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王が住む教室

文戸玲

クラゲになりたい


 入り口をくぐると,そこには別世界が広がっていた。部屋全体がガラスで覆われていて,その向こう側には名前も分からない魚が数えきれないほど泳いでいた。まるで,自分が海の中にもぐりこんだみたいだった。
 部屋を少し進んだところにある水槽には,優しく触ってね,と注意書きがしてある。

「ねえ,触ってもいい?」
「もちろんよ。その代わり,優しく,ね」

 頭をポンポンと叩かれた後,行っておいでと伝えるように背中を押された。水槽まで駆け出して中を見ると,そこには色とりどりのヒトデがいた。

「うわ,きったねえ。ぬるぬるしてるし」
「石の上に置いたらどうなるのかな」

 小学校低学年ぐらいだろうか,先に二人の子どもが遊んでいた。悪気はないのだろうが,子ども心にヒトデを傷つけるような言動に感じた俺は,そういえばここでも尊大な正義感を発揮したのだ。

「やめろよ。かわいそうだろ」
「誰だよお前。あっちいけよ」
「お前たちがあっち行けよ。生き物を大切にしないのなら出ていけ!」

 掴みかかろうとしたその時,「こらこら」と後ろから抱きかかえられた。

「ごめんね。邪魔しちゃって」

 おふくろが二人の子どもに軽く頭を下げると,ばつが悪そうにしてその場を去っていった。

「なんで謝るの? 悪いのはあっちなのに」

 おふくろはすぐには何も言わなかった。でも,その顔は叱りつけるときの顔でもなかった。

「そうね,仁,立派だったわよ」

 立派ならどうして止めるんだ,という気持ちと,褒められてうれしい気持ちの間でどういう顔をしたらよいか分からないでいるうちに「でもね」とおふくろは続けた。

「どれだけ正しいことをしても,相手を傷つけたらダメなの。分かった?」

 正しいことと,相手を傷つけることは反対のことだと思った。そんなことを同時にするはずがないと思ったけど,今まさに自分がしていることがそうだったのだと思い至ると,おふくろは「偉いね」とうなずいて頭をなでてくれた。

「見て見て! すっごいかっこいい!」

 近くにいた人が振り向くほど大きな声でおふくろを呼んだ。「他の人もお魚さんもびっくりしちゃうよ」とたしなめるのも聞かずに,腕を引っ張って水槽の前に駆け出した。
 不思議な形をした生き物だ。ゆらゆらと漂う姿は愛くるしいが,成長したら強くなりそうなロマンが感じられる。家に持って帰って大きく育てたらどれほど幸せだろう,と思う。

「ねえねえ,連れて帰って良い?」

 冗談で言った言葉に,反応はなかった。おふくろの方を見ると,視線は隣の水槽に映っていた。

「何見てるの? あ,クラゲだね。クラゲが好きなの?」
「クラゲさん,いいね」
「うん,きれいだし,ぼくも好き!」
「ゆらうら気持ちよさそう。脳みそとかあるのかしら。なーんにも考えずにただふわふわしているって気持ちいいんだろうな。私もクラゲになりたい」

 言っている意味が分からず,おふくろをじっと見つめていた。その視線に気づいて,「ごめんごめん,次あっち行こっか」と次は腕を引いて歩きだした。
 水族館で一番明瞭に浮かび上がる思い出は,その瞬間だった。


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