真昼の月
三ノ月 真夜中の月①
六月十五日。水曜日。晴れ。
藤は授業が終わるなり、教室から飛び出していた。
昼休みだ。が、藤は相変わらず廊下を、ものすごい勢いでつっ走っている。
けれどこの走りは、他の時間のそれとは少しだけ意味あいが違う。
生き残るため、という意味では同じだが、今と他の時間では決定的な違いがあった。
他の時間の藤は男子のいじめから逃げるために走っていた。
だけど今ばかりは、藤も追いかけるために走っていた。
目的地は1階、購買部だ。他人より一歩でも早く、戦場に向かわんと藤は走っているのである。
このときばかりは藤もまた、優秀なハンターの一人だった。
日ごろ鍛えているせいか、藤のスタートダッシュは逸品で、同じクラスの奴らはまだ廊下に姿もあらわさない。
この学校の通常授業のシステムでは時間が越えることも、さっさと終わることもないので時間的なハンデはまったくない。
が、しかし、純粋な距離の差はどうしても出てしまう。
それはたった数メートル階段に近いだけだったけど、それでもやはり距離の差は大きかった。
藤の前には階段に近い教室の奴らの中でも、藤と張るトップクラスのスタートタイミングを持つ数人のハンター達が全力でつっ走っている。
いつもと同じ面子だ。と、そいつらの後頭部を見て藤はそう判断した。
そしてそいつらも、お前らのことはしっかり気づいているぜ、とばかりにちらりと後ろを振り返る。
自分と同じ、天性のハンターが他にもいることを彼らは知っているのだ。
そしてその中でも藤は、ここ数日で頭角をあらわしてきたハンターとして、彼らからも一目置かれるほど危険視されていた。
藤は走りながら、窓の下の中庭を見下ろす。
そして階段に到着。お前は必要ないぜ、と心の中で歌い、手すりを乗り越えショートカット。
それだけでもう藤は前のクラスの奴を追い越している。
「くそ、きたねーぞ!」
藤の背中にそいつが負け惜しみを吠える。
藤はそいつを少し振り返り、ふふ、と笑みを浮かべた。
サヴァイヴァルなハンティングで綺麗も汚いもあるか。
藤は一歩でそいつを置き去りにすると2階から1階へ降りる階段へ。手すりを乗り越えショートカット。あら不思議、もう1階だ。
今ので数人の奴らを一気に追い抜かし、あと前にいる奴はたった一人だった。
そいつは焦ったようすで後ろを振り返る。すぐ後ろにいた藤を見て、少し強張った表情を見せた。
すぐにその顔を正面に戻すと、南通路方面に走り出し、中庭に出ていく。
購買部は西通路の真中くらいにある。なので東通路と南通路を結ぶこの階段から中庭を突っ切れば数メートルは近いのだ。
そこに落とし穴があるとも知らず……。藤は心の中で哀れな彼に手を合わし、中庭には下りずに南通路を突っ走った。
そして西通路に曲がり、五十メートル先に購買部が見えてきた。
どんどんどん、と中庭に出た奴が窓を叩いている。そこの窓が閉まっていたことは3階から中庭を見下ろしたときに、すでに確認済みだ。
藤はそいつを横目に購買部のパンおばさんに学生証を突き出しながら注文を告げた。
「おばちゃん、ヤキソバパンとウインナーロール!あとチョコバナナ!」
「はいはい」
パンおばちゃんがのんびりとした口調で応える。しかし手の動きは口調とは比べ物にならない速さで、ささっとパンを袋に詰めていく。
そして藤の学生証をスリのごとき速度で取りあげ、レジの機械に通すとすぐに、パンの袋と一緒に突き出した。勝利の証だった。
藤はパンの袋を片手に購買部から離れると、窓ガラスの鍵をあけてやった。
「くっ……すまん」
そいつは悔しそうに言ってから購買部へ突っ込んでいく。
様々なパンの名が連呼されるのを背に藤は購買部から離れた。
自販機でパックのオレンジジュースを買い、どこでご飯を食べようかと考える。
とうぜん教室ではまず食べられない。外に出ることもできない。
中庭で、一人で食べるのもなんだな、と思ってすぐに階段に足を向けた。やっぱり屋上しかなかった。
階段を登っていると、途中、凛が二人の女子と一緒に階段を降りてきた。
凛は藤を見つけるとすぐ、いつものようににこっと笑顔を見せてくれる。
藤もまた、いつものとおり、にこっと笑顔を返した。
凛の笑顔がぱっと花が咲いたように嬉しそうになる。それがまた、藤には嬉しかった。
すれ違い、藤は上へ、凛は下へ、進んでいく。
凛が気になって藤は振り返る。すると、ちょうど凛がこちらを見上げた。
その偶然が楽しくて、またにこっと笑いあう。
そして凛の姿は階段の向こうに見えなくなった。
藤は少し寂しさも感じたが、それを消しても余りあるはずんでしまうような心で笑顔のまま屋上に向かった。
屋上は東通路と西通路の二つあり、藤は西通路の方の屋上へきていた。
西通路の方は4階に上級クラスの教室があるだけであとの3階から下の教室はすべて特殊教室だった。
だから屋上に来る人が少ない。
そして西通路の屋上で昼飯を食べようとする生徒はほとんど上級クラスの三年目、四年目の生徒ばかりだから初級クラスのマイク達もあまりここでは大っぴらに騒げないはずだった。
昼休みの西通路屋上はマイク達も気楽に足を踏み入れることができない一種の聖域だった。
そして、今のところ唯一、藤の気の休まる安息の地なのである。ここを見つけてからの一週間ばかりはのんびりとした昼休みを送れていた。
今日も藤が屋上に来たときにはまだ誰もいなかった。
昼休みになってまだ五分くらいだからそれも当たり前である。藤が来るのが早すぎるのだ。
藤はいつものように出入口の扉の横手に回り、壁に背を預けて座った。
パンの袋とジュースのパックを置いてのんびりと空を見上げる。はあ、とため息を一つ。
藤にとって今の時間は今日、寮の部屋を出てから初めての休み時間だった。
寮は規則と監視がかなり厳しいので寮内で何かされるということはなく、平穏だった。
けど学校では授業中はもちろんのこと、授業の間の休み時間もろくにくつろげない。
走りっぱなしなのである。
毎日、鬼ごっこと、かくれんぼの日々なのだ。
いつまで続くのだろう、と思う。
来年か、再来年か、先が見えなくて、気が重くなって頭を振る。
先のことを考えようとするといつもこうだ。
あまり考えないようにしようと思っているのについ考えてしまう。
フランクロールを手に取り、かじった。オレンジジュースのパックにストローを刺して飲む。
フランクロールをかじる。またかじる。ジュースを飲む。その繰り返し。
なんとも寂しい食事だった。
できることといえば昔を思い出すことだけだ。
藤は去年ともだちと、ご飯を食べたことを思い出していた。
■■■
三ノ月 真夜中の月②
――あれはいつのことだっただろうか。
確か冬だったはずだ。
母さんが風邪をひいて、お弁当のなかった三日間。
うちの中学には食堂なんてしゃれたものはなかったから毎日パンで昼を過ごしていた。
……そう、確かそのパン食の三日目のことだ。小学生時代から仲のよかった四人と、いつものように五人で昼飯を食べたときのことだった。
「お前最近ずっとパンだな?」
そう切り出したのは一番仲のよかった勇吾だ。
人一倍でかい体、人一倍でかい弁当箱をまるで残ったお茶漬けをすするように口元に持ってきて食べていた。
「あ、うん。母さんが風邪でね」
「えっ?大丈夫なの?」
藤の言葉にそう驚いた声をあげたのが瞳美だ。
彼女とは家がすぐ近くで幼稚園の頃から互いの家を行き来していた仲だった。
藤は笑顔で頷いた。
「うん。もうだいぶ楽になったって言ってたからたぶん……」
「おばさん、働きすぎだもんね……」
しみじみ言う。
うちには父さんがいなかった。母さんと二人暮しだ。
子供の目から見ても母さんはいつも忙しそうにしていた。
瞳美は母さんともけっこう仲がよくて、よく話す。そんなわけで家の事情をよく知っていて何かと気を使ってくれていた。このときもそうだった。
「はい。少し上げる」
瞳美が弁当箱を差し出して言う。
「少し……ってお前のパンじゃん」
箸を止めた勇吾が瞳美の差し出した弁当箱を見下ろして呆れたように呟く。
今日の瞳美の弁当はサンドイッチだ。いろんな種類があり、見目鮮やかでおいしそうだ。
呆れたように呟いた勇吾の目もそう言っている。あの目は隙あらばせしめてやろうという目だった。
瞳美は細くすると怖くなる目で、きっと勇吾を睨みつけ、
「わたしの作ったサンドイッチと購買のパンを一緒にしないでよね!」
勇吾はおおこわ、とでも言うように肩をすくめた。
「北川って、料理できるんだ?」
そう口を挟んだのは数馬だ。もともと勇吾の友達として仲良くなった奴だった。
数馬はかなり頭がよくて試験なんかでは毎回頭抜けてトップだったので、試験勉強なんかでよく助けてもらっていた。
顔がよくて、頭がいい。学園祭でやった人気投票でも一年でありながら二位という栄誉を授かっていた。本人はあっそ、ってな感じだったが。
瞳美は勇吾に向けた顔とは対照的な笑顔を数馬に向けると得意げに頷いた。
「うん。まだそんなにたくさんレパートリーはないけどね」
瞳美が逆側の数馬を見ているのを、見て、勇吾の手がここぞとばかりにそろりと伸びる。
しかし瞳美は後頭部に目がついてるのか、そうはいくかと正確に勇吾の手をはたいた。
「って……なんだよ?毒見をしてやろうって言うのに」
「そんなもの必要ありません。味の保証なら藤がしてくれるもん」
藤は瞳美のサンドイッチを一つ手に取ると、勇吾と数馬の視線に気づいて言った。
「うん。瞳美のご飯、おいしいよ」
瞳美はぱっと嬉しそうな顔をすると、
「そうだ!今日の晩ご飯作りにいってあげる!」
「いや、いいよ……」
藤は言ったが、瞳美は聞いていない。もう上の空で何を作ろうかなと思案し始めている。
こうなるともう何を言っても無駄だ。藤は諦めるとサンドイッチを食べた。やっぱりおいしい。
「わたしのお弁当も食べていいよ」
ワンテンポ遅れてそう言ってきたのは瞳美の繋がりで話すようになった香奈だった。
いつも瞳美といるおとなしくて可愛い子だ。
数馬が好きなのよ、と前に瞳美が言っていたのを覚えている。
香奈に続いて数馬も弁当箱を差し出して言ってくる。
「僕のニンジンも上げるよ」
それを見て勇吾が呆れたように言った。
「お前、嫌いなもんやんなよ」
数馬は神経質な顔を不機嫌そうに歪めて、
「どうせ残すんだから別にあげてもいいだろう? 広沢が嫌いなら別だけど」
「いや、もらうよ。ニンジン好きだし」
藤は言うと数馬の弁当箱からニンジンを取って、ひょいと口に運んだ。
藤はニンジンの芯にあるほのかな甘味が好きだった。瞳美が不思議そうに訊ねる。
「藤ってニンジン好きだよね? どうして?」
「え? さあ、どうしてかな……」
藤はとぼけて答えをごまかした。
が、本当はわかっている。昔から母さんがデザートにニンジンのお菓子を作ってくれたからだ。
なぜニンジンかといえば、果物が高いからだった。
だけどそんなことをいえばまた同情されるし、なんだか恥ずかしかった。だから言わない。
藤は話をそらそうと香奈の弁当箱から卵焼きを貰って食べた。
おいしい、と言うと香奈は嬉しそうに笑い、瞳美が、わたしのとどっちがおいしい、と聞いてきて困らせた。
そんなこんなで楽しい食事の時間は過ぎていく。少し変化のあっただけの、いつもの日常だった。
ついに勇吾がおかずを差し出してくることはなかった。
■
なんてことのない食事の風景。
だけど今思うとあの頃は楽しかったなぁ、とか思ってしまう。
まだたった数ヶ月前のことなのに、だ。
そのとき、がちゃり、っと扉が開けられる音がして藤は我に帰った。
思わず腰を上げて警戒する。この反応はもはや癖となっていた。
しかし屋上に出てきたのは、おそらく上級クラスの女子生徒二名だった。
その二人はどこで食べよっか、と言ってきょろきょろしていたが、すぐに藤を見つけて言った。
「あ。校舎を駆け回ってる子」
「え?……あ、ほんとだぁ」
藤はこの学校ではもう有名人である。今、女子生徒が言ったとおり、校舎中を駆け回っているからだ。
彼女達はいいおかずが見つかったとばかりに藤の側に座ってお昼を広げてしまった。
藤は上級生の女子にかこまれて、そわそわと食事を進める。
質問されて、笑われて、少し楽しくも、疲れた昼休みが、とりあえずは平穏に、過ぎていった。
■■■
藤は授業が終わるなり、教室から飛び出していた。
昼休みだ。が、藤は相変わらず廊下を、ものすごい勢いでつっ走っている。
けれどこの走りは、他の時間のそれとは少しだけ意味あいが違う。
生き残るため、という意味では同じだが、今と他の時間では決定的な違いがあった。
他の時間の藤は男子のいじめから逃げるために走っていた。
だけど今ばかりは、藤も追いかけるために走っていた。
目的地は1階、購買部だ。他人より一歩でも早く、戦場に向かわんと藤は走っているのである。
このときばかりは藤もまた、優秀なハンターの一人だった。
日ごろ鍛えているせいか、藤のスタートダッシュは逸品で、同じクラスの奴らはまだ廊下に姿もあらわさない。
この学校の通常授業のシステムでは時間が越えることも、さっさと終わることもないので時間的なハンデはまったくない。
が、しかし、純粋な距離の差はどうしても出てしまう。
それはたった数メートル階段に近いだけだったけど、それでもやはり距離の差は大きかった。
藤の前には階段に近い教室の奴らの中でも、藤と張るトップクラスのスタートタイミングを持つ数人のハンター達が全力でつっ走っている。
いつもと同じ面子だ。と、そいつらの後頭部を見て藤はそう判断した。
そしてそいつらも、お前らのことはしっかり気づいているぜ、とばかりにちらりと後ろを振り返る。
自分と同じ、天性のハンターが他にもいることを彼らは知っているのだ。
そしてその中でも藤は、ここ数日で頭角をあらわしてきたハンターとして、彼らからも一目置かれるほど危険視されていた。
藤は走りながら、窓の下の中庭を見下ろす。
そして階段に到着。お前は必要ないぜ、と心の中で歌い、手すりを乗り越えショートカット。
それだけでもう藤は前のクラスの奴を追い越している。
「くそ、きたねーぞ!」
藤の背中にそいつが負け惜しみを吠える。
藤はそいつを少し振り返り、ふふ、と笑みを浮かべた。
サヴァイヴァルなハンティングで綺麗も汚いもあるか。
藤は一歩でそいつを置き去りにすると2階から1階へ降りる階段へ。手すりを乗り越えショートカット。あら不思議、もう1階だ。
今ので数人の奴らを一気に追い抜かし、あと前にいる奴はたった一人だった。
そいつは焦ったようすで後ろを振り返る。すぐ後ろにいた藤を見て、少し強張った表情を見せた。
すぐにその顔を正面に戻すと、南通路方面に走り出し、中庭に出ていく。
購買部は西通路の真中くらいにある。なので東通路と南通路を結ぶこの階段から中庭を突っ切れば数メートルは近いのだ。
そこに落とし穴があるとも知らず……。藤は心の中で哀れな彼に手を合わし、中庭には下りずに南通路を突っ走った。
そして西通路に曲がり、五十メートル先に購買部が見えてきた。
どんどんどん、と中庭に出た奴が窓を叩いている。そこの窓が閉まっていたことは3階から中庭を見下ろしたときに、すでに確認済みだ。
藤はそいつを横目に購買部のパンおばさんに学生証を突き出しながら注文を告げた。
「おばちゃん、ヤキソバパンとウインナーロール!あとチョコバナナ!」
「はいはい」
パンおばちゃんがのんびりとした口調で応える。しかし手の動きは口調とは比べ物にならない速さで、ささっとパンを袋に詰めていく。
そして藤の学生証をスリのごとき速度で取りあげ、レジの機械に通すとすぐに、パンの袋と一緒に突き出した。勝利の証だった。
藤はパンの袋を片手に購買部から離れると、窓ガラスの鍵をあけてやった。
「くっ……すまん」
そいつは悔しそうに言ってから購買部へ突っ込んでいく。
様々なパンの名が連呼されるのを背に藤は購買部から離れた。
自販機でパックのオレンジジュースを買い、どこでご飯を食べようかと考える。
とうぜん教室ではまず食べられない。外に出ることもできない。
中庭で、一人で食べるのもなんだな、と思ってすぐに階段に足を向けた。やっぱり屋上しかなかった。
階段を登っていると、途中、凛が二人の女子と一緒に階段を降りてきた。
凛は藤を見つけるとすぐ、いつものようににこっと笑顔を見せてくれる。
藤もまた、いつものとおり、にこっと笑顔を返した。
凛の笑顔がぱっと花が咲いたように嬉しそうになる。それがまた、藤には嬉しかった。
すれ違い、藤は上へ、凛は下へ、進んでいく。
凛が気になって藤は振り返る。すると、ちょうど凛がこちらを見上げた。
その偶然が楽しくて、またにこっと笑いあう。
そして凛の姿は階段の向こうに見えなくなった。
藤は少し寂しさも感じたが、それを消しても余りあるはずんでしまうような心で笑顔のまま屋上に向かった。
屋上は東通路と西通路の二つあり、藤は西通路の方の屋上へきていた。
西通路の方は4階に上級クラスの教室があるだけであとの3階から下の教室はすべて特殊教室だった。
だから屋上に来る人が少ない。
そして西通路の屋上で昼飯を食べようとする生徒はほとんど上級クラスの三年目、四年目の生徒ばかりだから初級クラスのマイク達もあまりここでは大っぴらに騒げないはずだった。
昼休みの西通路屋上はマイク達も気楽に足を踏み入れることができない一種の聖域だった。
そして、今のところ唯一、藤の気の休まる安息の地なのである。ここを見つけてからの一週間ばかりはのんびりとした昼休みを送れていた。
今日も藤が屋上に来たときにはまだ誰もいなかった。
昼休みになってまだ五分くらいだからそれも当たり前である。藤が来るのが早すぎるのだ。
藤はいつものように出入口の扉の横手に回り、壁に背を預けて座った。
パンの袋とジュースのパックを置いてのんびりと空を見上げる。はあ、とため息を一つ。
藤にとって今の時間は今日、寮の部屋を出てから初めての休み時間だった。
寮は規則と監視がかなり厳しいので寮内で何かされるということはなく、平穏だった。
けど学校では授業中はもちろんのこと、授業の間の休み時間もろくにくつろげない。
走りっぱなしなのである。
毎日、鬼ごっこと、かくれんぼの日々なのだ。
いつまで続くのだろう、と思う。
来年か、再来年か、先が見えなくて、気が重くなって頭を振る。
先のことを考えようとするといつもこうだ。
あまり考えないようにしようと思っているのについ考えてしまう。
フランクロールを手に取り、かじった。オレンジジュースのパックにストローを刺して飲む。
フランクロールをかじる。またかじる。ジュースを飲む。その繰り返し。
なんとも寂しい食事だった。
できることといえば昔を思い出すことだけだ。
藤は去年ともだちと、ご飯を食べたことを思い出していた。
■■■
三ノ月 真夜中の月②
――あれはいつのことだっただろうか。
確か冬だったはずだ。
母さんが風邪をひいて、お弁当のなかった三日間。
うちの中学には食堂なんてしゃれたものはなかったから毎日パンで昼を過ごしていた。
……そう、確かそのパン食の三日目のことだ。小学生時代から仲のよかった四人と、いつものように五人で昼飯を食べたときのことだった。
「お前最近ずっとパンだな?」
そう切り出したのは一番仲のよかった勇吾だ。
人一倍でかい体、人一倍でかい弁当箱をまるで残ったお茶漬けをすするように口元に持ってきて食べていた。
「あ、うん。母さんが風邪でね」
「えっ?大丈夫なの?」
藤の言葉にそう驚いた声をあげたのが瞳美だ。
彼女とは家がすぐ近くで幼稚園の頃から互いの家を行き来していた仲だった。
藤は笑顔で頷いた。
「うん。もうだいぶ楽になったって言ってたからたぶん……」
「おばさん、働きすぎだもんね……」
しみじみ言う。
うちには父さんがいなかった。母さんと二人暮しだ。
子供の目から見ても母さんはいつも忙しそうにしていた。
瞳美は母さんともけっこう仲がよくて、よく話す。そんなわけで家の事情をよく知っていて何かと気を使ってくれていた。このときもそうだった。
「はい。少し上げる」
瞳美が弁当箱を差し出して言う。
「少し……ってお前のパンじゃん」
箸を止めた勇吾が瞳美の差し出した弁当箱を見下ろして呆れたように呟く。
今日の瞳美の弁当はサンドイッチだ。いろんな種類があり、見目鮮やかでおいしそうだ。
呆れたように呟いた勇吾の目もそう言っている。あの目は隙あらばせしめてやろうという目だった。
瞳美は細くすると怖くなる目で、きっと勇吾を睨みつけ、
「わたしの作ったサンドイッチと購買のパンを一緒にしないでよね!」
勇吾はおおこわ、とでも言うように肩をすくめた。
「北川って、料理できるんだ?」
そう口を挟んだのは数馬だ。もともと勇吾の友達として仲良くなった奴だった。
数馬はかなり頭がよくて試験なんかでは毎回頭抜けてトップだったので、試験勉強なんかでよく助けてもらっていた。
顔がよくて、頭がいい。学園祭でやった人気投票でも一年でありながら二位という栄誉を授かっていた。本人はあっそ、ってな感じだったが。
瞳美は勇吾に向けた顔とは対照的な笑顔を数馬に向けると得意げに頷いた。
「うん。まだそんなにたくさんレパートリーはないけどね」
瞳美が逆側の数馬を見ているのを、見て、勇吾の手がここぞとばかりにそろりと伸びる。
しかし瞳美は後頭部に目がついてるのか、そうはいくかと正確に勇吾の手をはたいた。
「って……なんだよ?毒見をしてやろうって言うのに」
「そんなもの必要ありません。味の保証なら藤がしてくれるもん」
藤は瞳美のサンドイッチを一つ手に取ると、勇吾と数馬の視線に気づいて言った。
「うん。瞳美のご飯、おいしいよ」
瞳美はぱっと嬉しそうな顔をすると、
「そうだ!今日の晩ご飯作りにいってあげる!」
「いや、いいよ……」
藤は言ったが、瞳美は聞いていない。もう上の空で何を作ろうかなと思案し始めている。
こうなるともう何を言っても無駄だ。藤は諦めるとサンドイッチを食べた。やっぱりおいしい。
「わたしのお弁当も食べていいよ」
ワンテンポ遅れてそう言ってきたのは瞳美の繋がりで話すようになった香奈だった。
いつも瞳美といるおとなしくて可愛い子だ。
数馬が好きなのよ、と前に瞳美が言っていたのを覚えている。
香奈に続いて数馬も弁当箱を差し出して言ってくる。
「僕のニンジンも上げるよ」
それを見て勇吾が呆れたように言った。
「お前、嫌いなもんやんなよ」
数馬は神経質な顔を不機嫌そうに歪めて、
「どうせ残すんだから別にあげてもいいだろう? 広沢が嫌いなら別だけど」
「いや、もらうよ。ニンジン好きだし」
藤は言うと数馬の弁当箱からニンジンを取って、ひょいと口に運んだ。
藤はニンジンの芯にあるほのかな甘味が好きだった。瞳美が不思議そうに訊ねる。
「藤ってニンジン好きだよね? どうして?」
「え? さあ、どうしてかな……」
藤はとぼけて答えをごまかした。
が、本当はわかっている。昔から母さんがデザートにニンジンのお菓子を作ってくれたからだ。
なぜニンジンかといえば、果物が高いからだった。
だけどそんなことをいえばまた同情されるし、なんだか恥ずかしかった。だから言わない。
藤は話をそらそうと香奈の弁当箱から卵焼きを貰って食べた。
おいしい、と言うと香奈は嬉しそうに笑い、瞳美が、わたしのとどっちがおいしい、と聞いてきて困らせた。
そんなこんなで楽しい食事の時間は過ぎていく。少し変化のあっただけの、いつもの日常だった。
ついに勇吾がおかずを差し出してくることはなかった。
■
なんてことのない食事の風景。
だけど今思うとあの頃は楽しかったなぁ、とか思ってしまう。
まだたった数ヶ月前のことなのに、だ。
そのとき、がちゃり、っと扉が開けられる音がして藤は我に帰った。
思わず腰を上げて警戒する。この反応はもはや癖となっていた。
しかし屋上に出てきたのは、おそらく上級クラスの女子生徒二名だった。
その二人はどこで食べよっか、と言ってきょろきょろしていたが、すぐに藤を見つけて言った。
「あ。校舎を駆け回ってる子」
「え?……あ、ほんとだぁ」
藤はこの学校ではもう有名人である。今、女子生徒が言ったとおり、校舎中を駆け回っているからだ。
彼女達はいいおかずが見つかったとばかりに藤の側に座ってお昼を広げてしまった。
藤は上級生の女子にかこまれて、そわそわと食事を進める。
質問されて、笑われて、少し楽しくも、疲れた昼休みが、とりあえずは平穏に、過ぎていった。
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