傷痕~想い出に変わるまで~

櫻井音衣

別離 3

「瑞希がホントはあの人に惹かれてるのも、あの人が瑞希を好きなのも気付いてた。でも俺は瑞希を誰にも取られたくなかったんだ。邪魔してごめんな。瑞希が浮気なんかするわけないってわかってるのに、嫉妬してひどいこと言って……つらい思いさせてホントに悪かったと思ってる」

光の言葉を聞いているうちに、涙が溢れてこぼれ落ちた。
きっとつらかったはずなのに。
光も悩んだはずなのに。

「瑞希、最後にひとつだけお願い聞いてくれないか?」
「うん……なに?」
「別れた後も、もう少しだけ……1年……いや、半年でいいから、俺だけの瑞希でいてくれる?俺も他の誰とも付き合わないから」

どうしてそんなことを言うんだろう?
別れたらお互いのことはわからないはずなのに。
不思議に思ったけれど、私はそのお願いに素直にうなずいた。

「あと……寂しくなったら、たまにはメールとか電話してもいいかな」
「うん……いいよ」
「良かった。これで心置きなくいける。来週中にはここ引き払うし、明日からは転勤の引き継ぎと引っ越しの準備で忙しくなるから……今日で、サヨナラしよう」

サヨナラという言葉でまた涙がとめどなく溢れた。
本当に大好きだった。
二十歳の時からの光との想い出が走馬灯のように蘇った。
好きで好きでどうしようもなくて、ずっと一緒にいられるように結婚したのに、たったの5年で離婚した。
好きだから言えなかったことや、好きだからこそつらかったこともたくさんあった。

お互いの胸に残る傷跡はいつになったら癒えるのだろう?
愛し合った日々や、別れを選んだあの日を、想い出と呼ぶにはまだ早すぎる。

「光……ずっと一緒にいようって約束……守れなくて、ごめんね」
「俺の方こそ……何度もつらい思いさせてごめん。瑞希、愛してる。最後に一度だけでいい。嘘でもいいから、愛してるって言って」
「光、ありがとう。愛してる……」

お互いの涙を指先で拭って、サヨナラのキスをした。
今まで何度も交わしたどのキスより、とても優しくて切ないキスだった。

光の家を出ると、雨はすっかり上がっていた。
光は一緒に電車に乗って私をマンションまで送り届けてくれた。
まだ体はつらいのに、最後だからと少し無理をしていたのだと思う。
いつもなら5分ほどの駅からマンションまでの道のりを、しっかりと手を繋いでゆっくり歩いた。
手を繋いで歩くのはこれでもう最後だと思うと寂しくて、胸がしめつけられるように痛んだ。
マンションの下まで来ると、光は私の頬にキスをして、じゃあまたね、と言って手を振った。
光の後ろ姿が涙でにじんでぼやけて見えた。

自宅に戻り、パジャマに着替えてベッドに横になった。
あんなに必死で私を繋ぎ止めようとしていたのに、あまりにも呆気なく別れを告げた光の言葉が、頭の中で何度もくりかえされた。

今日で別れるのに、帰り際に『じゃあまたね』と言ったのは、光なりの優しさだったのかも知れない。
いつかもっと大人になってまた会えたなら、あの頃のことも今のことも、想い出だと笑って言えるだろうか。




光と別れて3か月が過ぎた。
暑かった夏がもう終わろうとしている。
出先からの帰りに買ったペットボトルのアイスカフェオレには、線香花火のおまけが付いていた。
線香花火か……懐かしいな。
光は九州で元気にやっているだろうか?

別れて1か月ほどが過ぎた頃、一度だけ電話があった。
転勤先での生活もようやく落ち着いたとか、まだ職場と自宅の往復くらいで周辺のことはよくわからないと言っていた。
そして電話を切る前に、『瑞希、愛してる。幸せになれよ』と言った。
その後、光からの連絡は一度もない。
光にも幸せな未来が訪れるといいなと思う。



それから2か月が経った頃。
その知らせはあまりにも突然舞い込んだ。

『光が死んだ』

小塚からの電話で光の死を知ったのは、光が亡くなってから既に2か月が過ぎてからだった。
その知らせを受けた時、あまりにも信じられなくて何度も耳を疑った。
光は膵臓ガンに冒されていたのだそうだ。

九州に転勤になったと光は言っていたけれど、本当は病気が悪化して医者から余命半年の宣告を受け、仕事を辞めて実家に帰ったらしい。
私と再会した時には既に病を患っていたんだそうだ。
まだ若いこともありガンの進行が早く、気付いた時にはかなり深刻な病状だったと言う。
それを聞いて、なぜあんなに光が私に執着したのかがわかった気がした。

一度は自ら絶とうとした命だけど、私と再会してから死ぬのが怖くなったと、光は小塚に言ったらしい。
その時、小塚は光がガンに冒されていたことを知らなかったそうだ。

「たまに光と話すと、ずっとシノのことばっかり言ってたよ。また付き合えるようになったって時は、めちゃくちゃ嬉しそうだったな。だけどその後話した時は、シノが笑ってくれないってすごく悩んでた。光はホントにシノのことが好きだったんだな」


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