銀毛に眠る ー狐と猟師、人と獣の物語ー

下之森茂

04 蛇と神々と魂の行き先

「オレ…わたくしは、ヨエルと申します? だ。」


キルスを真似して極力相手を敬った
言葉使いを心がけた〈ナルキア族〉の男だが、
彼女の口調を真似ただけですぐにほころびが出た。


「ヨエル・ケシン…、です。」
「ヨエルさん、ね。」
「そうですか、おくがた様が…。
 オ…わたくし、知らない、かった、です。」


ヨエルはたどたどしい言葉の後で
背嚢はいのうの前にひざまずいて毛皮を置き、
両の手のひらを空に向ける。


「…〈アラズ〉の元へ。」
祝詞のりとを上げ、神々の元へと発つ魂を導いた。


大海に棲み、大地を飲み込む罪多き蛇。


〈アラズ〉の神々は蛇に手を与え、
罪をあながわせる機会を与え、人へと変えた。


肉体を大地に縛り、魂を導く使命を蛇に与えた。
蛇は人となり、人は魂の導く手となった。


〈アラズ〉によって世界は生まれ、
開祖は旅立つ魂の行き先を人々に教え広めた。


肉体を失った魂はみな、
大地の束縛から開放される。


〈太陽神クサン〉と月神〈クリエム〉に迎えられ、
4年掛けて〈アラズ〉の神々の元へたどり着く。


導くものが多いほど、その魂は早く
〈アラズ〉に着くとされる。


「〈ナルキア族〉も、
 〈大陸聖教〉と同じ教理ですのね。」
「…わから、知りはせん?」
キルスの言葉にヨエルは首を傾げる。


父や母、村の者たちは人の死に対し
手のひらを空に向ける同様の仕草をするので、
年若いヨエルも大人を真似ているに過ぎなかった。


「〈アラズ〉の神、導きの教理。」
キルスはヘソの前で組んでいた手を、
正面のヨエルに差し出すようにして、
肘を曲げたまま手のひらを天に向ける。


肘は綺麗に直角に曲がり、
手は指先まで真っ直ぐ伸びている。


背筋がすらりと伸び、あごを引き、正面を見て、
頭の先から引っ張られるようにして立つ。


彼女の美しい姿勢に、
ヨエルは村との違いに驚いた。


「教理。」
彼女の言った知らない言葉をヨエルは繰り返した。


「〈アラズ〉の教えのひとつのことね。
 死んだ人の魂が旅立つ理由。その理。」
「ことわり。わかった、ね。」


「ふふ。貴方、さっきから無理して
 ずっと変な言葉遣いになってるわ。」
「すまん。
 オレは…わからん。」


話せば話すほどに男はほころびが出るので、
恥ずかしさのあまり言葉が出なくなった。


「〈アラズ〉は〈ソーンの民〉の神さまで、
 〈ソーン〉は大陸の北西側ね。
 はるか海の向こうの聖教国よ。
 大陸から渡ってきた信徒たちによって、
 〈ナルキア族〉にまで布教したのね。」


「島…。」
(大陸があって、国があって、島があって、
 そこに大陸の信徒が教理とやらを
 広めにやってきた…。)


頭の中でキルスの言葉を想像したが、
ヨエルは整理が付かず小さく首を傾げた。


「ここは〈ケーロ国〉。島の南側の西部。」


キルスは庭の落枝を拾って来て、
細い指で巧みに地面に地図を描いた。


丸、大きな島。
それから左から下に、はるか遠くの大陸。
北、南西、南と3つの土地が連なる陸地。


大陸の北側はキルスの言った〈聖教国ソーン〉。


丸く大きな島は
左と右に深く小さな切り込みが入り、
上下に、南北に分断される。


南側は中央に河を挟み、さらに東西に国が別れる。


河が分岐した先には
島を見つけた〈聖人ラッガ〉が築いた
〈南部港キアン〉がある。


ヨエルが住んでいる場所は、
島の南側西部の〈ケーロ国〉。


そして分断された島の真ん中、
煤吹すすふき山〉を囲む大きな丸を見て
彼は呟いた。


「〈禁域〉だ。」
それはヨエルも知る禁猟区の深き森、
白い柱に囲まれた場所。


彼の言葉に、キルスは嬉しそうに頷いた。


「〈禁域〉。島の所有者が住む場所ね。
 そしてここが〈サンクラ〉。」
分断された南側の、西南西の端。


「ヨエルさんは? どこから来たの?」
キルスに棒を手渡される。


獣の脂と泥に汚れたような
ヨエルのすすっぽい手とは違い、
キルスの手は〈ファタ〉の粉のように
白く柔らかかった。


地図などは旅商人が持ってきた
幼い頃に一度見たきりで、
ヨエルはあまり覚えていない。


ヨエルの生まれ育った村は西の端。


巨大な崖の見える集落。
切り立つ大きな自然岩。
〈ナルキア族〉の村。


「ここ?」
ヨエルの住む小屋は
村からさらに東へ行った森林で、
〈禁域〉近くに疑問混じりで丸を描いた。


「まぁ、ヨエルさんは、
 〈禁域〉へは行ったことがあるの?」
キルスは綺麗な青色の目を
さらに輝かせて尋ねてきた。


ヨエルは驚いて、
それから済まなそうに強く首を振った。
彼は〈禁域〉には入ったことはない。


(入れば〈すすまみれ〉になる…。)


「わたしね、
 先月まで〈中央〉で学士として働いていたの。
 算術は島内だけでなく大陸との貿易に使えて、
 物の出入りは全部数字で見ることができるのよ。
 大陸は〈聖教〉の美術品や工芸品や楽器、
 島の北側からは、寒い南側では育たないような
 野菜や果物、種や苗、樹皮や樹脂が手に入るの。
 あとは宝石や鉱物、珍しい動物とかもね。」
砕けた口調で口早に語るキルスに、
ヨエルは首を半分傾げながら頷く。


「でも南側って、〈聖人ラッガ〉が築いた
 〈キアン〉にしか船の入れる場所が無いから、
 ここで商品が壊れたり紛失したり盗まれたり、
 野菜や果物なんかは腐ったりもして、
 本来得られるべき数字を失ってしまうの。」


西の大陸から伸びた線と、
北側から島を半周した線が2本、
島の南下にある点に集中する。


〈聖人ラッガ〉が発見した島の南の入り口。
〈南部港キアン〉。
子どもたちが恐れる町の名前。


キルスは大まかな船の航路を地面に描いた。


ヨエルは船の姿を思い出した。


――――――――――――――――――――


(あんなのアリにしか見えん。)


村の崖から見える小さな船を、
幼いヨエルは遠く眺めた。


(あれに村の人よりも、
 いっぱいの人が乗っとるのか。)


遠くの船をずっと見ていても、
小さな親指の太さの分も進んでいない。


(歩いて運んだほうが早そうだが、
 牛が海を泳いで船を引っ張るんかな…。)


両手の親指を右手は顔に近づけ、
左手は腕を伸ばして遠ざける。


右手は右側に、左手は左側に見える。


片目を閉じると片方の指に焦点が合う。
近くの右手に合わせると左手がぼやけ、
遠くの左手に合わせると右手がぼやける。


それから両手を同じ方向に
右から左へと同じ速度で動かす。


顔に近い右の指ほど大きく見えて早く過ぎ、
顔に遠い左の指ほど小さく見えて遅く過ぎる。


すると右手の親指は左側に、
左手は右側に追い抜いてしまった。


ヨエルは結果に首を傾げた。


知恵ある者にとっては単純な事であっても、
島の片隅に住み、村のことしか知らない
ヨエルには疑問が尽きなかった。


疑問は目で見えることなのに、
分からないことだらけだった。


「人と獣はどうして違うのか。
 じいちゃんをどうして埋めるのか。
 どうして島は海に浮いて動かないのか。
 太陽と月がどうして入れ替わるのか。
 〈アラズ〉はどこにあるのか。
 遠くの〈煤吹すすふき山〉はどうして大きいのか。
 〈禁域〉には何がすんでるのか。」


小さな体から絶えずあふれ出る疑問は、
家族や村の人たちを困らせるだけだった。


弟ができたヨエルはそれから兄として、
猟師としての仕事を覚えることに専念した。


――――――――――――――――――――


ヨエルはキルスの言っていることが
話半分も理解出来なかったが、会話の流れと
地図に描かれた線で言いたいことが分かった。


島の〈南部港キアン〉から
島の北まで半周した細い線と、
大陸の〈聖教国ソーン〉へと長く伸びた線。


風が吹けば今にも消えそうな線が、
現在の輸送の航路になっている。


「キルス、さんは、ここが欲しい?」


ヨエルは地面に指で線を描いた。


木の棒の線よりも太く短い2本の直線は
南北に分断された切り込みの西から大陸に、
もうひとつは〈禁域〉を抜けて北へと向った。


(魂にしか永遠はない。
 時間が経てば、肉は腐り、骨は土に還る。)
あごを親指で撫でる。


父の父、祖父のまた祖父から続く教え。
時間は限られ、物は形を保てなくなる。


キルスの悩みをヨエルなりに解釈すると、
運ぶためにたどる道が長く細いことだ。


狭い道で運べるものの量は限られる。


田畑を隔てるだけの狭い畦路あぜみちよりも、
広い農道の方が多くの人が通れる。


それに物を運ぶのならひとりより荷車、
荷車には牛馬が必要。もしくは奴隷。


そして荷車よりも大きな船であれば、
村人まるごと運べてしまう。


ヨエルがここへ来る前、畦畔林けいはんりんの農道で、
荷車に轢かれそうになったのを思い出した。


(道が広くて短かければ、運べる物も増える。)


海路を短くする、陸路を太くする、
それならば単純に〈禁域〉を使う手は無い。


(でもこれは…。)
答えは単純明快だったが、
解決は困難だとヨエルは悲観した。


「そう! ヨエルさんは、若いのに賢いのね。」
ヨエルの想像に反し、
その困り顔を見たキルスは喜ぶ。


しゃがんで地面に描いた地図の線を見る。
小さくなった彼女は、
首を大きく縦に振って頷いた。


長い金色の髪は背中まで伸びて、
先が紐で縛られている。


長く綺麗な赤髪を竪櫛たてぐしを使って
器用に後ろでまとめる母の姿を思い出して、
ヨエルは黙ってつばを飲んだ。


「〈禁域〉は東西どちらの国も、
 過去に何度も調査に兵隊を出したけど
 誰ひとりとして帰って来ないの。」


田舎者のヨエルでも思いつくような
単純明快なキルスの輸送路短縮計画は、
昔の人がずっと思い悩み、
何度も試していたことだった。


(〈禁域〉には入れない。)


森林に住むヨエルであっても、
〈禁域〉の境界を越えることは叶わない。
父もヨエルに厳しく言いつけた。


「〈すすまみれ〉…。」
境界から向こうに行けば、人は炭となる。


ヨエルは真っ黒になった人間の
変わり果てた姿を思い出し、
振り払おうとすす色の毛皮を掴んだ。


「あぁ、しまった。
 仕事中なのにおしゃべりが過ぎちゃったわ!
 わたしってば…。ごめんね。
 ヨエルは他の取引相手と違って若いから、
 つい教室みたいにしゃべっちゃって。」


「きょーしつ?」
「あ、言ってなかったね。
 わたしはこの町で今は先生をやってるの。
 弟や子どもたち相手に教えてるのは
 簡単な文字と計算くらいだけどね。」


「せんせい。キルス…せんせい?」
教室という物を知らなければ、
ヨエルは先生というのも初めて耳にした。


猟師の教えは基本、親から子へ、
または師匠から弟子と、
その知識と技術を受け継ぐ。


「よしてよ、先生だなんて。
 まだ始めたばっかで、子どもたちなんて
 わたしの言うこと全然聞かないんだし。
 特に弟のアークスは生意気真っ盛りなの。」
「弟。」


(もう〈アラズ〉の元に着いたか。
 みんなが来るのを待っているのか。)
ヨエルも自分の弟のことを少し思い出し、
家族の話をするキルスが羨ましく感じた。


「商人の娘をもし先生なんて呼ぶようなら、
 猟師のヨエルさん払うべき毛皮の代金より
 わたしはヨエル生徒から授業料を貰わないと。」
キルスは片目を一瞬閉じて、
目で合図すると口角を上げた。


「うん、あべこべだ。」
合図の意味するところが、
キルスの冗談であることを察して彼は頷いた。


「そうよね。
 わたしのことはキルスでいいわ。
 堅苦しい喋り方もしなくていい。
 商売はお互い持ちつ持たれつ、だからね。」
キルスは地域への奉仕として教えていただけで、
お金を取る気は毛の先ほども無かった。


「キルス…。」
改めて名前を呼ぶと、
ヨエルは少し気恥ずかしくなった。


「えぇ、ヨエルさん…じゃなかった。ヨエル。」


自ら提案したキルスが
さっそく失敗して照れ笑うので、
ヨエルもぎこちなく笑った。



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