銀毛に眠る ー狐と猟師、人と獣の物語ー

下之森茂

11 臆病な迷い子

キルスは獣に殺された。


顔を潰され、首を吊られ、
異端者として見せしめにされた。
キルスは人として殺された。


泣き叫んでいたアークスは、
剣で胸を貫かれ絶命した。
人の道具によって人として殺された。


人の形をした獣たちにふたりは殺された。


「殺してやる!」
口角から血の泡を吹き、赤い獣が咆哮する。


「全員殺してやる!
 目を潰して! 耳を千切って!
 喉笛噛んで殺してやる!」
殺してやる!
奪ってやる!
食ってやる!
赤い獣はいた。
赤い獣が精一杯の力で吠えた。


黒いの獣たちが目を光らせ、こちらを見た。


身の毛がよだち、立ち上がった赤い獣は
本能のまま振り向いて走った。


小さくか弱い赤い獣が
黒く大きな獣の群れに敵うわけがなく、
赤い獣は吠えて、走って、逃げた。


森林で暮らしていた赤い獣は、
黒い大人の獣たちより早く走って逃げた。


夕日に赤く染まった畦畔林けいはんりんを飛び越え、
枝の隙間を抜け、道なき道をひたすら走った。


しかし赤い獣は酷く傷ついていた。
胸から流れる血が止まらない。


鼻は血で詰まり、時折赤い飛沫が出た。
口で何度呼吸しても、楽にならない。


喉に詰まった黒い塊を吐き出した。
走れば呼吸は乱れ、視界はぼやける。


肺が空気を求め、
心臓を動かし血をめぐらせる。
だがその血は胸からこぼれる。


頸動脈を刺した牡鹿の最期を思い出す。
命を奪うこと、死に慣れることはなかった。


自らに襲いかかる死の恐怖に負けた赤い獣。


赤い獣の背後に死が迫る。
夜の暗闇に覆われる。


力を振り絞って走った。
生きるために走っていた。


生きる理由が分からない赤い獣。
草をかき分け、息を切らし、
ついに地面に倒れた。


見覚えのある場所。
変わり果てた場所。


村の広場。


〈ナルキア族〉の村。
すすまみれ〉の村。


赤い獣が生まれ育った場所。
人として生きた場所。


手で胸に触れる。
心臓が脈打ち、肺が上下し、胸に血が流れる。


赤い獣は自分の死を覚悟した。


(キルスが死んだ。)
そのことが悲しくて、
逃げ帰る自分が惨めでいた。


腹の中の瓶がひび割れ、赤い獣はいた。


まだ自分の死さえ受け入れられずにいた。


家族や村の人たちの死さえも、
赤い獣には受け入れられなかった。


ひとり遺された赤い獣は、喉を詰まらせいた。


(人として、未練があるとするなら。)
血が胸を焦がすように熱くなって湧く。


「メイ…。」


寝床で丸くなる、銀の毛玉が思い浮かんだ。


――ジョメル。
「ジョ…!」
か細い泣き声が出た。
情けない声であった。


(ジョメルじゃない…!)
叫ぼうにも上手く声が出なかった。


倒れた赤い獣の胸にメイが乗り、
銀毛を赤い獣の血で染めた。


――どんくさいお主はわしそっくりじゃ。
――わしはお主ほど、どんくさくないが。
胸の上でメイが前足立ちした。


(重い…。)
その重さが、瓶を蓋するようで
赤い獣には丁度良かった。


赤い血に染まった銀毛の間に、
血に染まらなかったメイの胸の傷が見える。


「どうして、ここに…。」
殴られた左の頬と、鼻の頭が腫れて、
耳に伝わる自分の声が分からない。


――お主がベソかいて呼びよるからのぅ。
――わしが見に来てやったわけじゃ。
――慈悲深いからのぅ。
――言うなればお主は迷い子じゃの。


(死んだところで誰にも導かれない。)


メイの言葉に赤い獣は鼻で笑ったが、
むせて血のつばがこぼれた。


(言いたいことがある…。
 やり残したことがある…。)
灼けるような喉で赤い獣は声を絞り出す。


「キルス・フィンの魂を…、
 〈月神クリエム〉が嫉妬しないよう…、
 弟…アークスの魂を、〈アラズ〉の元へ…。」
倒れたまま力なく、血まみれの手を仰向けにして
ふたりの魂を導く。


例え〈アラズ〉が
神々の住まう場所で無かったとしても、
神々が蛇と同じ獣であったとしても、
赤い獣は祝詞のりとを上げた。


(ただ導きたいから導くんだ。)
人であった自分の言葉を、
赤い獣は最後まで信じ貫いた。
それはただの『願い』に過ぎない。


「メ、イ。」
――なんじゃ。
「オレが、死んだら…、魂を、導いてくれるか。」
――お主は底抜けにアホウじゃの。
「オレはアホ、だ…。
 キツネに、声かけて、餌付けした、アホウだ。」
(ハンヌの餌付けに気づけなかった、
 アホウな獣だ。)


――餌付けとはなんじゃ。
――あれはごはんじゃ。
――料理じゃ。
「あと…こーしん、りお…
 買って、な…。」
――そんなこと。
――甲斐性なしに、ハナから期待しとらんわ。


死の間際まで、メイはいつもどおりだった。


(もう未練は無い。)
赤い獣はそう思った。


「獣になって…。」
――お主はアホウじゃ。
メイによって死に際の言葉も遮られる。


――魂は〈アラズ〉になど行かぬぞ。
――そもそも魂などは存在せぬ。
――存在せぬものが〈アラズ〉じゃ。
――そして〈アラズ〉は神々の場所ではない。
――人が最初にたどり着いた遠い空の三重連星。
――光の速さで4.3年ほどじゃ。
――導きの祝詞のりとなど、音も届かぬ遠き場所よの。
――そのように、すべては理の上にある。
――肉体の束縛も、大地も、すべては理じゃ。
――お主も、わしも理がある。
――分からぬものを、分からぬままにしたもの。
――〈アラズ〉は人が生み出した怠惰たいだじゃの。


ひとしきり喋ったメイは、
驚いた赤い獣の顔を覗き込んで笑っている。


人間の傷口は消毒しなければ、魂が荒れる。
体も放血しなければ、同じことが起こる。


(どうして体が失ったはずの魂が荒れるのか?)
牡鹿をほふった時の疑問の答え。


キツネのメイは、魂の存在を否定した。
すなわち〈アラズ〉そのものの否定だった。


(〈アラズ〉など、魂など存在しない…。)
赤い獣の抱いた疑問は、
メイの言葉で容易く解決してしまった。


蛇は〈アラズ〉に手を与えられ、
人となって大地に肉体を縛られた。


しかし肉体を縛っていたはずの〈アラズ〉が、
魂さえもが存在しないものであれば、
それは赤い獣にとって人が生み出した
言葉による足かせに過ぎなかった。
(なんてことだ…。)


メイの言葉によって、
赤い獣を縛っていた足かせは解かれた。


――それにお主はのぅ…。
――いきなりわしの胸を揉んだケダモノじゃ。
――おかしな理の、ハレンチなヤツじゃ。


好き勝手を言ったあとで、
メイは前足を折り曲げて鼻先を近づけた。


――お主、何か忘れとらんか?
(まさか…。)
血と唾液が喉を塞ぎ、
その塊を口の端から吐き出して首だけ頷いた。
呼吸が浅く、弱々しくなる。


(知ってたのか…。)
ぼやける視界と、震える手で
メイの腹下にある山刀をまさぐる。
――こそばいでないか。


手のひらに収まる薄い板を取り出した。
シカのツノから削り出した横長の櫛。


竪櫛たてぐしに比べ短い歯だが、
多めの歯を削り出すのに何本か折れた。


不出来な横長の櫛を見せるのを躊躇ためらい、
山刀の鞘に入れ隠して持ち歩いた。


それをメイの額に当て、
ゆっくりと撫でて抱き寄せた。
メイは目を閉じて、満足気な顔をした。


暖かな吐息を顔に感じる。
体温を胸に感じる。


寝床で顔を足蹴にされた日々を思い出す。


(あぁ、良かった…。)
それからヨエルも目を閉じた。


――恩には恩じゃ。
――お主が獣として生きるもよし。
――人として死ぬもまたよし。
――さぁ、選択の時じゃ。迷い子よ。



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