真昼の月
六ノ月 ひかり⑤
●凛視点
今日もまた藤くんの顔を見ることはなかった……
最近すれ違うこともない……
もしかしたら避けられているのかもしれなかった……
凛は休み時間の校舎を一人で歩いていた。
授業に身が入らなくて何度も叱られた。
授業の後も先生に呼び止められて怒られ、今から教室に戻るところだった。友達には大丈夫だからと先に帰ってもらっていた。
だから今は独りでいる。
独り……
そう意識すると寂しくなる。
一度考えてしまうとそれを意識から追い出すのはもう不可能だった。
藤くんはこんな時間をずっと過ごしてきたんだ……
わたしは……なんて事をしてしまったんだろう……
気持ちが沈んでいく。まるで底なし沼にはまってしまったかのようだ。考えまいとしようとするほど、もがけばもがくほど底に沈んでいく。
「……塚本」
凛がとぼとぼと歩いていると声をかけられた。覚えのある声だったけどここにいるのはおかしい人の声だった。
凛は振り返った。声をかけてきたのは凛の覚えどおりの人物だった。
「え……スヴェルト先生……なんでこんなところに?」
ここは中等部校舎だ。スヴェルトのまったく用のない場所のはずだった。実際に用はないだろう……教師としては。
でもスヴェルト先生はそこにいた。
スヴェルト先生は真剣な表情で凛を見返すと口をひらいた。
「広沢を連れてきたんだ」
「……連れてきた?」
凛は訝しげに聞き返した。連れてきたといっても藤くんはどこにもいない。凛はスヴェルト先生を見た。
スヴェルト先生は頭を振った。
「ここにじゃない。……保健室だ」
凛は目を見ひらいた。
思い出す。
暗い部屋。
泣き崩れるお母さんと呆然と立つお父さん。
部屋の中央のベッド。
白い布を顔に載せた二度と動くことのない姉。
気づくと凛はスヴェルトに詰め寄っていた。
「保健室!? 藤くんどうかしたんですか!? まさか! まさか……」
最悪の事態を予想して凛は顔を青ざめさせた。でもすぐにスヴェルト先生は否定してくれた。
「自殺しようとしたわけじゃない。ただ最近ほとんど飯を食っていなかったらしい。それで倒れたんだ」
「ご飯を……?」
虚ろな声で聞き返す。脳が動きを止め、無意識が言葉を口にしていた。スヴェルトはそんな凛を注意して見ながら肯いて見せた。
「ああ……最近ほとんど飯を食べていなかったらしいって話だ。確かに最近昼飯を食べている様子はなかったが、まさか朝も晩もほとんど食ってなかったとは思わなかった」
「それで……それで藤くんは大丈夫なんですか?様子は?」
「意識は戻ってないが、アイシャの、保険医の話じゃまだどうこうってレベルじゃないそうだ。寝不足と空腹と午前のハードな授業が重なって、意識のブレーカーが落ちたんだろうって言ってたな」
凛は顔を伏せた。
「……わたしのせいだ」
「違う」
凛は顔を上げてスヴェルトを睨むと声を荒げた。
「わたしのせいです! わたしが藤くんのこと信じてあげられなかったから。確かめもせずに突き放したから……」
そう言ってまた顔を伏せた。
「しかたのないことだったんだ。理由を聞けば広沢だってそう思う」
「思わない!」
凛は叫んでいた。周りを歩いていた生徒達がこちらを見てくるがスヴェルトが教師なのを知っているのか立ち止まって眺めていくということはなかった。
凛は肩を落として周りを気にしたわけじゃないけど小さな声で続けた。
「……思えるわけない。理由なんて、孤独でいなくちゃならなくなった本人には何の関係もないんだから。手を差し伸べられたか、突き放されたかだけ。
そしてわたしは突き放した……」
諦念の呟き。スヴェルトは呆れたように鼻から息をはいた。
「お前まで諦めるのか?」
「……」
「なんなら俺から言うか? お前が広沢を突き放した理由から今の感情まで」
凛は勢いよく顔を上げた。スヴェルト先生は横を向いていた。
「ただ、あいつが信じないかもしれない。それどころか今のあいつじゃ聞きゃしないかもな……」
「……だめ」
凛はつぶやいた。
それをしたら自分はもう終わりだ。とても藤くんの前に顔を出すことなんてできない。
スヴェルト先生は肯いた。
「俺もなるべくならそれはしたくない。俺の言葉であいつが信じればそれでいいが、信じなかったらもう何も信じなくなる。塚本が勇気を出しても疑うようになるかも知れない。先生に言われてきたんじゃないか、てな。そうなったらあいつはずっと人を疑って生きるようになっちまう。そうなったら、たぶん、終わりだ」
凛は顔を伏せた。
……どうすればいいのかわからない。
わかっているのにできない。
何とかできるはずなのにどうすればいいかわからなかった……
凛の心はメビウスのような輪をぐるぐると回り続ける。端っこを求めながら端っこのない永遠の輪を巡り続けている。
ゴールは……ない?
凛が悶々と考え込んでいるとスヴェルト先生が動く気配がした。顔を上げるとスヴェルトは深々と頭を下げていた。
「先生!?」
凛は驚いて声を上げた。スヴェルト先生は頭を下げたまま言った。
「頼む塚本、あいつを助けてやってくれ。あいつを助けられるのはこの島で塚本しかいないんだ。
……頼む」
凛はスヴェルトの頭を見つめた。ひとつの疑問が生まれる。
……どうして先生はここまでするんだろう? 偶然何回か湖で会って少し話をしただけの藤くんを助けるためだけに。
「……どうして?」
「ん?」
スヴェルト先生は質問の意味がわからなかったらしく頭を少し上げると聞き返してきた。凛も聞こうと思って口にした質問じゃない。思っていたらつい口から出ていた。
でも改めてした質問は自分の意思で口にしていた。
「どうして先生はそんなに藤くんを助けようとするんですか?」
スヴェルト先生は質問で返してきた。
「理由のいることか?」
凛には答えられない。確かに理由のいらないことだったから。
でも、ここまで一生懸命になるには何か理由があるんだと思った。
まるで自分か大切な人を救おうとするようなそんな――
「好きな子がいた」
いきなりスヴェルト先生が言った。
凛は理解するのに数秒を必要とし、それを待っていたわけじゃないと思うけどスヴェルト先生は数秒の時間をあけてから続きを語った。
「男ってのは好きな子をからかって嬉しがるようなバカでな……俺も同じだった。それほどひどいことをしていたつもりはなかったんだけどな、その子は人見知りが激しい上にひどく臆病で友達がいなかったらしい。俺の長い間のからかいは孤独だった彼女に致命的なダメージを与えていた。
そしてある日彼女は裏の断崖から飛び降りた。……遺体は上がらなかった」
壮絶な話に凛は息を呑んだ。淡々と話すスヴェルト先生は少し怖かった。
「俺は生きる目的も気力もなくなった。人と接するのが怖くなっていつも独りでいるようになっていた。
独りが好きだったわけじゃない。独りでいたっておもしろいことなんて一つもないからな。
でも俺は独りでいた。みんながみんな、俺を非難しているように思えたからだ。
そしてそんな俺の前に精霊が現れた。
その精霊はどこか彼女に似ていてな、俺はその精霊とたくさん話をした。その日だけじゃなく次の日も次の日も精霊と話をした。俺は学校じゃいつも独りだったが精霊と話すことで孤独は癒された。だから今こうしてここにいられる。精霊がいなかったらきっと今の俺には何もなかった」
「……」
「あいつには今、何もない。でも生きている。あいつからは自殺しようとする様子は見られない。きっと何か支えるものがあるんだろう」
凛は思い出した。
藤くんの魔法使いになる理由……
「だがそれなら大丈夫だってわけじゃない。支えがあるからって心が強くなるわけじゃないからな。
特に見えない支えは逆にプレッシャーにもなる。その支えと孤独の辛さの板ばさみにあって精神が傷ついている。飯をくわないのも眠らないのも倒れたのも、きっとそこら辺に理由があるんだろう。
自殺しなくてもいずれあいつは死ぬ。死ななくてもろくな大人にはなれない。
俺はあいつを助けたい。孤独の辛さを知っているから、それで苦しんでいる奴を放っておけない。たとえそれが本人には迷惑な自己満足だとしても」
「……」
「今の俺は広沢を助けたい。それが一番の理由だろうな」
スヴェルトはにやりと笑った。
凛はただスヴェルトの話を繰り返しながら、心に火がついたのを感じていた。
「先生、失礼します」
凛は踵を返すとその心の火が消えてしまわないうちに何とかしようと思った。
■■■
今日もまた藤くんの顔を見ることはなかった……
最近すれ違うこともない……
もしかしたら避けられているのかもしれなかった……
凛は休み時間の校舎を一人で歩いていた。
授業に身が入らなくて何度も叱られた。
授業の後も先生に呼び止められて怒られ、今から教室に戻るところだった。友達には大丈夫だからと先に帰ってもらっていた。
だから今は独りでいる。
独り……
そう意識すると寂しくなる。
一度考えてしまうとそれを意識から追い出すのはもう不可能だった。
藤くんはこんな時間をずっと過ごしてきたんだ……
わたしは……なんて事をしてしまったんだろう……
気持ちが沈んでいく。まるで底なし沼にはまってしまったかのようだ。考えまいとしようとするほど、もがけばもがくほど底に沈んでいく。
「……塚本」
凛がとぼとぼと歩いていると声をかけられた。覚えのある声だったけどここにいるのはおかしい人の声だった。
凛は振り返った。声をかけてきたのは凛の覚えどおりの人物だった。
「え……スヴェルト先生……なんでこんなところに?」
ここは中等部校舎だ。スヴェルトのまったく用のない場所のはずだった。実際に用はないだろう……教師としては。
でもスヴェルト先生はそこにいた。
スヴェルト先生は真剣な表情で凛を見返すと口をひらいた。
「広沢を連れてきたんだ」
「……連れてきた?」
凛は訝しげに聞き返した。連れてきたといっても藤くんはどこにもいない。凛はスヴェルト先生を見た。
スヴェルト先生は頭を振った。
「ここにじゃない。……保健室だ」
凛は目を見ひらいた。
思い出す。
暗い部屋。
泣き崩れるお母さんと呆然と立つお父さん。
部屋の中央のベッド。
白い布を顔に載せた二度と動くことのない姉。
気づくと凛はスヴェルトに詰め寄っていた。
「保健室!? 藤くんどうかしたんですか!? まさか! まさか……」
最悪の事態を予想して凛は顔を青ざめさせた。でもすぐにスヴェルト先生は否定してくれた。
「自殺しようとしたわけじゃない。ただ最近ほとんど飯を食っていなかったらしい。それで倒れたんだ」
「ご飯を……?」
虚ろな声で聞き返す。脳が動きを止め、無意識が言葉を口にしていた。スヴェルトはそんな凛を注意して見ながら肯いて見せた。
「ああ……最近ほとんど飯を食べていなかったらしいって話だ。確かに最近昼飯を食べている様子はなかったが、まさか朝も晩もほとんど食ってなかったとは思わなかった」
「それで……それで藤くんは大丈夫なんですか?様子は?」
「意識は戻ってないが、アイシャの、保険医の話じゃまだどうこうってレベルじゃないそうだ。寝不足と空腹と午前のハードな授業が重なって、意識のブレーカーが落ちたんだろうって言ってたな」
凛は顔を伏せた。
「……わたしのせいだ」
「違う」
凛は顔を上げてスヴェルトを睨むと声を荒げた。
「わたしのせいです! わたしが藤くんのこと信じてあげられなかったから。確かめもせずに突き放したから……」
そう言ってまた顔を伏せた。
「しかたのないことだったんだ。理由を聞けば広沢だってそう思う」
「思わない!」
凛は叫んでいた。周りを歩いていた生徒達がこちらを見てくるがスヴェルトが教師なのを知っているのか立ち止まって眺めていくということはなかった。
凛は肩を落として周りを気にしたわけじゃないけど小さな声で続けた。
「……思えるわけない。理由なんて、孤独でいなくちゃならなくなった本人には何の関係もないんだから。手を差し伸べられたか、突き放されたかだけ。
そしてわたしは突き放した……」
諦念の呟き。スヴェルトは呆れたように鼻から息をはいた。
「お前まで諦めるのか?」
「……」
「なんなら俺から言うか? お前が広沢を突き放した理由から今の感情まで」
凛は勢いよく顔を上げた。スヴェルト先生は横を向いていた。
「ただ、あいつが信じないかもしれない。それどころか今のあいつじゃ聞きゃしないかもな……」
「……だめ」
凛はつぶやいた。
それをしたら自分はもう終わりだ。とても藤くんの前に顔を出すことなんてできない。
スヴェルト先生は肯いた。
「俺もなるべくならそれはしたくない。俺の言葉であいつが信じればそれでいいが、信じなかったらもう何も信じなくなる。塚本が勇気を出しても疑うようになるかも知れない。先生に言われてきたんじゃないか、てな。そうなったらあいつはずっと人を疑って生きるようになっちまう。そうなったら、たぶん、終わりだ」
凛は顔を伏せた。
……どうすればいいのかわからない。
わかっているのにできない。
何とかできるはずなのにどうすればいいかわからなかった……
凛の心はメビウスのような輪をぐるぐると回り続ける。端っこを求めながら端っこのない永遠の輪を巡り続けている。
ゴールは……ない?
凛が悶々と考え込んでいるとスヴェルト先生が動く気配がした。顔を上げるとスヴェルトは深々と頭を下げていた。
「先生!?」
凛は驚いて声を上げた。スヴェルト先生は頭を下げたまま言った。
「頼む塚本、あいつを助けてやってくれ。あいつを助けられるのはこの島で塚本しかいないんだ。
……頼む」
凛はスヴェルトの頭を見つめた。ひとつの疑問が生まれる。
……どうして先生はここまでするんだろう? 偶然何回か湖で会って少し話をしただけの藤くんを助けるためだけに。
「……どうして?」
「ん?」
スヴェルト先生は質問の意味がわからなかったらしく頭を少し上げると聞き返してきた。凛も聞こうと思って口にした質問じゃない。思っていたらつい口から出ていた。
でも改めてした質問は自分の意思で口にしていた。
「どうして先生はそんなに藤くんを助けようとするんですか?」
スヴェルト先生は質問で返してきた。
「理由のいることか?」
凛には答えられない。確かに理由のいらないことだったから。
でも、ここまで一生懸命になるには何か理由があるんだと思った。
まるで自分か大切な人を救おうとするようなそんな――
「好きな子がいた」
いきなりスヴェルト先生が言った。
凛は理解するのに数秒を必要とし、それを待っていたわけじゃないと思うけどスヴェルト先生は数秒の時間をあけてから続きを語った。
「男ってのは好きな子をからかって嬉しがるようなバカでな……俺も同じだった。それほどひどいことをしていたつもりはなかったんだけどな、その子は人見知りが激しい上にひどく臆病で友達がいなかったらしい。俺の長い間のからかいは孤独だった彼女に致命的なダメージを与えていた。
そしてある日彼女は裏の断崖から飛び降りた。……遺体は上がらなかった」
壮絶な話に凛は息を呑んだ。淡々と話すスヴェルト先生は少し怖かった。
「俺は生きる目的も気力もなくなった。人と接するのが怖くなっていつも独りでいるようになっていた。
独りが好きだったわけじゃない。独りでいたっておもしろいことなんて一つもないからな。
でも俺は独りでいた。みんながみんな、俺を非難しているように思えたからだ。
そしてそんな俺の前に精霊が現れた。
その精霊はどこか彼女に似ていてな、俺はその精霊とたくさん話をした。その日だけじゃなく次の日も次の日も精霊と話をした。俺は学校じゃいつも独りだったが精霊と話すことで孤独は癒された。だから今こうしてここにいられる。精霊がいなかったらきっと今の俺には何もなかった」
「……」
「あいつには今、何もない。でも生きている。あいつからは自殺しようとする様子は見られない。きっと何か支えるものがあるんだろう」
凛は思い出した。
藤くんの魔法使いになる理由……
「だがそれなら大丈夫だってわけじゃない。支えがあるからって心が強くなるわけじゃないからな。
特に見えない支えは逆にプレッシャーにもなる。その支えと孤独の辛さの板ばさみにあって精神が傷ついている。飯をくわないのも眠らないのも倒れたのも、きっとそこら辺に理由があるんだろう。
自殺しなくてもいずれあいつは死ぬ。死ななくてもろくな大人にはなれない。
俺はあいつを助けたい。孤独の辛さを知っているから、それで苦しんでいる奴を放っておけない。たとえそれが本人には迷惑な自己満足だとしても」
「……」
「今の俺は広沢を助けたい。それが一番の理由だろうな」
スヴェルトはにやりと笑った。
凛はただスヴェルトの話を繰り返しながら、心に火がついたのを感じていた。
「先生、失礼します」
凛は踵を返すとその心の火が消えてしまわないうちに何とかしようと思った。
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