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真昼の月

彩火透火

六ノ月 ひかり⑥

 藤が目をあけると白い天井が目に入ってきた。
 どうやら保健室みたいだ。

「……あ。……僕は……」

 藤は身体を起こした。
 身体が重い。頭も重い。重力に引かれるまま稲穂みたいに頭が垂れた。
 藤が目を覚ましたことに気づいたのか保健医のアイシャ先生がベッドを囲うカーテンの隙間から顔を出した。
 起きている藤を見るとアイシャ先生はそのまま中に入ってきた。

「まったく君は……。もう何日も飲まず食わずでしょ?そりゃあ倒れるわよ」

 アイシャ先生が呆れたように言うのを藤はうな垂れたまま聞いていた。
 そっか倒れたのか……
 藤は真っ白いふとんを見るでもなく呆っと見つめていた。
 こつん……
 ――?
 頭を小突かれて藤は顔を上げた。アイシャ先生が湯気の昇るマグカップをこちらに突き出していた。

「はい、これを飲んで」

 藤はマグカップを受け取ると恐々と口に含んだ。甘い味がした。砂糖とは違うクセのある甘み。

「おいしい……」

 アイシャ先生は優しく微笑んだ。

「はちみつ茶よ。疲れたときなんかにわたしもよく飲むのよ。応急処置だけど少したてばすぐに動けるようになるでしょ。それと口をあけて」
「……?」
「ほらほらはーやーく。はい、あーん……」

 藤は眉をひそめながらも素直に口をひらいた。アイシャ先生が口の中に白くて四角い物を放り込む。それは舌に触れると溶けるように崩れてしまう。これも甘い味がした。上品なシュガースイート。砂糖だった。
 ……涙がこぼれた。

「砂糖よ……と、藤くん? ……どうしたのっ? どこかいたいのっ?」

 とつぜん涙をこぼした藤を見てアイシャ先生は慌てたように尋ねてきた。藤は泣いているのを隠すように俯いて違うと頭を振る。

「なんでもない……どこも痛くないよ……」
「嘘よ!」

 本当だった。
 どこかが痛かったわけじゃない。
 ただ……
 思い出してしまっただけ。
 こうなるホンの少し前に持っていた幸せな時間を。
 暗闇に一筋差し込んでいた、もう戻らない太陽よりも眩しい光を。

「本当に……なんでもないよ……」

 藤は袖でぐしぐしと顔をこすると笑顔を向けた。アイシャ先生が真剣な顔で見下ろしている。目をとじて諦めたようなため息を一つ。

「……藤くん」

 藤は顔を上げた。

「少しだけ楽になってみない?」
「……? どういうこと?」

 藤は本心で聞き返した。アイシャ先生はまたため息をついた。

「……知ってるのよ」
「――え?」

 何を?そう問う前にアイシャ先生は言葉を続けた。

「もう知ってるの。あなたがいじめられていること」
「……」

 藤は俯くとふとんの中の手をぎゅっと握り締めた。

「ナタリーもスヴェルト先生ももう知っているのよ。あの事件の本当のことも。今どうしようかみんなで考えているから、そうやって独りで――」
「そんなこと……」

 アイシャの科白の最中に藤は口の中でポツリと呟く。それが聞こえたのか、

「抱えこまな――え?」

 アイシャ先生は言葉を止めて聞き返してきた。
 藤は変わらず小さな声で、それでもはっきりと言葉を繰り返した。

「そんなこと、どうでもいいんだ」

 アイシャ先生は眉をひそめた。

「どうでもいいって……
 藤くん、そんな頑なにならないで。先生達が絶対になんとかするから」

 アイシャ先生は真剣な顔でそう強く言ってくれる。スヴェルトに説教されたときの顔に似ていた。
 それらが優しさだということはわかる。その優しさを、本当に心の底からうっとおしいと思うところまで自分はいっていない。
 でも藤は頭を振った。

「……違うんだ」

 ……先生はわかっていない。

「違う?」

 アイシャ先生は聞き返してくる。

「……本当にどうでもよかったんだ」

 いじめられているということ自体は。

「でもぶたれたり、追いかけられたり、教科書を捨てられたりするんでしょう?」

 アイシャ先生は困惑した様子で質問をしてくる。藤は肯いた。

「それがどうでもいいことなの?」

 藤は肯いた。アイシャ先生は聞いてきた。

「じゃあ、何が辛いの?」

 独りであること――

「……」

 言葉にはしない。
 言葉にしても意味のないこと。
 先生にはわからないから。
 自分でどうにかすることしかできないから。
 でも、自分じゃどうすることもできない。
 もう、どうすることもできない。
 心を殺して耐え続けるだけ……
 その決意が顔に出てしまっていたのかアイシャ先生は諦めたようなため息をまた一つついた。そして――

 がらがら――

 扉がひらく音がした。
 同時に女の子の声が聞こえてきた。

「アイシャせんせーっ! いますかー?」

 元気な女の子の声。藤の知った声じゃなかった。

「……ちょっと待っていてね」

 アイシャ先生はそう言い残してカーテンの中から出ていった。

「どうしたの?」
「体育館で遊んでたら転んじゃって。てへ」
「ドジねぇ……あいかわらず」
「うわっ。そんなこと言われたらグラスハートの私の心は粉々だわ!」
「はいはい――はい! これでいいわ。今日はもう戻ってお休みなさい。シャワーを浴びる時も傷口はなるべく濡らさないようにね?」
「はーい」

 がらがらとその女子生徒は出て行ったらしかった。
 アイシャ先生が戻ってきた。苦笑を浮かべて頭を下げるように首を傾げた。

「ごめんね、藤くん」

 藤は頭を振った。

「いいんです。先生だって忙しいんですから――」
「ダメ!」

 アイシャ先生が大きな声をあげる。
 藤は口を止めてアイシャ先生を見た。アイシャ先生は幼児を叱るように怒ったような顔を近づけてきて言い聞かせるようにして言ってきた。

「そんなこと気にしちゃダメよ。もっとわたしのことを頼って。一人が嫌なら保健室に来なさい。気休めにしかならないかも知れないけど、藤くんをこのまま一人でいさせられないわ。だからせんせーを助けると思ってもっとわたしを頼って。ね?」
「でも……」
「でもじゃ――」

 がらがら……

「また……」

 アイシャ先生はため息をついてから一言残してカーテンの外に出ていった。

「あ、せんせー」

 また女の子の声。少し苦しそうな声だった。

「どうしたの?」
「あの……その……お腹が痛くて……」
「ああ……そこに座ってちょっと待っていて」
「はい……」

 藤は長くなりそうな気がしてふとんの中に入り、天井を見上げた。
 絵でも描いてあれば気が紛れるのに天井は真っ白だ。意識が思考の中に呑み込まれてしまう。
 アイシャ先生に対してだけは素になっている。ナタリーやスヴェルト相手にはこうはいかない。やはり教師と保健医の違いなのだろうか。
 同じ大人なのに……
 でもアイシャ先生だって先生なんだ。仕事があるし、一緒に遊ぶってわけにもいかない。
 いや、まぁそんな気にはならないけど……

「ありがとうございました」
「どうしようもなく痛くなったらお休みなさいよ?」
「……はい。……失礼します」
「……あら? どうしたの?」
「――」

 アイシャ先生が話をしている。極端に声が小さくなって話は聞こえなかった。
 そのうち、がらがらがらと扉の閉まる音が聞こえた。
 女子生徒が出ていったらしい。
 またすぐにカーテンが揺れた。藤はアイシャ先生にもう気にしないでいいと言おうと思って顔を向けた。
 でもそこにいたのはアイシャ先生じゃなかった。
 呆然と藤はその名を呟いていた。

「……り……ん……?」


 ■■■
 六ノ月 ひかり⑦


「……り……ん……?」

 藤はもう一度呟いていた。
 凛がいた。
 カーテンから顔半分だして、窺うように、凛がこちらを見ていた。

「――!」

 目が合って、藤は思い出したように慌ててふとんの中に潜りこんだ。
 ……なんで? 
 ふとんの中で考える。答えは出ない。藤の頭の中にその答えがあるわけがなかった。
 そうこう混乱していると凛が名前を呼んだ。

「……藤……くん」

 藤はどう応えていいのかわからず結局無視してしまった。

「……ごめんなさい」

 次に聞こえてきた言葉がこれだった。
 ゴメンナサイ?
 ……どういうこと?

「ごめんなさい」

 凛がもう一度いった。
 よくわからない。
 でも、凛が謝っている。
 藤は恐る恐るふとんから顔を出した。上半身を持ち上げて、泣きそうな凛の顔を見た。

「……どうして? 凛は僕のこと、嫌いになったんじゃなかったの?」

 凛は勢いよく首を振った。

「違う! 嫌いになんてなってない!」
「でも……」

 ……凛は確かに僕を拒絶した。あの時のことは忘れない。
 ……忘れられない。
 あの悲しみ。
 あの痛み。
 あの絶望感。

「あ」

 涙が零れた。
 思い出すだけで涙が溢れた。
 慌てて顔を背ける。情けない。けど、止めようと思っても涙は逆にますます溢れてくるばかりだった。

 どうしてかわからない。
 なぜこんなに涙が出てくるのかわからない。

 今は哀しいわけじゃなく――
 今も痛いわけじゃなかった――

 それなのに涙が流れた。
 頬を伝い自分でも驚くほどの涙がふとんに零れ落ちていく。涙がすごく熱いと感じた。この胸に渦巻く感情がわからない。
 凛が困惑していた藤の頭をぎゅっと抱えた。

「ごめんなさい。……ごめんなさい」

 と頭の上で繰り返す。ぽつぽつと頭の上に凛の涙を感じた。
 心臓の音が聞こえる。自分の物ではない心臓の音が。独りでは絶対に感じられない他人の鼓動が。
 拒絶し続けた肌の温もりが藤の中の何かを融かしていく。
 もう我慢ができなかった。

「うくっ……」

 凛の胸で、

「ひぐっ……」

 恥ずかしさも、悲しさも、

「あぐ……」

 何もかも考えずに、

「うわあああああっっ」

 ただ心が望むままに声をあげて泣いた。
 凛の胸で赤ん坊のように声をあげて泣いた。


 ■■■
 六ノ月 ひかり⑧


 二人が一頻り泣いた頃、計ったようにアイシャ先生は戻ってきた。
 今日はもうすぐに寮に帰ってお休みなさい、とアイシャ先生に言われたのだけど、藤は屋上に上がっていた。
 屋上から太陽の沈みゆく景色を眺めていると後ろから声をかけられた。

「おい」

 振り返ると、知らない男子が……いや、一応知った顔がいた。
 顔だけしか知らない。あとはAクラスだということだけだろうか。
 その男子生徒は昼休みに購買部まで競争をしていた男子の一人だった。あの十三日の競争で、藤が中庭の窓を開けてやったあの男子だ。いったい何の用だろうか?

「えーと……」

 何の用か聞こうとしたらその男子生徒は名乗ってきた。

「Aクラスのスザクだ。そっちは確か、ヒロサワ……だったか?」

 藤は肯いた。

「あ、う、うん。……なに?」
「いや……最近パン競争で見なかったからな、ちょっと声をかけただけさ」

 スザクは一度くちを止めるとすぐにまた聞いてきた。

「パンはやめたのか?」
「そういうわけじゃないけど……たぶん明日は買いにいくと思う」

 藤がそう答えるとスザクは笑って言った。

「そうか。よかった」
「え?」

 藤は驚いた。何がいいのだろうか?さっぱりわからない。スザクは皮肉っぽい笑みを浮かべると、

「負けっぱなしじゃ気分がよくないんだよ」

 藤は言葉がなかった。

「じゃ、それだけだ。次会ったときは敗北のパンを食わせてやる」

 スザクは捨て台詞を言い残して校舎に入っていった。
 入れ替わりで凛が屋上に出てきた。

「藤くん!」

 そう呼ぶ凛の声は怒っていた。凛の顔は怒っていた。かばんを取ってくるから待っててと言われたのにこんなところにいれば当たり前か……

「もう! いきなりいなくならないでよ」
「うん。ごめんね」

 藤は素直に謝った。
 凛は毒気を抜かれたように顔から怒りを消すと不思議そうに訊ねてきた。

「……なにか……いいことでもあったの? 顔が笑ってるよ?」
「あー、……どうだろうね」

 藤はごまかすように、曖昧にそう答えた。話しかけられた、たったそれだけのことが嬉しかったなんて正直に言うのも恥ずかしかった。
 凛はずっと笑っている藤を見て不思議そうに首を傾げていた。

 太陽が沈み、東の空に月が昇る。
 そしてまた、彼女の一日が始まるだろう。
 願うなら、彼女が周りに煌く、数え切れないほどの星達に気づくよう……


 ■


 七月四日。月曜日。晴れ。
 朝のHRが終わってからすぐに、がたっと大きな音がしたのを聞いて、みな一様に目を向けてあ然とした。すでにバックが扉の向こうに消えようとしている。

 ばたんっっ――

 その乱暴に、挑発的に閉められた扉の音が始まりのゴングだった。
 すぐに反応できず、あ然としていた男子は一秒後、一様に笑みを浮かべた。その笑みが妙に嬉しそうだったのを女子達は記憶している。
 そして数日ぶりに教室は、がたがたっと大きな音を立てたのだった。


 ■■■

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