俺の小説家人生がこんなラブコメ展開だと予想できるはずがない。

薪槻暁

052.喜びは常にフラグが付き纏うのですか……?

「いいわよ」


 校庭からはわずかな掛け声、庭に生えている近くの大木からは鬱陶しいほどの蝉の鳴き声。夜とはまた違った合唱祭ではあるが、まだ昼より夜の方がよっぽどいい。この蝉の鳴き声はどこか夏らしく、暑さを助長しているように思えてしまう。たとい勘違いだとしてもそれが俺には鬱陶しいのだ。


「は?今なんて?」


 しかし、その時の俺はそんなもの目もくれず(耳もくれずといったところか)、腑抜けた声を出してしまった。


「……聞いていなかったの?なら言わなかったことにしようかしら」


「申し訳ないです、お願いですもう一回言ってくれませんか?」


 「まだ足りないわね」と水無月。どこまでこの人は面倒なんだ、俺はそそくさと頭を下げて見せる。


「お願いですーー、もう一度言ってくださいませーー」


「分かったわ」


 っていいのかい!!こんなにも棒読みが明らかなのに了解するとは…………信じられないことでもやってみるものだ。


「そんなにも頭を下げられては、一つぐらい願いを聞かなくては可哀そうだものね」


 どこまでこの水無月という生徒は嫌味な奴なんだ。たとえるなら一国を牛耳って富を貪るような政治家。それは言い過ぎか……せめて地位を悪手に利用した役人とするか。


「『いいわ』と言ったのよ」


 そんなことを知らずに淡々と話す水無月。了承したと彼女は言ったのだ。


「何がOKなんだ?いきなりどうした?」


 掃除もせずに唐突に部室に来るように水無月に招集され、駆けつけてはいきなり「いいわよ」と言われたのだ。戸惑う他に俺はなんとリアクションをとるべきだったのか。いやこれ以外になかっただろう。


「ならもういいわ、これ燃やしとくわね」


 燃やす?何を?まさかアレではないよな、朝に俺が提出したばかりではないか。


 水無月は外窓に近づき背中に隠されていた紙束を持ち上げては、ポケットからライターを取りだす。


 まさか……その原稿用紙は見覚えあるぞ。いやいやいやいや、見覚えがあるも何も今日まで徹夜で書き続けた新聞記事の原稿じゃないか。


「おいおい!!それは冗談だろ?な?そんな無駄なことはしないよな?」


「その無駄なことを、あなたがさせているのでしょう?」


 本当にとんでもないことをしでかす人だ。たとえ冗談だとしても限度ってものを知らないのか?俺はズタズタに引き裂かれた会話をまとめるように、つまりは俺を呼んだ本当の意味とやらを問うように言った。


「要は俺の原稿が通ったってことか?」


 黙ってうなずく水無月。なるほど編集者の意向とやらに背かず、すんなり俺の書いた文が通ったというわけか。


「新聞記事だよな?今日渡した、あの原稿か?」


「それ以外に何があるの?あなたの小説のこと?それならむしろ逆にまだ原稿を提出しないのかと訊きたいところなのだけど」


「それはまた今度話すとしてだな……あの量の原稿を今日一日で読んだのか?」


「授業時間の大半を使ったし、100枚ぐらい一日で読み切れるわよ」


 なんと、そこまでしていたとは。俺の隣の席で黙々と読んでいたと思ったらまさか俺の記事だったとは。ま、どうせ授業内容なんて予習しているのだから受けなくても余裕だとか言うのだろう。


「前から知ってはいたが、本当に仕事が早い奴だな……でも」


 息をすっと吸い込み出来るだけ肺に空気を送り込む。そして生み出された二酸化炭素を押し出すように俺は声を挙げた。


「これで終わりだァァ!!」


 これで俺の仕事は終わった。新聞記事を書くという俺に課せられた唯一の任務は果たしたのだ。高くそびえた砦をようやく瓦解し攻略したときのような喜びに俺は溢れていた。


 水無月は底辺から喜びを挙げる俺を蔑むことはなく、ただ「よかったわね」と言わんばかりに酷く落ち着き俺を眺めていただけ。




 まさに俺の心の中は和気あいあいとして、思わず両手を広げている時。同時に俺は廊下に繋がるドアへ近づいていたのだ。


「おっはーーーー!!今日も元気じょう……」


 元気上々と言おうとしたのか、それも無理難題と化した。俺がドアへ近づいた刹那、神無月茜はドア一杯に開き部室へと入ってきたのだ。


 一応、言っておくが「いきなり」だ。


 ショートヘアの彼女の髪の毛はふわりと風を巻き起こし、甘い香りとなったそよ風が俺の鼻孔をいたずらにつついてくる。それも一瞬のうちの出来事でくすぐる程度だった香りが今度はさらに強くなる。


 俺の上半身の辺りに小さいながらも柔らかな二つの感触。温かく心地が良い、嗅いだことのある香りが俺の顔の横から漂ってきている。心臓の鼓動が著しく激しくなり拍数を数えられないような速さ、不覚にも勝手に動いているこのポンプは何らかの影響を受けている。


 違う、これは俺の心臓ではない。そもそも俺は自分の鼓動は手で確認しない限り分からないはずだ。ならばこのせわしない胸の波打ちは……


「ちょ……い、いや……どうしたの?」


 俺は突撃してきた神無月の上半身を迎い入れるように、いつの間にか、そう知らないうちに神無月を抱き締めていた。


 飛び込んできた神無月を俺は反射的に正面から受け入れていたのだ、なるほど道理で心臓の音がするわけだ。


「……何でもない。ちょうど俺がドア付近にいたら神無月が飛び込んできたんだ」


 ここで冷静さを失っていないのは、俺がそのことを考慮しているからだ。落ち着きを失えば、その慌てふためく光景を水無月や神無月の笑い話にされてしまう。ゆえに俺は水無月の顔を伺わずにどうしてこんなハプニングが起きたのか、計画したわけではない旨を伝えるのが先手だとしたのだ。


 「そ、そうなんだ」と神無月。やはり突然の出来事に何が起こっているのか訳が分からない表情をする。そりゃあそうだ、部室に来た途端、いきなり男と密着しているんだ、驚かないのは水無月ぐらいしか思いつかない。


 数秒、そのまま沈黙と静寂がこの部屋を包み込むと神無月が口を開いた。


 そこで俺は理解したのだ。


 俺は結局失敗しているのだ、と。

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