銀毛に眠る ー狐と猟師、人と獣の物語ー

下之森茂

12 ふたつの境界

月明かりの中、
黒い影が草を掻き分けて歩く。


赤い獣の逃げた血の跡を追う
〈正統聖教〉の名もなき信徒。


キルスの父、ヨエルの『ご主人』であった
フィン家当主のハンヌが先頭を歩いた。


ハンヌにはもはや人の名はなかった。


黒い頭巾に髪は覆われ、
鼻と口を黒い布で隠す。


露出した鋭い目は血走り、
翠眼は瞳孔が開いて暗い。


彼は娘を殴り殺し、吊し上げた。
彼は息子さえも見捨てた。


彼の魂は、妻を失った時に荒れた。


農家や町の人々に裏切られ、荒れた。


魂の荒れた彼は娘に見放された。
娘は彼を〈新生聖教〉の保養所へと入れたが、
対立する〈正統聖教〉は北西部にある
彼の館を得るべく圧力をかけた。
それに屈した保養所は彼を売り渡した。


そして、〈正統聖教〉は彼に『治療』を施した。


しかしそれは治療ではなく、
〈アラズ〉の威光を借りた
暴行と聖薬による薬漬けであった。


繰り返し行われた治療により、
彼はオスとしての部位を奪われ、
人としての部位を壊された。


大量に与えられた聖薬によって、
繰り人形として荒れた魂さえも失った。


その人形の前に現れたのが、かつて哀れに思い、
餌付けしまった小さな赤い獣であった。


月明かりに照らされる赤い頭髪に、
割られた胸を赤くして、大きな人形の前に立つ。


「穢れた〈ナルキア族〉を殺せ。」
人形は小男に命じられ、
赤い獣に向かい走る。


赤い獣の足元に、輝く銀毛のキツネ。


「あわれな『ご主人』だ。」


赤い獣の発した言葉に、
人形は動きを止めた。


小男の命令が寸断された。


「何をしてる!」


人形はそれ以上、動けなくなった。
操り人形の糸は焼き切れ、身体は熱を発した。


「異端者です! 〈煤まみれ〉の残りかすです!」


小男は焦っていた。
焼いたはずの〈ナルキア族〉が、
斬ったはずの〈ナルキア族〉が、
まだ目の前に立っていることに。


そして人形が動かなくなったことに
苛立ちを覚え、赤黒い顔をさらに濃く染めた。


焦りだす小男の言葉に、
他の十余の信徒が2匹の獣を取り囲んだ。


みな両刃の剣を携えて、
いつでも斬り殺せるように構えている。


「〈すすまみれ〉か。」


赤い獣の言葉で、
かつてハンヌ・フィンという名であった男は、
その人形は、激しい炎に包まれて燃えた。


まばゆい光を放ち、
筋肉を覆う皮膚は弾け
破裂音を立てて内部を焼いた。


顔と頭を覆った布は灰になり、
金髪が、翠眼が、皮膚が燃えて蒸気を放ち、
人型の真っ黒な炭へと姿を変えた。


名もなき信徒たちは、
すすまみれ〉を突如目の当たりにした。


赤い獣と目を合わせた
名もなき信徒がひとり、
死の恐怖に駆られると
腰を抜かして這いずり逃げた。


その隣の者も、ほかの者たちも、
次は自分の番ではないかと、
名もなき信徒たちは理解を超えた恐怖が伝播し、
〈ナルキア族〉の村から逃げ出した。


最後に残ったのは小男であった。


2匹の獣に睨まれて、
配下を全員失ったことで、
本物の〈すすまみれ〉を見たことで、
小男は恐れをなして逃げた。


すすまみれ〉の生き残りが
胸を切られても生き延びて、
ひとりの名もなき信徒を
本物の〈すすまみれ〉にした。


得体の知れない恐怖に駆られ、
理解できないものを、
信じがたい光景から
目を背けるために逃げた。


しかし小男は逃げた先で、
足を穴に引っ掛けて転んだ。


夜暗と草木に隠れてたくくり罠が、
小男の足を捕らえた。


――お主が仕掛けた雑な罠じゃ。
「野犬を村に近づけんようにした罠だ。」
――どんくさい人間も居ったもんじゃの。


罠にかかった獲物を探して
森林を見回るキツネが言うので、
妙におかしくて赤い獣は鼻で笑った。


鼻にはもう腫れも血の詰まりも無い。


小男は倒れたままこちらを向き、
慌てて剣を抜くと再び赤い獣を斬った。


剣は赤い獣の腕肉を削いだ。
腕からは赤い血が流れる。


腕を切られても平然とするその獣に、
小男はひざまずいて剣を手放し、
右の拳を左の肩に置いた。


「頼む! 私も〈すすまみれ〉に…、
 その力で私も焼いていただきたい!」


小男は言った。
突然のことに2匹の獣は顔を見合わせた。


「私は〈正統聖教団〉の名もなき信徒。
 北部異端審問官のジョウシャだ。
 〈ミダス〉の力で、この名を残してくれ!」
小男は〈南部港キアン〉訛りの名を名乗った。


〈禁域〉に住まう島の所有者〈ミダス〉は
争い合う人間に怒り、町を焼き払う。
すすまみれ〉は〈ミダス〉の力と呼ばれた。


――こゃつに信念は無いんかのぅ。
キツネは疑った。
キツネの言葉は小男には聞こえていない。


「〈ミダス〉の力、なんてないもんはない。」
赤い獣は血が流れる左腕をぶら下げ、
右の手で削がれた腕肉ごと触れて撫でる。
血は止まり、傷跡だけが腕に残った。


小男はその光景を信じられず、
自分の目を疑い両手で拭った。


「すべては理だ。」
――わかって来たではないか。お主。
キツネの胸の傷を思い出して
赤い獣はそれを真似ただけであった。


「死んで土に還る。ただそれだけのこと。
 それを〈アラズ〉と呼んだに過ぎん。」
赤い獣にはそれがようやく分かった。
銀毛の獣がそれを教えてくれた。


「お前は私を殺すのではなかったのですか。
 私はこの村を焼いたんです。
 この村の人間を斬って全員殺したんです。」


小男は引きつった笑みを浮かべて告白を続ける。


「歯向かう異端者を斬り、
 女を斬って犯して焼いた。
 子どもを刺し、老人を刺し、殺し、
 赤子を投げて焼いた。
 お前の家族を殺し、犯し、焼いたのです。」


立ち上がり、見下ろす小男。


「獣同然の〈ナルキア族〉の村は、
 〈正統聖教〉に必要無かった。
 戒律を歪める連中に〈すすまみれ〉は丁度良い。
 だから獣どもは〈アラズ〉に裁かれた。
 〈太陽神クサン〉が罰を与えたのです。
 ただそれだけの為に死んでいただきました。
 あぁ、それは愉快でした。
 穢れた連中が焼かれ、
 綺麗になるのですから。
 我々が新たな神話を作るのですから。」


「人が人を殺しただけだ。
 獣が獣を殺すのと何が違う。
 〈アラズ〉はそれを罰せない。」


「違う!
 私は罰して欲しい。
 魂になり、聖人になり、
 神々にたどり着きたいのです。
 わかってくれ! 私はお前の同胞だ!
 〈煤まみれ〉の残りかすが生き残った。
 これはまさに僥倖ぎょうこうだ! 神の奇跡だ!
 お前が私を殺さないのであれば共に生きよう!
 お前の…私達の力を、〈中央〉の連中に
 知らしめてやるのです!」


(わからん…。何を喚いてるんだ、こいつ…。)
飽き飽きとさせられる小男の叫びの最中、
キツネが口を挟んだ。


――ほら、お主。どんくさいヤツが来た。
――お主の血の臭いで釣られたんじゃな。
――卵泥棒のどんくさオオカミめ。


キツネの向く方を赤い獣が見た。
小男も訴えを止め、視線を向けた。


森林で罠にかかった土色の若いオオカミ。
キツネのキジを盗んだ因縁深いオオカミ。


(メイのじゃないだろ…。)
執念深いキツネに、赤い獣は閉口する。


「待て! 助けてくれ!」
「それは〈アラズ〉に祈れ。」
「私に〈すすまみれ〉を!」
「運が良かったな。後ろ足だ。」


小男は慌てて拾った剣を振り回した。
若いオオカミは剣をかわして飛び退いたが、
横から大きな銀毛のオオカミが飛びかかった。


瞬時に喉を噛み砕く。


大きなオオカミはあごとその力強さで、
小男の身体を振り回し牙を食い込ませる。


小男は剣を力なく落とすと、
胸元に付けた金色の紐飾りは外れ、彼の
頭巾から赤い髪の毛があらわになった。


「あが…。」


赤黒い顔を剥き出しにした小男は、
〈ナルキア族〉の口減らしであった。
口から血の泡を吐き涙して、赤い獣を見た。


――こゃつは悪食めじゃ。
キツネがオオカミたちをそしった。


赤い獣は〈アラズ〉の祝詞のりとを唱えない。
体を黙って見つめた。


2匹のオオカミは
4匹の子どもを連れて肉をむさぼる。


名もなき信徒は、やがて土へと還る。


森林を歩く道すがら、
切られた腕の傷を見て
ヨエルはメイに尋ねた。


「メイはどうして怪我したんだ?」
初めて会ったあの森で、
メイは弱り、腹に傷を負っていた。


――わしは〈ミダス〉の理から生まれた
――ただのキツネじゃからの。
――人に襲われ斬られることもあるわ。
「…どんくさいやつだ。」
――わしをどんくさと一緒にするでない。
「メイはどんくさオオカミに鳥を取られた
 どんくさキツネだからな。」
――なんじゃ! なんじゃ!
――好き勝手言いおって!


メイが抗議してヨエルの足元をぐるぐると回った。


メイは〈禁域〉のキツネ。
島の所有者〈ミダス〉の住む〈禁域〉で生まれ、
島の理の中で生きる。


――のたれ死んどるお主がよぅ言えたもんじゃ。
「おしゃべりなヤツじゃのぅ。まったく…。」
ヨエルはあごを指で撫でてメイの真似をした。


「いつそんな古い喋り方を覚えたんだか…。」
――お主の言葉が古臭いからじゃ。
「オレか?」
――そうじゃ! お主じゃ!
――お主の言葉がわしに移った。
――へんな訛りが身についたもんじゃ。
「オレはそんな喋り方せんぞ。」
――それじゃ! それじゃ!
――はぁー…これじゃから男子はのぅ。


キツネに向かい、言葉をかけたヨエル。
最初の呼びかけが、メイの名前となった。


――どんくさいお主のせいじゃな。
――どんくさいから世話が焼ける。
どんくさいとヨエルが言ったせいで、
どんくさいとメイに何度も言われる。


「何とでも言ってくれ。」
メイの小言にヨエルははにかんだ。


――それでお主は人か、獣か?
名前と言葉を貰ったキツネは、
死にゆく赤い獣に命の選択を与えた。


死の間際、ヨエルは考えた。
人の姿をした獣が居た。
人の言葉を話す獣が居た。


「言葉を話すおしゃべりなキツネが
 人の隣に居るんだ。
 猟をして、料理をする獣が
 キツネの隣に居ても不思議じゃない。」
――なんじゃぁそれは…。
返ってきた答えにメイは呆れた声で言った。


メイはヨエルの隣を歩く。
ヨエルはメイの隣を歩く。


(自分が一体なんなのかなんて…。)
それは今もヨエルには分かっていない。


ただひとつ、ヨエルにとって、
メイを残してしまうことだけが心残りだった。


(恩には恩を…。)
それだけがヨエルの生きる理だった。


(人も獣も同じなのだから。)


尻尾を振ってメイが前に走ると、
向き直って後ろ足をよたりと倒して座った。
ヨエルはメイの目線に合わせてひざまずく。


――ほれ。
鼻先を上げるメイが目を閉じた。
それを合図にヨエルは櫛を取り出した。


額をき、背中をいた。
撫でられた銀の毛が揃い、
月明かりに光りきらめく。


「やっぱりノミは居らんのだな。」
――お主ぃ…。
――お主はそういうとこがダメじゃな。
――アホウで、臆病者で、泣き虫の迷い子の…、
――甲斐性なしでハレンチなケダモノじゃ。


先を歩くヨエルに付いて離れず、
メイは足元でくるくると回って飛び跳ねた。
ヨエルはそれを目で追った。


「はらへったな。」
――それはわしが言おうとしとった。
メイが笑ったので、ヨエルも笑った。


「メイ。」
――なんじゃ、ヨエル。
「何が食べたい。」
――鳥じゃな。
「はははっ。鳥かぁ。」
メイのいつもの要求に、
ヨエルは久しぶりに声を出して笑った。


森林を超えるとそこは深き森の禁猟区。
等間隔の柱が並ぶ、
人を通さぬ島の〈禁域〉。


白色の柱の間を抜ける。


ふたりは並んで境界へと入った。




(了)



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