傷痕~想い出に変わるまで~

櫻井音衣

情事 3

「男ってバカだね。自分の好きな子が他の人としたことないって思うと嬉しいんだから。瑞希が俺としか付き合ったことないとか知らなかったし」

……それホントにバカなんじゃないの?
三十路過ぎのバツイチ女のセカンドバージンなんて、どこに値打ちがあるって言うのよ。
それより大事な初めてのものを、光には全部あげたはずだけど?

「……わけわかんない」
「わかんないかな。でも瑞希が他の男のものになったことがないってわかって嬉しいんだ」

光は背を向けていた私の体をクルリと自分の方に向けて、両手で頭を引き寄せ額をくっつけた。

「他の子と瑞希を比べたりしてないよ。今は瑞希のことしか考えられないくらい、俺の頭の中は瑞希でいっぱいなんだ」
「今は……って、今だけ?」
「ずっと瑞希でいっぱいにさせてよ、俺の心も体も全部。瑞希以外は見えなくなるくらい」

そっと重ねられた唇は優しくて、あの頃何度も交わしたキスを思い出させた。
変わらない部分もあるんだと、ほんの少しホッとする。
光の唇が私の唇に優しく触れるだけの短いキスで、懐かしいような切ないような気持ちになった。

その夜は結局、それ以上のことはしないで、手を繋いで寄り添い合って眠った。
眠りに落ちる直前、薄れていく意識の遠くの方で誰かの声が聞こえた。

『……好きだ』

その人はそう言って私の唇に優しく触れるだけの短いキスをした。
優しいのに悲しくて切なくて胸が痛んだ。
涙がにじんでその人の顔は見えなかった。

夢の中で誰かの名前を呼んだような気がする。
その人にも、他の誰の耳にも聞こえないほど小さなかすれた声で。
その声は風にさらわれてかき消された。
私の涙と一緒に。


窓を叩く雨音で目が覚めた。
天気予報では今日は曇りだと言っていたのに、朝から本降りだ。
こんなに降っていたらどこにも行けないな。
今日は光と二人、この部屋の中で何をして過ごせばいいのか。
光はまだ眠っている。
先に起きて朝食の用意でもしていようかと思ったけれど、やっぱりもう少し横になっていることにした。

何気なく目元に手をやった。
ん……?なんだろう、まつ毛が引っ付いて目がシバシバする。
一度気になるとどうしても気になって、ベッドを出て洗面所で鏡を覗き込んだ。
これは……涙の跡?
夕べ光と喧嘩というか、そんな感じになって泣いた時の涙?

顔を洗ってタオルで顔を拭いた。
いい歳してあんなわけのわからんことで泣くなんて、ホントにみっともないな。
もう少し私に余裕があれば、別れた後で光が誰と何をしていようが気にならないんだろうけど。
離婚した理由が理由だけに、過敏になってしまうのかな。
これが別の人なら、過去なんて気にならなかったのかも知れない。

一度起き上がるとまた横になる気にはなれなくて、やっぱり朝食の支度をすることにした。
ベッドの縁に腰掛けて着替えの入ったバッグを漁っていると、後ろから腰に手が回された。

「瑞希……おはよう……」

光はまだ眠そうな顔をしている。

「まだ早いよ。もう起きるの?」
「目が覚めちゃったから朝御飯でも作ろうかと思って」

洋服をバッグから出しながら答えると、光は私の腰に頬をすり寄せた。

「休みの日くらいもう少し一緒にゴロゴロしていようよ」

夕べ途中でやめてしまったから仕切り直したいのかな。
だけど私はそんな気分じゃない。

「でもお腹空いたし」

本当はお腹はそんなに空いていない。
ただその気になれないだけだ。

「瑞希……もう少しだけ。ね?」

光は少し起き上がり、甘えた声でそう言って私を後ろから抱きしめ、首筋や耳元に何度もキスをした。
抱きしめていた腕がほどけて私の胸元を撫でている。
どうにかして私をその気にさせたいらしい。
男の人って、そんなにしたいものなのかな?
どうしたものかと困っていると、光はガバッと起き上がり私を布団の中に引っ張り込んで押し倒した。


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