傷痕~想い出に変わるまで~

櫻井音衣

別離 1

私が職場で倒れてから、光はあまり私に会いに来なくなった。
私に無理をさせてしまったことを自覚しているのか、それとも別に理由があるのか。

病院であまりにも光のことを気に掛けている私を気遣って、門倉が光に連絡してくれた。
私が過度の睡眠不足による過労で倒れたと門倉が話すと、光は言葉を失っていたらしい。
翌日、退院する時間に光が迎えに来てくれた。
光は私を家まで送ると、横になっていろと言って食事の用意をしてくれた。
決して上手とは言えない雑炊を私の口に運んで食べさせてくれて、その後は添い寝して、私を抱きしめて何度も頭を撫でてくれた。
私がウトウトし始めた時、光が悲しそうに呟いた。

『ごめんな……。俺はどれだけ愛しても、瑞希を幸せにしてあげられない』

その時、光が私を抱きしめながら泣いているような気がした。


翌週からいつも通り出社して仕事をした。
しっかり体を休めたので体力的には問題ない。
だけど気持ちはとても複雑で苦しかった。

私は門倉が差し伸べてくれた手を取らなかった。
やっぱり光を突き放すことなんてできなかったから。
門倉の気持ちには応えられないのに、門倉のキスも優しく抱きしめてくれた手も拒まなかった私はずるい。
自分のずるさや浅ましさに嫌気が差した。

門倉にはきっと、私なんかより素敵な人が見つかるだろう。
今更ながら門倉を好きだと気付いたことも、できるなら門倉の優しさに溺れてしまいたいと思ったことも、全部私の胸の奥に閉じ込めた。



土曜日の夜、久しぶりに光の家を訪れた。
何日も連絡がなくて心配していたけれど、昨日ようやく連絡が取れた。
体調が悪くて、仕事から帰るとずっと寝ていたらしい。
そんな時くらい遠慮しないで頼ればいいのに。
また私に無理をさせてはいけないと思って連絡しなかったのかな。

「瑞希の作った卵の雑炊好きだったな。久しぶりにあれ食べたい」

光は電話口で懐かしそうにそう言った。
確か結婚して少し経った頃、光が風邪をひいて食欲がなかった時に作ってあげたんだ。
よく覚えてるな。
仕事が終わったら光の部屋に行って作ると約束した。

何日ぶりかに会う光は顔色が悪く、だるそうに体をベッドに横たえていた。
雑炊を作ってテーブルに運ぶと、光は「瑞希が食べさせて」と甘えた声で言った。
熱い雑炊をお椀によそい、スプーンですくってふうふう吹き冷ました。

「はい、あーん」

雑炊のスプーンを口の前に運ぶと、光は嬉しそうに口を開いた。

「あーん」

まるで雛鳥に餌を与える親鳥のようだ。

「やっぱうまいな……。俺、瑞希の手料理は全部好きだよ」

光はしみじみとそう言った。
光が少し時間をかけて雑炊を食べ終えた後、食器を下げようと立ち上がったときに、棚の上に無造作に置かれた病院の処方薬の袋が目に留まった。

「病院で薬もらったの?」
「ああ……うん。風邪こじらせちゃったみたいでさ。咳とか頭痛とか微熱とか、あんまり長引くからしんどくて病院に行ったんだ」
「そうなんだ。これ食後って書いてあるけど、飲まなくていいの?」
「飲むよ。忘れかけてた」

グラスに水を注いで薬と一緒に手渡した。
光は水と何種類かの薬を口に含んで飲み込んだ。
何種類もの薬を処方されたということは、相当ひどい風邪だったんだろう。
薬を飲んだ後、光はベッドに横になってぼんやりと天井を見上げていた。
やっぱりまだだいぶ具合が悪いのかな。

「光、大丈夫?お風呂には入れそう?」
「体はちょっとだるいけど……瑞希が一緒なら入れる」
「えっ……一緒に?!」

新婚の頃はよく一緒に入ったけれど、もう何年もお風呂には一緒に入っていない。
光は私の裸なんか見飽きてるだろうけど、なんだかものすごく恥ずかしい。

「背中流してくれる?それから二人でゆっくり湯舟に浸かりたいな」
「えーっ……。先に言っとくけど、お風呂でやらしいことしないでよ」
「しないよ。のぼせちゃうと危ないもんな」

新婚の頃の教訓だ。

『お風呂でやらしいことをすると、のぼせて危ないからやめておこう』

思えばあの頃は楽しかった。
二人で笑って食事をして、一緒にお風呂に入ってイチャイチャして、少しのぼせて二人してベッドに倒れ込んで、また笑ってキスをした。
若かったな、二人とも。
一緒にいられることが何よりも嬉しくて、そばにいるとお互いの肌に触れ合いたくて。
何度も愛してるの言葉をくりかえしながら、優しい気持ちで肌を重ねた。
またあの時みたいに戻れたら、幸せだと思えるのかな?

一緒にお風呂に入って、光の背中を流した。
なんだか痩せたみたい。
体調を崩しているせいなのかも。



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