真昼の月

彩火透火

四ノ月 夜明けの月③

 体育の次の時間。藤は授業を休んだ。
 慣れてきていたとはいえ、いつも以上に好き放題やられたから藤は身体が痛くて授業どころではなかった。

 四時間目はどうせ歴史の授業だ。たいした役に立つとは思えない。
 教えるのならまずその目的を教えて欲しいものだと思う。

 保健室に入るとアイシャ先生は藤を見て、またか、という風な呆れた感じの笑みを浮かべた。
 さっきも言ったとおり、藤は保健室の常連だ。しかも毎回ちゃんと怪我をしてくるという律儀な常連だった。

「またなの?」
「うん」

 藤が頷くとアイシャ先生はにこっと笑って藤を招き寄せた。
 藤がアイシャ先生の前に座った時、アイシャ先生は思い出したようにそれを口にした。

「……そういえばブラドー君を殴ったんだって?」

 藤は驚いた声で聞き返していた。

「なんでそれを?」

 藤がカフェル・ブラドーをぶっ飛ばしたのはさっきの今である。
 それに藤は授業が終わって速攻で保健室に来たのでクラスの奴らはまだ一人も保健室には現れてはいないはず。
 それなのにもう保健室にまで話が届いているのは不思議な話だ。
 だけどアイシャ先生は藤の驚きを一笑に伏した。

「だって本人が来たもの」

 なるほど。……でも、それこそ驚いてしまう。

「……鼻血くらいで?」

 藤は怪訝そうに聞き返してしまった。

「そうよ。そのときにいろいろと聞いたってわけ」
「ふぅん」藤はなんとなく顔を背けた。
「さてと……」

 アイシャ先生は言って、気を取り直すように座り直すと、藤の身体を上から下まで観察するように見ながら訊ねた。

「今日はどうしたの? 擦り傷? 打撲?」
「ううん、……お腹が痛くて」

 藤が答えると、アイシャ先生はあらっ、てな表情を浮かべた。
 藤の保健室に来る理由は擦り傷とか外傷ばかりで、頭痛や腹痛といったいかにも仮病ですというような内科的な理由は一度もなかった。
 アイシャ先生は真剣な顔になると藤の顔を見つめた。
 内科的な症状は顔に出るものなのだ。熱があれば赤くなるし、痛みがあれば青くなり白くなる。
 アイシャ先生は手を顎に当てて、しばし考え込むように黙る。藤にどっちの症状も見えなかった。
 普通ならその時点で、はいはいと適当にあしらって追い出すところであるが、藤はまじめな生徒であるとアイシャは認識していたのでいくつか質問をした。

「どんな風に痛いの?」
「ずきずきするんです」

 ……殴られて。

「いつから? 朝から?」
「……少し前からです」

 ……殴られて。

「ご飯はちゃんと食べた? 朝トイレに入った?」
「はい」

 アイシャ先生はまた口に手を当てて考え込む。常套句のような質問だが、これでは何もわからなかった。

「じゃあベッドに横になって」

 アイシャ先生に言われて藤は素直にベッドに横になる。
 アイシャ先生はベッドの上、藤の横に座り、藤の服に手をかけた。ちょっとドキドキしてしまうようなシチュエーションだ。
 が、子供な藤には関係なし。それでも子供なりに慌てて、
「なにするんですか!」と、身をよじった。
 腹が痛いことを忘れていた。急な動作のせいで、ずきっと痛みを覚えて藤は顔をしかめる。
 すぐにアイシャ先生がなんでもないことのように言った。

「服を脱がせようとしただけじゃない」
「それくらい自分でできます!」

 藤が思わず怒鳴ると、

「じゃあ脱いで」

 アイシャ先生はあっさりと言った。

「……」

 藤は動かない。

「は、や、くっ」

 アイシャ先生が急かす。
 藤はじっとアイシャ先生を見上げ、決断し、言った。

「やっぱりお腹痛くなくなりました」

 起き上がろうとするとアイシャ先生は藤のお腹を手で押えた。

「いっ!」

 藤は思わず悲鳴をあげ、びくっと背をそらした。死ぬかと思った。
 アイシャ先生は慌てて手をどかし、
「大丈夫!?」訊ねる。
 ……すごくわざとらしい。
 藤は涙目でアイシャ先生を見上げ、恨みがましそうに呟いた。

「……だいじょばない」
「ごめんねぇ」

 アイシャ先生は謝るが、いつのまにか藤の上に乗っかっていた。
 腕もきっちりと足で押えられている。
 藤の貞操危うし、てな体勢だった。

「せ、先生!」

 アイシャ先生の下で藤は何とか逃れようと暴れる。

「あわてないの……」

 アイシャ先生が妖艶に微笑んでわけのわからないことを言うのを聞いて藤はなぜか恐怖した顔で叫び返した。

「じゃあどいて下さい!」
「大丈夫。全部先生に任せて……」

 アイシャ先生はゆっくりと藤のシャツの第一ボタンに手をかける。

「いやぁぁぁっ」

 藤は異性に裸を見られるという未来に女の子のような悲鳴をあげた。
 そして、抵抗空しく藤の上半身はアイシャ先生の手によって剥かれていた。

「うわっ、なにこれ……?」

 それが藤の身体を見たアイシャ先生の第一声だった。痣だらけの身体に目を丸まるくしている。

「……男の勲章」

 藤のふざけた答えにアイシャ先生はむっとした表情を浮かべた。

「何バカなこといってるの! ……誰にやられたの?」
「……」藤は答えない。
「まさか……」
「違います」

 アイシャ先生は気づいたように呟くのを、藤はすかさず否定した。

「でもねぇ……」

 アイシャ先生は納得できないといった様子で呟くと無意識に藤の身体の紫に変色した部分へと指を這わせた。
「ひっ」冷たい指の感触に藤が短く悲鳴をあげる。
 知識になくとも本能が反応する。何かひどくまずい気がした。
 頭が呆っとしてきた。

「……いつから?」

 アイシャ先生が一つ一つの痣になぞるように触れながら訊ねた。

「へ?」

 藤は残った意識で聞き返す。

「いつからやられてるの?」

 アイシャ先生は聞いてから比較的色の薄くなった痣の淵をなぞり、呟く。

「これなんて痣になってから二週間はたってるわ」
「……」藤は答えない。

 アイシ先生ャは頑なな藤の顔をじっと見下ろし、……少ししてからため息をついた。

「……ふう。しかたがないわね……」

 アイシャ先生は藤の上から降りる。藤は慌ててシャツのボタンを留めようとして、手を止めた。

「……あれ?」

 いつのまにかボタンは全部留められ、シャツはきっちりと着させられていた。
 ズボンから飛び出して乱れた裾だけが脱がされた証だった。

 藤はアイシャ先生を見る。
 アイシャ先生は困ったように首を傾げ、顎に一本指をついて、考えている様子で藤を見下ろしていた。

 藤はびくびくしながらアイシャ先生の次の行動を待つ。その顔に張り付いているのは恐怖だ。今日ほどアイシャのことを恐ろしく思ったことはなかった。藤は思う。
 ――もしかしてこの学校には安息の地というものがないのだろうか……
 思考するアイシャ先生の顔をじっと見つめながら、藤はどうやって逃走を図ろうか、いつものように真剣に計画を練り始めた。


 ■■■
 四ノ月 夜明けの月④


 昼休みになって藤は解放された。
 ……解放ってのもおかしいね。拘束されていたわけではないのだから。
 アイシャ先生はそれほど不真面目ではなかった。藤が戦々恐々としている間、じっと考えていたのは治療のことだった。
 思考を終えたアイシャ先生はこう藤に訊ねた。

「そんなに痛いのだったら神殿に行く?」

 神殿とは美しいものを愛し、邪悪なるものを憎む女神スィンヒィメルの神殿である。
 治るのに何日もかかりそうなひどい怪我をすると神殿のシスターに治療を頼む。
 打撲だろうと、骨折だろうと、神の奇跡ならものの数分で治ってしまうのだ。
 ただ急激な治療のせいかそのあと必ず発熱を起こす。その程度は怪我のそれに比例していた。

 藤は一瞬考えただけで、そこまでは、と思って慌てて首を振った。
 治るのに数ヶ月かかるような骨折なら行くけど打撲程度ではそこまでする必要がない、と本当に思った。

「……そう」

 アイシャ先生は困ったようにというか諦めたように呟いてから、少し怒ったような顔をして続けた。

「じゃあとりあえず薬を飲んで少し休みなさい。いいわね?」
「……はい」

 藤は素直にちょっと苦い薬を飲んで、そのままベッドで少し休んだ。
 そうして昼休みのちょっと前まで休ませてもらった後、藤が保健室を出ようとしたとき、

「これ、夜痛くて眠れないようだったら飲んで。あと明日の朝絶対に顔を出しなさい。いいわね?」

 薬を渡されて約束をさせられた。
 保健室を出た藤は購買でパンを買う。フライングだな、と思ったけど、まあ仕方ない。
 藤は購買の前を離れ、とっとと屋上に向かった。

 屋上に出るといつものようにもそもそとパンを食べ始める。
 今日はたまごサンドとハムサンド、デザートにチョコとクリームの二色パンだ。
 あいかわらず寂しい食事だった。
 これで周りに人がいれば少しは気がまぎれるのに。
 せめて教室で食べられればいいのだけど、それができないからわざわざ屋上で独りで食べているのである。藤は思わずため息をついた。

 がちゃ――

 ドアのひらく音がして藤はさっと膝を立てる。
 じっとドアの面の方に目を向け、じっと待つ。
 ひょこっと顔を出したのは先日の上級クラスの女子だった。

「あ。またいるよ」
「えー誰がぁ?」
「あ、ほんとだ」
「なにその子?」

 ……増えてる。
 藤は別の意味で戦慄した。

 先日のことは思い出しただけでも顔が曇る。本気で逃げようかと思った。
 が、捕まった。どうしようもなかった。
 藤はまたまた昼のおかずにされ、追い掛け回されているときよりも疲れる時間を過ごした。

 いつの間に食べたのか全部のパンがなくなり、ドアが音を立てるたびに膝を立て、その度に女の人たちに笑われた。のん気なものだよ。
 少し、……いやかなり疲れた。全身が鉛でも背負っているかのように重い。今、追いかけられたらクラス一のふとっちょのベゼルにすら捕まるかもしれない。

 ――ばたんっ!

 乱暴にドアが開く音がした。
 続くように声が聞こえてくる。

「ほんとにここにいるのか?」
「昨日はいましたよ」

 ……なんとタイミングのよろしいことでしょうか。神様のバカやろー、といっておきたい。

「すいません。さようなら」

 藤は大きな音に驚いていた上級クラスの女子たちに言いながら立ち上がると、昨日のように校舎のベランダ側の方へ逃げた。
 男子どもがわらわらと現れる。

 先頭に立っていたのはマイク、
 ……ではなくてカフェルだった。いつもはこうして追いかけっこに混ざることはないのに…… 
 まぁ考えるまでもなく、さっきの時間の一撃を根に持っているとしか思えなかった。

 藤は呪文を唱えるとさっさと屋上の淵から飛び出した。
 藤の奇行に女の子たちが悲鳴をあげる。飛び降り自殺を目の前で見るというのはショッキングなことだろう。

「フロー」

 藤は昨日と同じように2階のベランダの手すりに手をかける。すぐにベランダに行こうとしたけど、視界を過った影に気を取られて思わず上を見た。
 人が浮かんでいた。

 ――違う。

 それはその人が屋上から飛び出して今まさに落っこちるところだった。

「うわぁぁぁぁぁぁっ!」

 ――悲鳴をあげてやがる。

 呪文を唱えていたとしても悲鳴をあげてしまえばすべては無になる。

 ――死ぬ気か?

 魔法を使わずに屋上から落っこちればたぶん死ぬ。魔法使いだって魔法を使わなければただの人だ。
 落ちてくる。そいつは悲鳴と一緒に落ちてきた。……顔が見えた。

 ――木村。

 落ちてきたのは顔面を恐慌で強張らせた木村だった。

 藤はとっさに左腕を伸ばしていた。
 木村の腕を掴んだ。木村の体重と落下速度が藤の腕を引っ張る。
 ぶちぶちと何かが切れるような音が左肩から聞こえた気がして激痛が走った。とてもじゃないけど片手で受け止められる重さではなかった。

 ずるっと滑って藤の手から木村が離れる。
 木村の顔がぎっと引き攣るのが見えた。
 その顔がゆっくりと遠ざかっていく。でも実際には何秒もなかっただろう。
 そのまま木村は体勢を崩してお尻から地面に落っこちた。思ったよりも大きな音が聞こえた。
 すぐに木村の泣き声が聞こえてくる。傷みから逃れようとするかのようにごろごろと転がっている。

 藤はベランダにぶら下がりながら木村が痛がる様子を見て、今の状況に初めて恐怖というものを覚えた。
 その後のことはよく覚えていない。肩が痛くて痛くてしょうがなかった。


 ■■■
 四ノ月 夜明けの月⑤


 六月二十日。月曜日。晴れ。
 シスター・レイナの治療の反作用で藤は日曜日を入れて三日休んだ。

 復帰した日の朝。藤はナタリー先生の部屋に呼ばれていた。
 そこで藤はあっ気に取られた顔をナタリー先生に向けることになった。

 驚いたことに藤が木村を屋上から突き落とした犯人になっていた。
 男子の証言と、さらに木村までもが藤がやったと言ったらしい。
 男子が口裏を合わせるのはともかく、木村までだって? なんだよそれ……
 あまりにも驚きすぎて声も出なかった。

「もういいわ。教室に戻りなさい」

 あ然としていた藤にナタリー先生は言った。

「……はい。失礼します」

 藤は呆然としたまま無意識に頭を下げてナタリーの個室を出た。
 その背中をナタリーが睨むような目つきで見ていたことに、背中に目があるわけでない藤が気づくはずもなかった。
 ドアがぱたりと閉まった。

 ほとんど意識しないまま教室のある3階に登り、教室に向かって歩いていく。
 そんな藤の意識がはっきりしたのは、前方から凛と凛の友達二人が喋りながら歩いてくるのが見えたからだった。

 藤は凛を見て心が安らいだ気がした。
 この最悪な気分の中、凛と会えたことはたった一つの幸運だと思った。

 ちらりと凛が目を向けてきた。
 なので凛も気づいたんだと思って、藤は何とか笑顔を作ろうとした。

 だけどいつまでたっても藤は笑顔を作ることができなかった。

 藤はぼんやりと歪んだ視界で見つめる。
 一瞥しただけで顔を逸らしてしまった凛のいる空間を。
 笑顔を浮かべることなく友達と楽しそうに話す凛のある空間を。
 自分に向けていてくれた笑顔を他の人に向ける凛のある空間を。
 藤は愕然としながらその事実に身体が冷えていくような錯覚を感じていた。

 まさか――と思った。
 まさか凛も――恐怖を覚えた。

 違う、僕じゃない、僕がやったんじゃないんだ!
 凛の両肩を掴んで、凛が納得してくれるまで、声をあげて説明したかった。納得させたかった。

 だけど藤は立ち止まったまま動かない。手足が凍りついてしまったみたいに動くことができなかった。
 凛は固まった藤の横を楽しそうにお喋りをしながら通り過ぎていく。
 その間に、凛が笑顔を向けてくることも、声を掛けてくることも、目を向けてくることすらもなかった。

 足音が小さくなっていく。
 楽しげな話し声が小さくなっていく。
 音はどんどん小さくなっていき、やがて聞こえなくなった。

 藤はそこでじっと立ち尽くしていた。
 彼女たちの話し声と足音が聞こえなくなるまで、聞こえなくなっても、髪の毛一本動かすことなく立ち尽くしていた。

 始業ベルが鳴り始める。それでも藤は動かなかった。
 やがて始業ベルの音が吸い込まれるように消えていく。

 藤は虚ろな笑みを浮かべた。
 ああそうか、と妙に醒めた頭が納得したように呟く。
 俯いた。
 廊下の赤い絨毯を見下ろしながら、もう凛があの笑顔を僕に見せてくれることはないんだ、と思った。
 この学校にいて、たった一つだけの楽しいことが、たった一つの救いが今、手の中から零れていってしまったことを知った。

 胸に激痛が走った。

 ――痛い。
 ――痛い。
 ……痛い。
 ……いたい……

 胸を押えて奥歯を噛み締めていると激痛はゆっくりと治まっていき、やがて消えない鈍痛となっていった。
 痛みで我に帰った藤は緩慢な動作で顔を上げ、堪えるように目を細めて、窓の外を見る。
 昼の空には月があった。

 真昼の月。
 誰の目にとまることなく独りでいる真昼の月。

 僕は今、一人になってしまったのだということを初めて実感した。
 これが藤の初めて知る「絶望」という気持ちだった。


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 四ノ月 夜明けの月⑥


 六月二十一日。火曜日。曇り。
 木村の骨折騒ぎから四日目、朝連絡の時間。
 左の一番後ろの席に木村の姿はなかった。

 教室に来たナタリー先生は木村が今日欠席することを告げ、あとはこれといって重要でない連絡を適当に伝えて、教室から出て行く。
 がらがらっ、とナタリー先生が出て行った扉が閉まった。
 ――それとほぼ同時に始まる、休み時間恒例のハンティング、ゲェェェム。
 教室のそこかしこで、がたがたっ、と椅子を蹴飛ばす音が鳴り響き、男子の大半が立ち上がる。
 一斉に首を回し、獲物の姿をその目に捉えようと、視線を巡らす。
 そして一匹の獲物を追いつめる、ハンター達のハンティングが今、

 ――始まることはなかった。

 いつもなら教師がいなくなると同時に教室を飛び出していく男子達が、今日ばかりは一人も出て行かない。
 しーん、と静まりかえる教室の時間が、男子たちが立ち上がった時で、止まっている。
 いつもと違う教室では、男子達は立ち上がった姿のまま、視線を一点に固定して、あ然と固まっている。
 男は子供ね、とかなんとか言って、いつも呆れていた女子達もまた、いつもと違う光景に、驚愕の視線を一つとして、じっと一つの方向に向けていた。
 六〇の視線がある一点で交わる。その交わった一点には、席に座ったままの広沢藤が、じっと机を見つめた姿で、殺してくれとばかりに、その場に留まっていた。

 それから授業が始まるまでの五分間、不気味に静まった教室で、いつもと違う日常が始まったのである。


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