銀毛に眠る ー狐と猟師、人と獣の物語ー

下之森茂

07 騒がしい夜の村

ヨエルは畦畔林けいはんりんの農道を北上する。
その足取りは重い。


月明かりが暗い夜道を照らしてくれた。


夜の鐘が鳴る前に買い物を済ませ、
ヨエルは森林の小屋に戻らず
島の西端の〈ナルキア族〉の村へと向かう。


(満月の日が取引の日で良かった…。)


普段であれば昼の内に村に着いていたのだが、
ヨエルは朝からキツネの妨害を受け、
今日に限って夜まで後回しになった。


キルスとの取引で多めに得たお金で、
岩塩とミョウバンを背嚢はいのうが埋まるほど買った。
これが無ければ肉を保存できず、皮も作れない。


大人用の背嚢はいのうは多くの物が入るが、
ヨエルが背負って歩くと肩紐が食い込んで痛い。


「魂が荒れてしまったのです。」
キルスの言葉が、脳裏をよぎる。
彼女との会話はそれきりとなった。


『ご主人』ハンヌの魂が荒れた。


妻の死と決別できずに酒に溺れ、
子どものように理不尽に怒り、
子どものように悲しみ泣きじゃくった。


ヨエルはその姿が目に焼き付いて離れなかった。


畦畔林けいはんりんは途中で切れ、
道には草が伸び切っている。
腰ほどの高さの草を掻き分けて、
使われなくなった道を歩く。


虫が鈴の音のような羽音を鳴らし、
草木のざわめきと共に雑音が響いた。


ハンヌの泣き声と嗚咽とがせめぎ合い、
ヨエルは気持ちの悪さに耳を塞いだ。


心臓の鼓動が高鳴る。


あの木立の向こうが村だ。
月明かりが家の輪郭を作り、
大人になって間もない男を迎える。


ヨエルは村に帰ってきた。


家々は燃え朽ちており、
月日が経って草に埋もれている。


夏に繁茂した草は、
土から得られる栄養を奪い合い
枯れていた。


村は〈すすまみれ〉に遭った。


燃え残った柱は
雨風によって根元が腐り倒され、
土でできたかまどは
崩れ落ちてその形を失っている。


誰も居ない村に帰ってきたヨエルは
ひとり佇んだ。


いつもの静寂が訪れる。


虫も鳥も、
誰の声も聞こえない。


口を開いて何かを言っても、
誰の耳にも届かない。


背嚢はいのうを置いて、
村の奥へと歩く。


草を踏み、
広場を越える。


たどり着いたのは
ヨエルの家だった。


すすまみれ〉の家。


積んだ石の仕切りが残り、
炭と草に支配された場所。


「ただいま。」と言っても、
自分の声は聞こえなかった。


ここには何も無い。
誰も居ない。


それから何かに誘われるように
足が自然と北へ向かう。


村の外れ、防風林を超えた先は、
島の南北を隔てる巨大な海崖かいがい


その崖には山刀の刃のように尖った
大きな自然岩が切り立つ。


天に住まう〈アラズ〉の神々に、
見つけやすいようにする為の標。


墓標。


岩の足元に、小さな石が
いくつも積まれている。


これまでに死んだ者の肉体の記録。


ヨエルは墓標の前でひざまずいて、
両の手のひらを天に向けた。
〈アラズ〉の神、導きの教理。


「我が祖父・ザアク、我が弟・ペラ。」
〈アラズ〉の元に着いた祖父に、
狩りでイノシシに太ももを刺された弟の魂が、
たどり着くように導く。


祖父は赤髪に白色が混ざった時に病で死んだ。
弟は赤髪のまま赤い血を失い、
顔を白くして死んだ。


母の腕に抱かれ、眠るように弟はひとり旅立った。


「我が父・イル、我が母・ハーナ。」


立派な赤ひげを自慢気によく撫でる父、
長い赤髪を竪櫛たてぐしで綺麗にまとめていた母。


ふたりは真っ黒な〈すすまみれ〉となって、
変わり果てた姿で死んだ。


「ネレ、イタラ、ホンカ、ヒル…。」
親しい幼なじみたち、その家族、
村のみなから祝福を受けた赤子、
弟妹のように愛しかった人たち、
兄のように頼もしかった人たち、
姉のように優しかった人たち、
父のようにたくましかった人たち、
母のように情深かった人たち、
祖父母のように賢かった人たち。


思い浮かぶ限りの名前を挙げる。


自分が埋めた〈すすまみれ〉の、
変わり果てた姿の、
思しき人たちの名前を挙げた。


彼らの名を挙げ、導けば、
早く〈アラズ〉の元にたどり着ける。


(アラズはどこにあるのか。)
幼き頃にヨエルが父母に尋ねた疑問。


目に見えないどこか遠くの空の果て。
取り残されたヨエルの、行ったこともない場所。


祝詞のりとは〈アラズ〉にまで聞こえてるのか。)


魂が旅立つ理。
導きの祝詞のりと


(オレがやっていることは何だ?)


ヨエルには、生き延びたひとりだけで、
村の人たちの魂すべてを導くことが
できるとは到底思えなかった。


(人と獣に、何の違いもありはせんのか。)


体の足で、山刀の血を拭って
上げる祝詞のりとと変わらない。


村の人たち全てを導く。
その荷がヨエルに重くのしかかる。


「オレはなんで生きてる…。」


海崖かいがいから吹き上がる風が、彼の耳をつんざく。
墓標は何も答えない。


――――――――――――――――――――


雪深い森林でひとり、冬を過ごす。
猟師の成人の儀は、14歳の冬に行われる。


この冬、普段は隣に立って狩猟を教える父や、
猟師の大人たちは森林へは近寄らない。


〈ナルキア族〉の猟師には、
ひとりで生き抜く力が必要になる。


ヨエルはひとりで罠を張り、ウサギを獲る。
血を抜き、皮を剥ぎ、塩漬けや燻製、
または雪の中に埋めて肉を保存する。


小屋にはそのための道具が揃っており、
皮をなめし、冬を終えると村に持ち帰る。


長い冬を終える頃に、村では
『土起こし』と呼ばれる火の儀式をする。


古くなった木材を広場に集め、
地面を温め大地に春を知らせる。


大地に眠る蛇が目を覚まし、
〈アラズ〉が生物に魂を与える。


立ち上る大きな煙を見て、
ヨエルは成人の儀は終わりを迎え村に帰る。


しかしその煙は『土起こし』では無かった。


人を焼き、
家を焼き、
村を焼いた煙だった。


〈ナルキア族〉の村はヨエルを残し、
すすまみれ〉となった。


ヨエルの家に残った、2つ重なった遺体。
大きな父の身体の上に覆い被さる母の身体。


燃え尽きなかった床は赤黒く染まり、
焼けた熱によるのものか、父の胸骨や
母の背中は鋭利に開かれていた。


ヨエルはふたりを墓標へと運び、埋めた。


それから他の遺体も運び、埋めた。


何人もの遺体を、何日も掛け、
何度も運び、何体も埋めた。


遺体を運び、汗を拭った顔は真っ黒になった。


魂を失い炭化しきっていない遺体の内部に、
蝿が集り、蛆が湧く。


屍肉食の鳥が群がり、野犬が吠える。


獣の体にも起こる肉の腐敗が、
人の遺体にも起き始めていた。


(魂が荒れる!)


ヨエルは焦った。
肉体の腐敗は魂の荒廃を意味する。


炭となった柱に留まり遺体を狙う鳥たちを、
小屋から持ってきた槍で追い払う。


遺体を掘り返す野犬が来るので、村の周囲に
罠を掛けて獣たちを近寄らせないようにした。


(オレがやっていることは何だ?)
真っ黒な顔のまま、埋める前の
真っ黒な遺体を見下ろす。


魂を失った肉体は土へと還る。
土へ還るべく肉体は魂が荒れ、腐っていく。


その光景は狩った動物たちと同じだった。


内臓を埋めれば虫たちが食い、
土を掘り返して獣たちが食う。


血抜きしなければ、体は腐る。
腐れば、やがて土へと還る。


人間も傷口を消毒しなければ、
毒が巡り、肉は腐り、魂が荒れる。


父の教え、祖父の教え、〈アラズ〉の教え。


(腐ることは…つまり魂が荒れることなのか。)


肉体を失った魂は、〈アラズ〉へ旅立つ。


しかし魂は旅立たずに荒れたことで、
遺体は魂と共に腐っていき、
動物たちと同じく土へと還る。


(じいちゃんをどうして埋めるのか。)


祖父が死んだ時、埋めた時に抱えた疑問。


ずっと抱えていた疑問の答えを目の当たりにし、
否定しようと弱々しく頭を振った。


察してしまったヨエルは、
無力感に囚われ立ち尽くす。


猟師として成人したヨエルは取り残され、
ひとりで生き抜くしかなかった。


――――――――――――――――――――


肉体を失った魂はみな、大地を離れると
〈太陽神クサン〉と〈月神クリエム〉に迎えられ、
4年掛けて〈アラズ〉の神々の元へたどり着く。


導くものが多いほど、その魂は早く
〈アラズ〉の元に着くとされる。


開祖が悟った〈アラズ〉への導き。


(キルスの母親は、
 遺された父親と子どもたちによって
 きっとすぐにたどり着くだろう。)


悲しむ『ご主人』の姿を見た。


(狩ったシカやウサギは何年掛かるんだ。)


習慣となった祝詞のりとを漫然と唱える。
狩った者しか彼らに祝詞のりとは唱えられない。


(父や母は、焼かれた村の人たちは、
 何年掛かるんだろうか。)


ひとりで何度も何度も同じ祝詞のりとを唱える。


〈アラズ〉の居場所を知らないヨエルが、
魂など導けるはずもなかった。


(誰にも導かれないオレはどうなる。)


自問自答が続く時、
不意にヨエルはつばを飲んだ。


「痛くても泣くな。
 悲しくても泣くな。
 泣きたくなったらつばを飲め。
 涙はこぼれず腹の中の瓶に貯まる。」
父の言葉を思い出す。
あごを親指で撫でて、父の仕草を真似る。


祖父が死んだ時の、父の教えだった。
弟が死んだ時の、父の教えだった。


失った家族を思い出すほど、つばを飲んだ。


妻を失ったハンヌの姿を見た。
身体の大きかった彼の瓶は、
ヨエルよりも小さく脆かった。


涙が出ないようにつばを飲む。


父の教えは嘘だった。


どんなにつばを飲んでも、
涙がこぼれて止まらなくなる。


つばを飲めば飲むほど、
我慢すればするほどに、
涙は腹の中の瓶に溜まって、
どうしようもなくあふれ出る。


こぼれ落ちる涙を、
天に向けた手のひらで拭った。


拭っても止まらない涙に、
顔を伏せて拭った。


腹の中の瓶が倒れると、
涙はとめどなく流れた。


満月がヨエルの姿を照らす。


仰向けになって、時折吹く風と
冷たい地面がヨエルの身体の熱を奪っていく。


(このまま眠って、冬になって雪が降れば、
 村の皆と一緒に春を迎えられるんだろうか。)


静寂の中で目を閉じる。


(『土起こし』が、大地と共に
 みんなを起こしてくれるんだろうか。)


死を前にした時、
生きる意味が分からなかった。


死の恐怖から村を離れ、森林の小屋へと逃げた。


〈サンクラ〉へ皮を売りに行く満月の日は、
その前に〈ナルキア族〉の村で魂を導く。


小屋で漫然と生きているヨエルは、
鞭打たれる奴隷の姿に今の自分を重ねた。
地面に足かせされた肉体。


鼻から冷たい空気を吸い込むと、
ツンとした香りが鼻腔に残っていた。


それが今日あったことを思い出した。


金の鐘よりも澄んだ声を、
雷鳴のような勇ましさを、
月ほど美しい金髪を見た。


(〈月神クリエム〉がキルスに嫉妬し、
 〈太陽神クサン〉から彼女を
 隠そうとするんじゃないか?)


酒に酔った母は、父への惚気け話を良くした。


キルスは〈中央〉で学士をしており、
とても賢かった。


ヨエルが猟師であっても嫌がらず、
〈ナルキア族〉であっても対等に接した。


祖父母のように様々な知識があり、
島や大陸の色々なことを知っていた。


大人たちが好んで食べる鳥の砂肝を
初めて噛んだ時の、あの心地よい食感を
口の中に思い出す。


ヨエルはその懐かしさに
何度目かのつばを飲んだ。


それから深く息を吐くと、
胸の中の熱が消える。
暗闇が彼を包む。


(うっ!)
突然、ヨエルは腹部に重しを感じて息が漏れ出た。


2本の獣の足に乗りかかられた。


(野犬か、オオカミか。)
その顔を見てやろうと思い、
目を見開くと見覚えのある銀毛のキツネであった。


黒い鼻面に、月光により毛先が銀色に反射する。


――はらへった。
「なんだ、ぉめぇ…。
 オレを食いに来たのか。」
キツネの月のような金色の目が
ヨエルを覗き込む。


――お主なんぞ食わん。
――わしは美食家じゃぞ。
――悪食の犬ころと一緒にするでない。
ヨエルは思わず鼻で笑った。
目の前のキツネに不味い肉だと言われて。


銀毛に包まれ身体が、
地面に奪われたヨエルに熱を戻した。


キツネのものか自分のものか、
澄み渡っていた鼻腔が獣臭に満たされた。


――シカの次は鳥が良いの。
「鳥だって?」
ヨエルにとって野鳥の捕獲は難しい。


――鳥じゃ、鳥。
――美食家じゃからの。
「なんだそれは。」


――胸肉を煮込んで味付けし、
――溶いた卵で包むとよい。
――脂身のあるもも肉を香草と焼くのもよい。
――砂肝に塩を振って焼くだけでもよいが…、
――やはり香辛料が欲しいの。辛めのやつじゃ。
――卵も欲しい。
やかましいキツネが前足でぴょんぴょん跳ねる。


「重いからやめろ。」
――失礼なヤツじゃ! わしは重くないわ。
痩せ細ったキツネは抗議に繰り返したが、
すぐに疲れて前足を折りたたんだ。
――はらへったのぅ。


「ぉめぇ…。」
――なんじゃ。
「名前は?」
――なんじゃ?
キツネは小首を傾げる。


「名前だよ。名前はあるのか。」
このおしゃべりキツネを黙らせるのに、
いつまで経っても名前が無いでは不便だ。


――メイじゃないのか。お主が付けた名じゃ。
「めー…。」


自らの訛りと、キツネの勘違いにより、
変な懐かれ方をしてしまったと気づいた。


――もとより名はない。
――そうじゃ、お主の名を聞いとらんかったの。
――それで鳥はいつ獲れる?
――有精卵を食う趣味はないぞ。
――卵は鮮度が大事じゃ。


「…ヨエルだ。ヨエル・ケシン。」
――ジョエル。
「ジョ、じゃない。ヨエルだ。」
銀毛のキツネが呼んだ名は、
〈南部港キアン〉の訛りがあった。


〈南部港キアン〉は島の南側の
唯一の港で東西が入り乱れる。


(銀毛なら、東の訛りか。)


キルスが言うには銀髪は〈クレワの民〉、
島の東部の〈ヤーテ国〉に当たる。


――ニョエル。言いにくいのぅ。お主の名は。
――ギョヘル。ショベル。ゴベブ?
「もういい。なんでも。」


原型を失いつつあったので、
ヨエルは妥協に妥協を重ねた末に諦めた。


身体を起こし、村の入口まで戻る。
持ち上げた背嚢はいのうは、やはり重かった。


「キツネは荷物を運べたりせんのか?」
――わしを牛馬と一緒にするでない。
(オレを犬ころと一緒にするヤツが…。)


――お主は猟師失格じゃな。
――目が悪い。
「まぁ、そうかもしれん。」


やかましいキツネと一緒に小屋へと帰る。
キルスが言うには、羊飼いは犬と過ごすという。


(キツネと過ごす猟師は…たぶん、
 どこにも居らんだろう。)
ヨエルは自問自答した。



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