真昼の月

彩火透火

三ノ月 真夜中の月⑥

 藤は学校を出ると、いつも凛と待ち合わせしている場所に向かった。

 藤はほとんど毎週、凛と出かけている。
 友達のいない藤は出かけるといえば一人か、凛としかなかった。一人ではあまり出かけないので、出かけるといえば凛と、なのだった。

 マギス島はほぼ円形の島で南西の端にウィザルドの小中高すべての校舎が立ち並び、それを囲むように三日月状に街が広がっている。
 南には結構大きな湖が、そして街の外壁に仕切られたさらに東には山や森が広がっていた。
 南の湖は自然な庭園になっていて危険はないが東の山や森には危険な獣が多数存在する。高等部に進学するとそこで実戦などもやらされることになるとのこと。

 藤と凛の最近のお気に入りは南の湖だった。最初街をうろうろし、ご飯なり、おやつなりをして夕方くらいになると湖に行く。
 その湖がオレンジ色に染まっていく瞬間を見るのが綺麗で好きだったのだ。

 今日は昼過ぎに街で待ち合わせして、テニスをやった。
 藤は昔から結構テニスをやっていた。瞳美の両親の趣味がテニスで、一緒によく連れてって教えてもらっていたからだった。
 中学でもテニス部で、ホープだった。小さい頃からやっていたから、中学から始めた奴らとはレベルが一段飛び抜けていた。だからうまい。

 でも、凛は初めてだった。正確にはまだ三回目だ。
 とりあえず基本の打ち方を教えただけで、ラケットの真中にボールがまともに当たらず、まだボールのやり取りがぜんぜん続かない状態だった。まあ、三回目ではしかたのない話だ。

 けれど、テニス自体はずいぶんと気に入ったようだった。
 まだ凛のそれはテニスと呼べるような状態ではないけど、気合だけは十二分で三日前からコートを二時間とってまで今日に備えていた。

 藤はテニス自体好きだし、女の子に教えるのも、そしてその教え子が少しずつ上手になっていくのが面白かったので文句はない。
 最大の理由は凛が笑ってくれることだ。これで多少ボールのやり取りが長くできるようになれば、凛もすぐ上達していくだろう。
 それからボレーを教えて、サーブを教えて、回転のかけ方を教えて、と教えることはたくさんあるが基本の打ち方ができればあとはすぐに覚えられるだろう。
 上手い下手は別としても。

 藤と凛は二時間打ち合って、最後あたりはぽーんぽーんと続くようになっていた。
 前回から比べると格段の進歩で、やっと続くようになったところで終わってしまったことに凛は不満顔だったが、それでも着替えて出てきた頃には興奮気味に、自分の進歩を素直に喜んでいた。

 道すがらテニスの話を続けて二人はフルーツパーラーに入った。
 藤はコーヒーを、凛はチョコパフェを頼んだ。
 別に見栄を張ったわけじゃない。コーヒーは前からよく飲んでいたのだ。
 ただチョコパフェには、店員さんの後ろ髪をくいくいっと引きたくなった。それを振り切ったのは照れと見栄である。

「いいの? 奢ってもらって」

 店員に差し出した学生証を藤が受け取るのを見て凛が訊ねる。
 藤は学生証をしまいながら頷く。

「うん。多分僕の方が出世が早いだろうし」
「うわっ」

 凛が大げさにおどける。
 藤は「冗談冗談」と言って笑った。
 凛も一頻り笑ってから、急にまじめな顔をすると、

「冗談じゃないかもよ?」

 言って、藤をきょとんとさせた。その顔を凛はくすっと笑う。

「だって最初のとき、藤くん、一番初めに文字を読んだでしょ?あれってやっぱり才能があるからじゃないのかな」
「あれは偶然だよ、きっと。体調がよかったとか、それくらいの理由だよ」
「そおかなぁ……」

 凛は納得できないといった風に首を傾げた。

 それからしばらくはここ一週間のうちに習った魔法の話をした。
 サーチが上手くできないとか、チアーかけても朝が眠いとか。
 チアーは気分を向上させる魔法であって眠気を取る魔法じゃないよ、と答えれば「え、そうなの?」と驚いたり。
 その間にコーヒーがきてミルクと砂糖を入れて飲む。
 五分ほどして凜のチョコパフェがきた。
 凛がおいしそうにパフェを食べている。藤はコーヒーをすすりながらそんな幸せそうな凛の顔を上目遣いに見つめていた。

 ばちっと凛と目が合ってしまった。凛はスプーンを咥えたまま固まったように止まる。
 すぐにスプーンを口から出すと首を傾けて訊いてきた。

「食べたいの?」
「え?」

 藤は思わず聞き返してしまう。だが凛はもう一度言い直さずにパフェをスプーンでかき回すと、
「はい」と、笑顔で、
 うんともすんとも言ってない藤に突き出してきた。

 間。小悪魔のような笑顔が藤を誘惑している。
 すぐに藤はぶんぶんと首を振った。

「い、いいよ」

 凛はまた首を傾げた。

「嫌いなの? パフェ」
「嫌いじゃないけど……」
「じゃあはい、あーん」

 凛はもうどう考えても藤にパフェを食べさせる気でいるようだった。
 間接××のことなど凛にはどうでもいいことなのかと藤は考える。どきどきしてきた。

「……」

 藤は数秒、じっとスプーンに乗ったアイスを見つめる。
 意を決すると、震える口をゆっくりとひらいた。
 スプーンの先がゆっくりと藤の中に、自分の視界から、消えていく。
 藤が口をとじて二秒。スプーンが入るときと同じようにゆっくりと引き抜かれた。

「おいしい?」

 凛が聞くのを、藤は口をひらけばパフェが飛び出てしまうのではないかと思って、ただ頷くことしかできなかった。
 凛は嬉しそうににこりと笑うとまたパフェを食べ始めた。藤は凛がパフェを食べる様をまるでビデオカメラのようにじっと見つづけていた。


 最後に夕方の湖に行った。
 いつものようにベンチに座って朱く染まる湖を見つめる。風が吹き、さわさわと木々が揺れ、さらさらと波が波紋を描く。
 静かな時間。凛がぽつりと言った。

「藤くん、寂しくない?」
「え?」

 いきなりだったので、横を向いて聞き返してしまう。
 凛はじっと湖を見つめたままだ。
 凛の横顔は夕陽が当たって朱く染まっている。
 じっと湖を見つめるその横顔は目が離せなくなるほど綺麗だ。ひどく大人びて見えた。

「寂しいの?」

 思わず、言葉が出ていた。
 核心を突くような問いに凛は少し驚いた顔をこちらに見せた。
 すぐに顔を正面に戻し、頷いたのか、俯いたのか、わからない動作で顔を伏せて答えた。

「たまーにね。寮で一人になったときとかに、うちのこととか、前の学校のこととか、考える」

 僕だって考える、藤は頭の中で言った。少し迷ってから言葉にした。

「僕も考えるよ」

 凛は嬉しそうな笑顔になった。あいかわらずよく笑う。
 朱い湖を見つめながら一頻り笑ったあと、凛は唐突に言った。

「隣の部屋に藤くんがいたらよかったのになぁ」

 それはひどくきわどい言葉だったが、藤はまったく言葉どおりに受け取って、
「そうだね」とあっさりと相づちを打つ。
 凛はさっと顔を向け、「え?」と、驚いた声をあげてしまった。
 凛が顔を向けると、それが理解不能な難問であるかのように藤はしきりに首を捻っていた。

「どうして別れてるんだろう? 男子寮と女子寮って」

 この科白には凛も呆気に取られてしまった。

 ……驚くことなかれ。男子には少数いるものなのである。女の子を友達としか見ていない子供が。
 特に外を走り回っているような落ち着きのない男子はそうだ。恋人とか彼女という言葉を知っていても、彼氏という言葉に憧れていても、具体的に恋人同士になった男女が何をするのかということをまったく考えたことがない奴が、いるものなのである。

 藤はまだ首を捻っている。凛はそれがなんかおかしくて笑ってしまった。
 いきなり笑い出したので藤は首を捻ったままきょとんとして凛を見つめている。

 そのままちょっとだけ時間が流れた。
 太陽は西の山に隠れ始め、湖の色は朱から暗い青へと変わっていく。
 笑うのをやめた凛は一頻り笑って気分がよくなったのか、はたまた心のうちを零した相手である気安さからか、知り合って間もない関係なら当たり前の質問をぶつけてきた。

「藤くんのおとーさんは何してるの?」

 そういえば家族の話はしたことがなかったっけ、と思いつつ藤は答えた。

「星」
「……は?」

 凛は言葉が通じなかったのか聞き返す。妥当な反応だ。藤は笑って、

「お星様だよ」

 凛は藤が頭の中で思い描いていた通り、きょとんとした。

「もう、冗談を……」

 凛は笑いながら言いかけて、藤の微笑に、その言葉の意味に気づいて、
「えっ?」と、顔を強張らせた。
 妥当な反応だ。

「そういうこと」

 藤は言っておどけるように肩をすくめて見せると、凛の顔を見て「……気にしないでいいよ」と付け足すように言った。

 凛は珍しく泣きそうな顔をしていた。
 こんな反応を返す友達は今までで二人目だ。
 勇吾や数馬なんかに話したときはただ気まずそうに口をつぐんだだけだ。これがほぼ基本の反応である。
 でも傍で聞いていた香奈は今の凛と同じような反応を示した。

 そのすぐあとは大変だった。香奈が涙を零し、藤は慌ててなだめすかし、ちょうどきた瞳美が香奈の涙を見て、何泣かしてんのよ!と暴れた。
 とっさにそれを思い出した。だから藤は少し慌てて言った。

「ほんとに気にしなくていいから!」

 顔を伏せたまま凛はこくりと頷く。ぐすぐすと鼻を鳴らしているのを聞いて藤はばつの悪い気分になった。
 また少し、静かな時間。もう太陽は頭しか見えない。そろそろ帰らないといけない時間だった。
 凛はまた唐突に言った。

「どうして魔法使いになろうと思ったの?」
「……。さっきの」
「さっきって?」
「うち、父さんがいないから。だから母さんはすごく働いてて、僕の目から見てもすごく疲れててさ、それで自分が助けになればって思った。魔法使いはお金持ちになれるって聞いてたから」

 凛の顔が曇る。
 藤はそんな凛を見て、慌てて聞き返した。

「り、凛は?」
「え?」

 顔を曇らせて俯きかけていた凛は聞き返されて驚いたように顔を上げた。
 藤は内心で安堵の息をつき、言い直した。

「凛は何で魔法使いになろうと思ったの?」

 聞くと凛は俯いた。

「あ。……えーと」

 なぜか恥ずかしそうにもじもじしている。
 藤は怪訝に思いつつも黙って凛の答えを待った。
 一分くらいしてからだろうか、凛はちらりと上目遣いで藤を見ると、

「……魔女に憧れてたの」

 蚊の鳴くような声で言った。
 すぐに身を縮めて真っ赤になっている。
 藤の大仰な理由と比較して恥ずかしいのだろう。どうでもいいことなのに。

「あ、笑ったでしょ!」

 凛は恥ずかしさをごまかすように難癖つけてきた。

「笑ってないよ!」

 藤は慌てて言い返す。

「嘘よ!」
「嘘じゃないよ!」
「絶対笑ってた!」
「絶対笑ってない!」

 二人はしばらく言い合っていた。
 終わる頃には太陽も完全に沈み、辺りは真っ暗で、凛の顔にも笑顔が戻っていた。
 この凛の笑顔を見て藤は思う。凛のこの笑顔が、自分にとってどれほどの支えになっているのだろうか。
 凛が笑顔を向けてくれるから藤はいじめに対してあまり落ち込まないでいられた。
 自分がけっして一人ではないことを凛の笑顔が強く強く教えてくれていた。
 凛の笑顔がなかったら、今の自分はきっとこの学校に通い続けようとは思わなかったに違いなかった。
 今の藤にとって凛の笑顔はこの学校で唯一、楽しいことだった。
 笑顔を見せてくれることが、すごく嬉しいことだった。
 凛が笑顔を向けてくれている限り、自分はこの学校でやっていけると思った。


 このときの僕は、この凛の笑顔が見られなくなることがあるなんて、まったく考えてもいなかった。


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 赤い空の反対側、青白んだ空に顔を見せる月。
 彼女は今日も一人ぼっちだった。


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