傷痕~想い出に変わるまで~

櫻井音衣

別離 2

「瑞希に背中流してもらったのなんて何年ぶりだろ?」
「そうだね。新婚の頃以来かな」
「新婚の頃はよく一緒に入ったな」
「あの頃は若かったからアレだけど……今はもういい歳になったから、体見られるのはやっぱり恥ずかしいな」
「瑞希はあの頃も今も可愛いよ」

可愛いって……。
そんなこと言われると、かなり照れる。

入浴を済ませた後、私たちは手を握り合って寄り添って眠った。
お風呂で疲れたのか、光はベッドに入ってすぐに眠ってしまった。
しっかり栄養を取ってゆっくり休めば、体調もすぐに良くなるはず。
光の寝顔を見ながら、そのうち私も眠りに落ちた。



日曜日は雨だった。
ベッドの中で雨音を聞きながら、結婚前によく行った中華料理屋のあのメニューが好きだったとか、新婚の頃に私がよく作った料理の話とか、他愛ない話をして長い時間を過ごした。

昨日から光はやけに懐かしい話をする。
私たちが一番楽しかった頃の話ばかりだ。
なんとなく違和感を抱きながらも、そのうち私もすっかり懐かしい話に興じていた。

この間まであんなに私の体を求めていたのに、ここ最近の光は軽くキスをしたり抱きしめたりはしても、それ以上のことをしなくなった。
私に気を遣っているのか、体調が悪いからなのか、それとも光自身の性的な欲求が落ち着いたのか。
理由はわからないけれど、昔みたいに光と笑って話せることはとても嬉しかった。

だけど笑って話せるのは楽しかった頃のことばかりで、結婚生活がうまくいかなくなってからのことや今のこと、そしてこれから先の未来のことを、光は何ひとつ話そうとしない。
どうせ話すなら楽しい話の方がいいって思っているのかな?
だけどそれは、もう昔には戻れないという現実だけでなく、この先の人生を二人で歩むのは難しいのだということを、改めて突き付けられているような気もした。

光は話をしている途中で、時折私から顔をそむける。
まだ咳が治らないからつらいのかな。
そう思ったけれど、その後すぐ私の方を見て笑うから、そのうちあまり気にならなくなった。

夕飯が済んだ後、光はまた薬を飲んでベッドに横になった。
よほど具合が悪いのかな。
夕飯の片付けを済ませてそばに行くと、光は私の方に手を伸ばした。
あ、これ……。

『おいで、瑞希』

懐かしいな。
昔、光がよくやっていたんだ。
隣に添い寝すると、光は私の顔を両手ではさんで額や頬、鼻先、そして唇に何度も短いキスをした。

「俺、今めちゃくちゃ幸せ。瑞希がすぐそばにいて笑ってくれて……。瑞希、大好きだよ」
「ん……?急にどうしたの?」
「もう会えないと思ってたのにまた会えて……。ひと目だけでも会いたいって思ってたはずなのに、実際に会ったら笑って欲しいとか、また一緒にいたいとか、どんどん欲が出てきてさ……。また付き合ってくれるとは思ってなかったから、もっと欲が出て瑞希を縛り付けちゃった。ごめんな」

急に改まって何を言い出すんだろう?
どう言い表していいのかはわからないけど、明らかに何かがおかしい。

「光、急にそんな改まっておかしいよ。どうしたの?」

言い様もない不安が込み上げた。
光は私の唇にそっと口付けて、優しく髪を撫でた。

「瑞希、今までごめんな。もう一度夢を見させてくれてありがとう」
「え……?」
「別れよっか、俺たち」

その言葉の意味がわからず、私は少しの間言葉を失った。

「九州に転勤が決まったんだ。瑞希がついてきてくれるって言うなら話は別だけど、そんなに遠く離れちゃうとなかなか会えないからさ。瑞希は今の仕事やめてまで、また俺と一緒になりたいなんて思ってないだろ?」

あまりにも光の言う通り過ぎて何も言えなかった。
課長という立場もあるし、この仕事が好きで頑張ってきただけに辞めたくない。
私がいないと生きていけないとまで言っていたはずなのに、光はあまりにもあっけらかんとしている。

「また付き合いだしてから、瑞希は一度も言ってくれなかったね……俺のことが好きだって。なかなか笑ってくれなかったし……無理させてたの、ホントはわかってたんだ」

光は気付いていたんだ。
私が昔のように心から光を愛せなかったことを。

「どうすれば笑ってくれるのかなとか、どれくらい愛したら瑞希は俺を愛してくれるのかなとか……ホントは俺より好きな人がいるのかなとか、ずっと不安だった」
「うん……」
「でも俺は瑞希が好きだから……嘘でもいいから、光が好きだって言って笑って欲しかった。そんなこと言える立場じゃないのはわかってるけど……いつか復縁して、子どもが生まれて家を買って……とかさ、もう一度瑞希と夢を見たかったんだ」

光は笑みを浮かべながら穏やかな口調で話し続けた。

「子どもは瑞希に似た可愛い女の子がいいなとか、小さくてもいいから庭のある家を買って、休みの日には家族でバーベキューができたらいいなとか……そんなことばっかり考えてた。でもそれは俺のおぼろげな夢であって、瑞希はそんなの望んでないってわかってる」

光はきっと、昔もそんな夢を見ていたんだろう。
私にもそんな頃があったからわかる。
一緒に幸せになろうと約束して結婚したはずなのに、私たちはいつから別々の未来を目指して歩き始めたのか。


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