銀毛に眠る ー狐と猟師、人と獣の物語ー

下之森茂

09 折られた枝

元気になったメイは普段
森林の罠を巡回しているか、
小屋で寝ていることが多い。


――あのどんくさオオカミめ。
――あれはわしの鳥じゃぞ。わしの卵じゃ…。
(まだ根に持ってるのか…。)
オオカミにキジを奪われたことが悔しいらしく、
まだ鳥を諦めきれないメイは森林を見回る。


――お主…。
――こゃつは食えんヤツじゃ。
ムジナが罠に掛かったことを知らせたが、
メイは鼻の根元に深いシワを寄せて
歯茎を剥き出しにする。


ムジナと呼ばれる穴に棲むいくつかの種を、
猟師たちは揃ってムジナとまとめてしまう。
それには決まってひとつの理由がある。


ムジナは肛門近くに臭腺を持ち、
強い臭いで自分の占有域を主張する。
占有域はムジナの繁殖に有利となる。


野生動物は多くは食性や個体によるが、
ムジナの肉は食えないほどに決まって不味い。


――――――――――――――――――――


ヨエルも成人の儀の最中に仕方がなく食べた。


血抜きして沢で肉を冷却して処理しても、
茹でた途端に湯気が異臭を放ち、
鍋を小屋から追い出して雪の中で食べた。


硬い肉を口に入れた瞬間、
得体のしれない臭いが鼻から抜け出すと
一時的に嗅覚を失った。


触れた舌と頭が肉を毒か排泄物と判断し、
胃が拒み、途端に全てを吐き出した。


一緒に煮込んだ根菜さえも臭いが付き、
耐えきれず捨てることになった。


(食べもん粗末にすんな。)
父の教えはムジナが対象ではなかった。


それからしばらく小屋の寝床は、
ムジナ肉の臭いがまとわりつき
寝付けなかった。


猟師がムジナと呼びまとめる理由が
身に沁みて分かった。


――――――――――――――――――――


――そんなヤツ埋めてしまえ。
そのため、メイは容赦なく言った。


――ネズミのがまだマシじゃ。
――ネズミは食わんぞ。
メイは言っておいて否定する。


「キツネもこれは食わんのか。」
――わしは美食家じゃ!
――ゴミは食わん!
「ひどい言われようだな、こいつは。」


目の周りはすす色だが、
白色の毛が顔に混じる。
全身は金に近い土色で、毛皮はよく売れる。


ゴミ呼ばわりの肉は仕方なく埋める。


ヨエルも過去に酷い思いをしたので、
二度と食べたくは無かった。


――こゃつは農家の敵じゃ。
「キツネもそうじゃないか。」
――お主はのぅ…。
メイは冷めた目でヨエルを見つめた。


農家にはどちらも害獣であり、
特に繁殖力の高いムジナは
猟師にとって『なめし』の良い練習台になる。


――ウサギは良いのぉ。
メイはウサギを好んだ。
村の弟妹たちも、ウサギの飼育を
好んだのをヨエルは思い出す。


(愛らしい姿じゃなくて…。)
――煮てよし、焼いてよし。
「だよな…。」
予想が当たり、ヨエルは頷いた。
主に食に関してメイは人よりうるさい。


ウサギの皮は剥ぎやすく、
肉は手軽く調理できる。


癖がなくさっぱりとした味や肉質も
鳥に近く、なによりメイの小言も少ない。


出来上がった毛皮に触れると、
細く柔らかな冬毛に手が埋まる。
ヨエルのニヤつく姿が、
メイに見られていた。


メイは何も言わずにその場を去った。


――イノシシは子どもが良いの。
若いイノシシを捕まえた時にメイが言った。
濃い土色の毛色であるが、
その体格はメイよりもやや大きい。


後ろ足を引っ張り、逆さに吊ったイノシシの
つぶらな瞳が助けを求めているように見える。


(愛らしい姿じゃなくて。)
――肉が柔いでな。
(だよな。)
ヨエルは黙って頷いた。


イノシシは子どもであっても捕まえたら肉にする。
オオカミのような訓話も無い。


イノシシやシカは肉の癖がやや強い。
ただし若い肉ほどその癖は控えめになる。


外敵のオオカミが少なくなった森林において
繁殖能力の高さでイノシシは特に増えやすく、
餌が無ければ人里に降りて暴れる害獣になり
太い牙を刺して人を殺すことも少なくない。


イノシシは硬い毛が多く『なめし』の段階で
漬け込みが甘くなってしまい、
枯礬こばんの液体が腐敗して失敗したことがある。


『なめし』の前段階で石灰水に漬ければ
脱毛もできるが、商品として買われなくなる。


冬の寒さ厳しい〈中央〉などでは
『ご主人』曰く、毛付きが売れる。
石灰を買う金も、運ぶ時間も惜しい。


シカに比べるとイノシシは皮下脂肪が厚い。


体格が大きければ皮の面は増え、
『脱脂』の作業も比較して多くなる。


ちゃんと『脱脂』出来れば厚い皮になる。
もちろんちゃんと出来なければ
皮は腐ってダメになる。


革になると軽くて頑丈な素材として、
脱毛して染色などをすれば、
丈夫な靴や鞄などで活躍する。
抜かれた毛は刷毛などに隈なく流用される。


父の作ったイノシシの毛皮は
オオカミに噛まれたものの、
非常に丈夫に出来ていて
猟だけではなく寝床でも活躍した。


メイとは共に飯を食い、
暖を取れるので寝床も共にした。
寝床を占領されている時のが多かったが。


――お主、わしの尻尾によどかけおったろぅ。
寝起きざまにメイが騒ぐ。
――尻尾が濡とる! これが証拠じゃ!
そう言ってメイは濡れた箇所を鼻先で嗅ぐ。


吊ったイノシシの肉を解体する作業の最中で、
昼から寝床に入るどころではないヨエルは
寝ぼけたキツネから言いがかりを受けた。


よだれの匂いを嗅いだ後、
メイは静かになってまた寝床で丸まった。
「おい。証拠とやらはどうした。」


ヨエルがひとりで寝ている間に、
寝床に入ってきたメイの後ろ足で
顔を蹴られることがよくあった。


翌朝その件で訴えたところ、
――わしはそんなことせぬ。
――証拠不十分じゃな。
――お主の言いがかりの冤罪えんざいじゃ。
――早急に詫びよ。
――寛大なわしは鳥で許そう。
とまで言われた。


「また鳥か。」
鳥はあれからまだ捕まっていない。


――――――――――――――――――――


――良いか? 香辛料じゃぞ。言うてみ。
「こーしんりお。」
ヨエルは固いパンを水に浸し、
少しふやかしてから食べる。
(水の味がする…。)


――お主の料理には刺激が足りぬ。
――辛くて肉に合うやつじゃぞ。
――わしは美食家じゃからの。
――辛すぎるのはダメじゃ。
――わしは辛いのは苦手じゃからのぅ。
(どっちなんだ…。)


〈サンクラ〉の町へ行く日になると、
メイはいつものようにヨエルの料理に小言を言い、
またいつものように朝食を綺麗に平らげる。


――今日は見回りは無しじゃな。
そしてヨエルを見送ることもなく、
普段どおり寝て過ごすのは想像に容易い。


それから焼いたパンを半分に切り、
厚めに焼いたイノシシ肉を中に詰める。


脂が固まらず中に染み込むので持ち歩け、
なおかつメイが起きた時の昼食になる。
そんな準備もあって、出発は結局
以前と同じく昼前になってしまった。


(村にはまた夜になるか…。)


ヨエルは毛皮を詰めた背嚢はいのうを背負い、
森林を歩く。


メイが頻繁に罠の様子を見に行くので、
ヨエルは解体と脱脂などの作業に多く集中できた。


そのため今月は背嚢はいのうから毛皮が少しこぼれている。
(これで『こーしんりお』を買えるのか?)


森林を抜けて畦路あぜみちに出る。
〈ファタ〉はすでに刈り終わり、
何もない田が秋の深まりを感じた。


それからいくつかの畑は
獣に荒らされて放置されていた。


振り向くと〈煤吹すすふき山〉の麓にある〈禁域〉や、
ヨエルの過ごす森林は紅葉に染まっている。


黄色に色づく畦畔林けいはんりんの農道を歩くと、
笛や太鼓など高い音、
低く大きな音などが町から響く。


『収穫祭』が行われている。


農家は実りに感謝して秋の別れを惜しみ、
冬備えをして来年の豊穣を願う。


空に色鮮やかな黄色の煙を伸ばして
〈アラズ〉の神々に知らせる。


(『土起こし』みたいだな。)


ヨエルの住んでいた〈ナルキア族〉の村でも
春の『土起こし』と同じく
秋にも似た冬の平穏を願う祭りがあった。


そしてそれは成人の儀の始まりでもあった。


(あれから1年経ったのか…。)


家族と別れ、村のみんなと別れ、
森林の小屋でひとり、冬を過ごす。


あれほど鮮明だった冬の間の記憶は、
1年が経てばおぼろげになっていた。


イノシシの皮を渡した父の顔も、
背嚢はいのうを作った母の顔も、
ヨエルは〈すすまみれ〉の記憶で
黒く塗りつぶされてしまった。


そんなことを考えていても、
ヨエルが〈サンクラ〉の町に入れば
子どもたちにいつものようにからかわれる。


人々はそれぞれ黄色に染めた服で着飾る。


屋敷の裏門に吊るされた金色の鐘を鳴らす。


庭には落ち葉が散って積り、
冬を前に手入れがされていない。


「はーい…。」
少し遅れて、キルスの声がした。
使用人でも、『ご主人』のハンヌではなかった。


(魂の荒れたご主人はどうしたんだ。)
ヨエルは最後に見た彼の後ろ姿を思い出した。


裏戸から出てきたキルスは
初めて会った時とは少し違って、
別れた時のように表情に陰りが見えた。


黄色の大きな外套を着て、
白い顔は少しやつれて見える。
金の髪は縛っておらず、やや乱れている。


「あぁ…、ヨエルさん。」
ヨエルの顔を見て、一瞬目を見開き、背けた。


駆け寄って落ち葉の上で彼女は突然ひざまずいた。


「どうしたんだ?」
「ごめんなさい。ヨエルさん。」
両手を交差させて肩に手のひらを乗せると、
キルスはヨエルの膝位置まで深々と頭を下げた。


何が起きたのか分からないヨエルは、
同じようにひざまずいて、右の拳を左肩に当てて
会釈を交わす真似事をした。


「ヨエルさんの村が、
 〈すすまみれ〉になったことを知らずに…。
 わたくしは恥ずべきでした。」
「そんなこと…。」
知らないことを責めるつもりは
ヨエルには無かった。


元より交流の薄かった小さな村が
すすまみれ〉という厄災で消えたことは、
〈サンクラ〉の町で知る人は多くなく、
忌むべきことと口をつぐむ者ばかりであった。


その為に、キルスがヨエルの村ことを知ったのは
〈中央〉から町に戻って来てしばらく後となった。
ヨエルのことを知らず、キルスは取引をしていた。


いつまでも頭を上げないキルスに、
ヨエルは小さく震える細い肩に触れて
起こそうとした。


しかしキルスは頭を強く振って拒んだ。


「わたくしは、残酷ことをあなたに…。」
彼女はさらに頭を下げ、
ついには地面に伏せてしまった。


事情が分からないヨエルは困りきって、
キルスの肩から力なく手を離した。


「…今日、持ってきていただいた皮は、
 我が家ではもう買えないのです…。」
「え…?」
「先月の皮も、先々月の皮も、
 本当は買えなかったのです…。」
「何が…?」
(何を言っているんだ。)


ヨエルはお金は受け取った。


キルスから覚書の値段で彼はお金を受け取った。
それよりも安い値段で『ご主人』にも彼は売った。
彼は夏からずっとこのフィン家に皮を売ってきた。


「お父様は…、
 ハンヌは知っていたのです。
 知っていて…。知っていて、
 あなたから買っていたのです。」
弱々しい声で、キルスはヨエルは顔を見た。
許しを乞う為に、顔を見上げた。


「この家に、皮の販路など無かったのです。」
キルスの言葉にようやく、ヨエルは頷いた。


「んな革ぁ売れやしねぇんだ!」
『ご主人』ハンヌがそう叫んでいた。


「お父様は、農民にお金を貸していました。
 いくつかの〈サンクラ酒〉の製造所にも…。
 返る見込みのない大量のお金だったんです。
 獣害による農作物の不作と、
 〈正統聖教〉による酒の禁止により、
 『収穫祭』を前に夜逃げが相次ぎました。
 大きな借金を抱えたまま、お母様さえ失い、
 お父様は誰にも言えず…。」


〈中央〉から帰ってきて間もない学士のキルスが
いくら算術に長けていても、農家へ温情で貸した
『見えない数字』までは把握できなかった。


「ご主人はまだ治らないのか。」
「…お父様の魂は、静まることがなく、
 〈新生聖教〉の保養所へ…。」
キルスは再び顔を伏せた。
ハンヌがここには居ないことを示す。


「〈正統聖教〉とか〈新生聖教〉って?
 〈アラズ〉じゃないのか?」
大陸から伝わる神々の名を〈アラズ〉と呼ぶ。


〈聖教国ソーン〉の開祖が悟り、
ヨエルの住む〈ケーロ国〉に信徒が布教した教理。


「〈ケーロ〉は〈新生聖教〉と
 〈正統聖教〉に教派が別れます。
 〈中央〉を含む東部を〈新生聖教〉。
 我が家も〈新生聖教〉でした。
 南西部の小さな教派だった〈正統聖教〉は
 冬に勢力を強め、この〈サンクラ〉の町も
 配下になりました。」


ヨエルにとって難しい話でも
キルスは手頃な落枝を折り、
島の南西部を描いて教えてくれた。


〈ケーロ国〉は2つに分かれ、
首都〈中央〉を含む東部が〈新生聖教〉、
崖沿いの西部が〈正統聖教〉に囲まれる。


「〈アラズ〉の教理には島の土地や民族で、
 教派によってその戒律が設けられます。」
「戒律?」
「民衆に教え広めるための教理とは別に、
 信徒が守らなければいけないことです。」


(大陸と島みたいに土地で国が別れたのと同じで、
 〈新生聖教〉と〈正統聖教〉に別れた…。
 同じ〈ソーンの民〉で同じ教理なのに、
 教派が別にあって、戒律が異なる。)


島の端の村で暮らしていたヨエルにとって、
それは理解し難い感覚だった。


「冬の戦争で戦功を上げた〈正統聖教団〉は、
 教派としてそのまま勢力を強めました。
 厳しい戒律から生まれた教理は、
 怠惰たいだを生み出す酒を禁じ、
 穢れを生み出す動物の不殺を唱え、
 ふたつに繋がる動物の利用を禁じました。」
怠惰たいだと、穢れ。」


酒は疲労回復として大人たちに親しまれる反面、
酒によって身を持ち崩す人も居る。
キルスの父親、ハンヌである。


そして穢れは、動物の持つ毒。


イノシシやオオカミなどで負った傷は、
人の魂を荒れさせる。


排泄物の詰まった腸や、
体毛についた毒が血管に巡りって
内臓や肉の持つ熱により傷みを早める。


穢れは猟師の生活にも深く関わり、
ヨエルにも理解が出来た。


「人に労役という試練を課すこと。
 そして疫病をもたらすとして、
 動物の利用を一切禁じました。」
「そうなると。」
ヨエルにも想像に容易かった。


土色と暗いすす色の髪をした
〈エンカー族〉の奴隷に引かせた荷車は、
牛馬の代わる労働力だった。


「肉、卵、乳、それらの加工を禁じ、
 毛皮や細工の売買に留まらず、
 労働の利用さえも〈正統聖教〉は禁じました。
 反すれば〈アラズ〉が厳しく罰する、と。」


(〈ナルキア族〉の村は生活できない。)
それはヨエルの想像を超えた。


「そして厄災、〈すすまみれ〉が起きました…。」
想像を超えた事態が、ヨエルの住んでいた
〈ナルキア族〉の村を襲った。


村が〈すすまみれ〉にあった理由。
厄災の接点が、〈正統聖教〉の戒律と繋がった。


「コンスお祖父様が築いた
 フィン家は終わりです。」
「キルス、さんは?」
キルスは再び首を横に強く振った。


「わたくしと弟は…、この館を売り、
 …〈中央〉に戻って働きます。
 また学士として働けるとは思えませんが。」


キルスは顔を上げた。


「…お金を溜めたら、
 〈中央〉で商人をやるかもしれません。
 お父様や、お祖父様よりも立派な商人として。
 そうしたらヨエルさんの皮も買って、
 大きな館を建てます。」


震える口で、彼女は下唇を小さく噛んだ。


気丈に振る舞い、
生まれ持った優しさで情けを施すキルスだが、
ヨエルにとっては残酷なだけの優しさだった。


それはハンヌの優しさが元凶だった。


〈ナルキア族〉の村の猟師。
すすまみれ〉の生き残り。


皮を売りに来た見すぼらしい哀れな子ども。


(売れもせん皮を買ってやり、
 情を与え、さぞ満足したんだろう。)


飼えもしない赤い獣を餌付けし、
餌の味を覚えさせた。


人里に降りた
鼻つまみ者の赤い獣を見て笑い、
見世物のように金を渡す。


それだけに留まらずキルスの温情によって、
彼女はまた赤い獣の前に餌をぶら下げた。


(〈中央〉で皮など売れはせん。)
彼女の言葉を、ヨエルは心中で強く否定した。


(同じ物を他所から持ってきて安く売る。)
それは彼女自身がヨエルに教えたことだ。


商人が、自分で自分の首を絞める行為。


赤い獣は吠えたくなった。
喉に灼けるような熱が込み上げる。


立ち上がり、上を向き、腰に手を当てた。


腰にある山刀の鞘に触れ、
ヨエルは大きく息を吐いた。


自分がまだ獣を狩る猟師であり、
人間ということを認識する。


懐にある紙幣を握りしめて、
キルスの前に差し出した。


岩塩とミョウバンでいくらか使ったが、
決して多くはない皮を売ったお金。
情けで恵んでもらったお金だった。


「え…?」
困惑する彼女を見下ろした。


キルスは罵倒を受けるはずだった。


〈ナルキア族〉の生き残りに餌付けを施し、
恥ずべき行いをした。


それでも彼女は目の前の人間に許されたかった。


「皮は返さんくていい。
 〈中央〉に行って、何か買えばいい。」


(これっぽっちで何が買えるか分からんが。)
猟師でない彼女のことを考えた。


(岩塩とミョウバンは買えはせんよな。)
獣をほふり、肉を得る猟師として
生きていくわけではない。


そんな僅かなお金を彼女に差し出した。


ただ、ヨエルが今出来るのは、
獣のように叫ぶことではなかった。


畑を荒らし回ることでも、
差し伸べられた彼女の柔い手に
噛み付くことでもなかった。


(恩には恩を返せ。)
父の言葉を思い出す。


「今日は、皮を売りに来たんじゃないんだ。」
ぎこちなく片目を閉じて見せた。
キルスが以前やって見せた真似事だった。


ヨエルは背嚢はいのうから売れない皮を地面に投げ、
底に入れていた小さな物を取り出して見せた。


脱穀した〈ファタ〉の芽のような
乳白色をした竪櫛たてぐし


「それは…。」
「うん。後ろ向いて。
 上手く出来てるか分からんが。」
金髪のキルスの髪に触れ、
赤髪の母の後ろ姿を思い出す。


持ち上げた細い髪に歯を通すと、
竪櫛たてぐしは滑らかにそれをいた。


それから髪を束ねて少しねじり、
渦を描いて巻き、櫛を挿し込む。


髪は下に落ちずに竪櫛たてぐしで固定された。


「初めてにしては上出来だ。」
初めて作った櫛にしても、
まとめた髪にしても、
見様見真似で上手くいった。


キルスは手のひらで髪に優しく触れ、
ぎこちなく笑って見せた。


(キルスの髪の色は、
 母の髪の色と違うけど…。)
ヨエルはその姿を懐かしんだ。


キルスは言葉を詰まらせ、涙をこぼす。


彼女は震える口で、吹けない口笛を吹いた。
彼も口笛を吹き鳴らして照れ笑う。


村で過ごしていた日常を思い返す。


ただそれだけのことが、
今のヨエルにとっては嬉しかった。



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