傷痕~想い出に変わるまで~

櫻井音衣

困惑 1

光と会った日の翌日の土曜日。
休日出勤なので平日より少しゆっくり出社した。

二課のオフィスに向かう前に自販機でコーヒーを買って喫煙室に足を運び、椅子に座ってタバコに火をつけ、ぼんやりと煙を眺めながらコーヒーを飲んだ。
夕べから光の言葉が頭をぐるぐる回って離れない。

『今更過ぎることも自分勝手なこともわかってる。でも俺はやっぱり瑞希が好きなんだ』

確かに今更だ。
もしあの時光が、私の代わりを探すより『もっと俺を見て』とか『俺を必要として』と私本人に言ってくれていたら……私は光の寂しさに気付けたのかな。
仕事はもちろん大切だけど何より大切なのは光だと、まっすぐな気持ちで言えたかな。

もう終わりにしようと思っていたはずなのに、今となってはどうしようもないことばかり考えて、今の光と一緒にいたいのか、自分がどうしたいのかがわからない。
大きなため息をついてコーヒーのカップに口を付けようとすると、ドアが開いて少し眠そうな門倉が火のついていないタバコを口にくわえながら室内に入ってきた。

「おはよう」
「おはようさん」

門倉は私の隣に座ってくわえたタバコにオイルライターで火をつけ、あくびを噛み殺した。

「寝不足?」
「あー……ちょっとな……」

門倉が少し顔を近付けて私の目を覗き込んだ。
その距離があまりに近いのでドキッとして思わず背を反らせた。

「な……何?」

ち……近いよ!!近すぎるから!

「なんだ、篠宮もか?目が赤いぞ」
「ああ……うん、ちょっとね。いろいろ考えてたら寝付けなくて」

三十路過ぎの女の寝不足顔をそんな近くでマジマジと見ないで欲しい。
肌のカサつきとか目の下のクマとか、普段は気にならない門倉の無駄に整った顔立ちとか……近くで見られるといろいろ気になるんだから。

「……元旦那のことか?」
「うん……。ああそうだ。昨日、光と会った」

門倉は煙でむせそうになりながら驚いた様子で私の方を見た。

「えっ……会ったのか……」

昨日会う前に言っていなかったとは言え、光と会うことを勧めたのは門倉なんだし、そんなに驚かなくてもいいのに。

「会ったよ。残業終わってから食事に行った」

門倉は眉間にシワを寄せてコーヒーを飲んだ。
私もコーヒーを飲もうと椅子の間の台の上に視線を移すと、置いたはずのカップはそこになかった。
おかしいな、確かにここに置いたはずなのに。
反対側の台の上にもない。

ん……あれ?
門倉はここに入ってきた時、コーヒーなんて持ってたっけ?
門倉が口を付けているカップの淵には、うっすらと私の口紅がついていた。

「門倉!それ私のコーヒーなんだけど!!」
「あ、すまん。ついうっかりして。金払うわ」
「……いいよもう。せめて別のところから飲んで」

私の言葉の意味がわかると、門倉はばつの悪そうな顔をしてカップから口を離した。

「……悪い」

間接キスとか、小学生じゃあるまいし今更気にするつもりはないけれど、私の目の前でカップに付いた口紅の上に口を付けられるのは、なんとなく生々しく感じてしまう。

「で、相手はなんて?」
「うん……それなんだけど……」

門倉が短くなったタバコを灰皿に捨てて腕時計を見た。

「ああ……もう行かないとな。話は仕事の後でゆっくり聞くわ。コーヒーのお詫びに今日はおごってやる」
「コーヒーくらい別にいいのに」
「いいからおごられとけ。じゃあ後でな」

立ち上がって私の頭をポンポンと軽く叩き、門倉は先に喫煙室を出て行った。
触られた感触がまだ残る頭を思わずさする。

小塚の店まで手を引いてくれた時も思ったけど……ホントにデカイ手だな。
よく考えたら小塚の店で話を聞いた後、公園で門倉に抱きしめられたんだ。
いや、その前も確か会社の中庭で……。

門倉がなぜそうするのかよくわからないけど……そんなに私は弱って見えたのかな。
ちょっと前まではむやみに触ったりしなかったのに、なんで最近になって急にそんなことをするようになったんだろう?
別にイヤなわけじゃないからいいんだけど。
……イヤじゃないから、少し複雑な気分だ。




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