的な性格の人間が、ひどく乱暴な話の仕方をする。


「あのあと、ジェニーが何も覚えていない事を安心もしたけど、逆に僕は忘れられなかった」
「……」
「僕はジェニーが林檎を飾るのをこっそり見て、悪戯したんだ、友達と。あの日、林檎を偽物の赤いものと取り替えて―――」
 過去の記憶が、ジェニーの中で次第に色を帯びてきて、テーブルの上の手を握り締めた。
「あの夜、姉さんが出て行ったのを見て、僕も後をついていった。びっくりした顔を見ようと思って」
 ジェニーは赤い林檎を確かめようと思って、木に登った。
 林檎が偽物だとわかって、ケヴィンの仕業だとすぐにわかった。
 腹が立ったものの、その次に見た光景で全て忘れてしまった。杉林の合間からは、遠目に、灯りのついた自分の家が見えたのだ。


 あれは二階にある父の書斎の窓だった。
 あの時見えたもの。
 記憶が勢いよく引き戻される。頭の中で絡んだ糸が解けるようだった。


 杉の木の下からは、気が強くて腕白そのものの、ケヴィンの声が聞こえていた。


『姉さん、ごめん―――』


「からかったのを謝ろうと思ったら、ジェニーはそんなことをすっかり忘れたように、ひどくこわばった顔をして、うろたえながら首を振った」
 母親は買い物に行っていた。
 あの時、杉の上から見えた光景は、父親と、お手伝いのアリスの姿だった。
 12歳でも、ジェニーの前とは別人の顔で、しなやか身をに寄せ合っている彼らの姿が、どういうことなのかすぐに気付いた。


「姉さんが見ていた方向で、何を見たのかわかった。初めて見て、ひどいショックを受けたのがわかった」
 見上げているケヴィン。
 父親とアリス。
 自分を取り巻くものすべてに向かって、叫んだのだ。


『信じてた私がばかだったて言いたいのね。愛してるのに』


 混乱していれば、氷柱ができるほどの日、簡単に足を踏み外して木から落ちる。
「ジェニーは自分の言った言葉を覚えてないみたいだった。でも僕の中では消えなかった。 父さんや母さんがいなくなっても」


 ロウソクは風もないのに、いつまでも揺れている。
 信じて疑わなかったものに向けて、叫んだ。


『愛してるのに―――』


 窓の方を見たまま、ケヴィンは言った。


「忘れたままでももいいと思ったんだ。僕にはジェニーの今の意思が一番だし、曲げる権利もないと思ってた―――引き止めることも」
 最後の言葉に、重さがこもる。
「僕はあの時から、ジェニーの気持ちを傷つけることはもうしないと決めたんだ。そして、できるだけそばにいて守りたいって」


「……あの杉の木は、まだ元のまま?」
 彼はおもむろにジェニーへ顔を向けて、悪戯っぽい笑顔を見せた。それは子供のものとは違う、日が落とす静かな影も確実に通り抜けた後の顔だった。
「変わってないよ」
 瞳の奥に、家族ではありえない熱心な輝きが潜んでいる事に気付く。
 彼がなぜこんな話をしたのかも、何を言いたいのかも、ジェニーはぼんやりと悟っていた。


 彼のガールフレンドは、おそらくいつまで経っても来ない。


「……どうして私がここに来るってわかったの?」
「留守番電話を聞いたんだ。ラグマン氏からの」
「……」
「合鍵をくれたのはあなただろう。いつでも来てくれってさ。 知らないだろうけど数えられないほど行ったんだよ。アパートに」
 いくら家族といえど、一人暮らしの家の留守番電話まで聞かれていたと知ったら、嫌悪感が生まれるはずだった。なのにそういう気持ちが沸き起こらない自分に、ジェニーは驚いた。
 それはケヴィンの性格を知っているからかもしれない。


 彼が今回のような事をするのは、今後の人生でおそらく二度とない。
 彼は神経質に眉根を寄せた。子供の頃からいつも明るい顔が、ごくたまにこういう表情をした。
 たいていはとても不安な時。
 テーブルの上で手を組んで、彼はまっすぐジェニーを見た。
 声がいつもと違った。


「一つ賭けをしてたんだ。この一階のロビーで、彼を待ってた」
「どういうこと……?」
「入ってきた彼に声をかけて、あなたの髪留めを差し出して、『僕のベッドに忘れ物をしたから彼女に渡してくれませんか』って言ったんだ」
「ちょっと待って、ケヴィン」
 話の方向に慌てて、すっかり冷静さをなくす。
「彼は顔色を変えて、俺に悪態をついてすぐさま引き返していったよ。 裏切られたってね。彼の方は俺を覚えていなかったんだ。弟だって」
「待ってケヴィン、それなら―――」
 さぞかし無防備で情けない顔をしていると思う。ジェニーはケヴィンと喧嘩もしてきたが、今までこんな顔をした事はなかった。
「彼は今頃飛行機の中だよ。たぶんね」
 あっさりと、ケヴィンは言い放った。林檎を隠した頃の彼の姿が、すっかり重なって見えた。
 あらゆるものが、瞬時にジェニーの頭を駆け抜けていった。
 そして静寂が残った。


 怒ってもいいはずなのに、ジェニーは吹きだしていた。
「ケヴィン、あなたやっぱり、いつまでもどうしようもない人間だわ」
 エドワードの様子が目に浮かぶようだった。
 いいのよ、最後ぐらいはこっちが振ってみても―――
「ジェニーが思っているより、僕はジェニーの事を知ってる。あいつが一昨日、 あの赤毛の女といちゃついてた事もね」
「もういいわよ」
 三つ下の義弟を見つめなおした。


 彼の真っ直ぐな目が、迷わず感情を示している。


「戻ってきて欲しい―――」


 自分がいつの頃からか、この目の前の彼の、ひたむきさのこもった瞳を、少し恐れていた事に気付く。
 無意識のうちに触れ合わないようにしていた。
 どこか懐かしい褐色の瞳を眺めながら、ジェニーは久しぶりに心が満ち足りるのを感じて、茶目っ気を込めて笑った。




「あの杉に林檎を結びつけるわ。あなたが取れないほど高くにね」







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