真昼の月
一ノ月 魔法使いにならないかい?
――キミ、魔法使いにならないかい?
科学と経済の先進国から世界の反対側にある不思議な島に連れて行かれたのはそんな言葉が始まりだった。
広沢藤。十三歳の春。中学一年の春休み直前のことだった。
■
……そんなわけで、藤は今、夜の空を飛んでいた。
空を飛んでいるといっても、もちろん自分で、ではない。
これから向かう島から自分をスカウトしたおじさんが乗ってきたらしい飛行船で、である。
お昼過ぎに飛行場から飛び立ち、今は海の真上を飛んでいる。
壁一枚隔てた向こうは自分の顔と同じく真っ青だ。
空にはただ一つ、金色の輝きが在るだけだった。
「……落っこちないだろーなぁ」
思わず独り、呟いてしまう。
自慢じゃないが空なんて飛んだことは一度もない。
空は一般的に鳥の領分で、たまに雲と見まがう飛行船がぷかぷかと浮いているのを地上から見上げて、すげーなーとか思うばかりだ。
高いところから落ちれば死ぬ、という事実を知っていればこの高さはまさに青ざめるすげー高さだった。ふいに、
くすくすっ、と聞こえた。
藤はまるで今からこの船は落っこちるぞ、とでも聞いたような勢いで青い顔を声の方へ向けていた。つまりびびりまくっていたわけである。
が、見るとなんのことはない。隣の席の女の子が控えめに楽し気に笑っていた。
同い年くらいの女の子。おそらく自分と同じように魔法使いにならないかい、とか言われて船に乗せられたクチだろう。
その女の子が笑っている。顔を下に向け、ポニーテールを揺らし、くちに手を当てて、堪えられないといった風に笑っている。
可愛い女の子だ。船に乗り込んだときは初体験の期待と緊張で隣の席に座っている奴がどんな奴かなんて見向きもしなかった。
窓の外を眺めてて、あまりの高さに期待など窓の外から落っこちてしまい、恐怖で座席にしがみついていたのだ。
それで今、ぐうぜん隣に座る子が笑顔の可愛い女の子だと知ったわけだが、笑われているのはまさに自分だろう。
どういう顔をしようか迷ってすぐ、藤は窓の外へぷいと顔を逃がしてしまった。
人見知りが激しいとは思わない。でも、初対面の女の子に自分から自己紹介をするような気安いタイプではないことは確かだ。
笑われるくらいなら、初めから何もしないといったタイプの子供だった。
だけど女の子の方は違ったようだ。後ろで慌てたようにばたばたしたかと思ったら、藤が怒ったと思ったのか、ごめんなさい、と謝ってきた。
さすがにこれは無視することなんかできずに藤は振り返る。
女の子はしょぼんとした申し訳なさそうな顔でこっちを見ていた。
藤は怒っていないことを示すように笑顔を浮かべ、別にいいよ、と照れくさそうに言った。
すると女の子はぱっと花咲かすように笑顔を輝かせた。
一言言葉を交わしてしまえばあとは雪山を滑る雪玉の如しだった。
鈴城凛、と女の子は名乗った。自分と同じ十三歳だという。
「出身? 志津岡だよ」
藤が答えると、えーっと凛は大声を上げた。
すぐに、わたしもわたしもだよ、と興奮気味に告げてくる。
少し驚いた。すぐに凛が聞いてくる。
「どこ?」
「志摩田」
「えーっうそっ! うそうそ!」
凛は指差してばたばた暴れる。
あまりの反応のでかさに思わず笑ってしまった。
「嘘ついてどうすんのさ」
「だってだってっ! わたしも志摩田。志摩田第一中学!」
凛はさらに興奮した様子で声をあげる。
「僕は第二だ」
えーっとまた凛は声をあげた。
第一と第二は本当にすぐ側に学校がある。
知らないうちに何度か会っているかもしれなかった。それくらいの距離だ。
偶然と呼ぶにはあまりにも近すぎる。
「あの辺でしかスカウトしなかったのかな?」
そんなわけないだろうけど、そう思っても仕方ないくらいの偶然だと思う。
そうなのかな、と凛は小首を傾げる。
それからすぐに、照れた顔を隠すように俯くと、ぽつりと呟いた。
「あのね……」
「ん?」
藤が聞き返すと凛は探るように、上目遣いで藤を見ながら言った。
「藤くんって呼んでもいい?」
藤は言葉を吟味するように数秒黙り、上目遣いでこちらを見る凛の目を見返してすぐに、
「うん、……いいよ」
にこっと笑いかけた。凛はぱっと上げた顔を、花が咲いたような笑顔に変えて声をあげた。
「やったあ! じゃあ! じゃあね! わたしのことも、り、ん、……って呼んでね!」
「う、うん」
藤は凛のあまりのはしゃぎ様に、ただただ頷く。
凛は藤の様子になどまったく気にせずに一頻り喜び、はしゃいでいた。
が、そのあとはまた顔を伏せて、幸せそうな笑みを口元に浮かべると、ぽつりと言った。
「……でも良かった」
藤はその言葉に惹かれて凛を見る。凛のはにかむような微笑を見て思わずドキッとしてしまい、その気持ちを隠すように慌てて口をひらき、訊ねた。
「な、なにが?」
凛は顔を上げ、にこりと笑う。そんな笑顔のまま楽しそうに言った。
『一人じゃなくて、だよ』
■
夜の南天に輝く月がある。
彼女はいつも一人だなと、いつも思っていた。
■■■
二ノ月 夜空の月①
六月十三日。月曜日。晴れ。
広沢藤が魔道学園ウィザルドに転入してから一ヶ月ほどがたっていた。
ずどどどどど……と藤は赤い絨毯の廊下を走っていく。
バックを背負い、慌てて寮の部屋に帰るのか、といった様子だ。
だけどまだ時間は昼休みにもなっていない。走っているのは理由があるからに他ならない。
簡単に言ってしまえば追いかけられているからだった。
前方に階段が見えてきて、藤は一度振り返った。
やはり同じように廊下を突っ走り、数人の男子が追っかけてきている。
先頭を走るのはあいつだ。金髪ニキビ面のちび。あのバカ殿のコシギンチャク。足だけがとりえのちびっこギャング。マイク。あいつだ。
別に鬼ごっこをしているわけではない。
つまるところ、これは生意気で気に入らない転校生を捕まえて小突き回すという、楽しい遊びだった。
が、いじめられる方はおもしろくもなんともない。
なんで魔法習いにきて毎日毎日ぢべた走らにゃならんのだ、といつも思う。別にオリンピックに出たいわけじゃあないのに。
階段まであと数メートル。振り返る。追っ手とはまだ五十メートルほども差があるだろう。問題ない。
階段についた。
階段は真中の段で折り返す、くの字型のやつである。手すりで真中が仕切られていて、無駄な場所をなるべく省いたあれだ。
上と下がある。選択肢は屋上か3階だ。
藤は考えるまでもなく手すりを乗り越えて、じゃんぷ。
垂直の距離でいうと二メートルちょっとあるその高さを、当たり前のように落下。
タイミングを計って、
「フロー」
落下速度にブレーキがかかる。
身体を軽くする簡単な魔法だ。
ここにきて二日目、四番目に覚えさせられた本当に簡単な魔法である。
今のところ一番の得意魔法だろう。なんせ毎日使っているのだから。
魔法を解除。着地。階段の脇でおしゃべりしていた女子連中が驚きを見せる。
だけどすぐに、またこいつかといった顔をした。
彼女たちを横目に藤はもう一度手すりを乗り越える。
タイミングを計って、「フロー」、魔法解除、着地――もう2階だ。
1階には降りず、無人の廊下を走る。
すぐに曲がって魔法訓練の特別教室に入り、息を殺す。どたばたと階段を駆け下りる音が聞こえてきた。
下だ下だ!下行け!、とマイクの子犬みたいな甲高い声が叫んだ。
続いて誰かが言った。
「逃げ足ばっかり速くなりやがって」
誰のせいだ、と言い返したい。
毎日毎日毎日、逃げまくってればいやでも速くなる。
ここに転入して一週間ですべての教室を覚えた。
一ヶ月、どこの階のどの教室があいているか大体わかるようになっていた。
落下、タイミングを計って「フロー」、解除、着地、人の有無を一瞬にして見分け、確実なルート、隠れる教室を一瞬で判断する。
無駄という無駄を省いた逃走は追っ手を易々と振り切る洗練されたものとなっている。
なんでンなもん洗練しなくちゃならん、言いたい。
じっとしていると音がなくなった。
休み時間はもう少しある。
このままここで時間を潰そう。藤は息をついて、ぢべたにしゃがみこんだ。
どうしてこうなったのだろうか、もう一度考えてみる。
■■■
科学と経済の先進国から世界の反対側にある不思議な島に連れて行かれたのはそんな言葉が始まりだった。
広沢藤。十三歳の春。中学一年の春休み直前のことだった。
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……そんなわけで、藤は今、夜の空を飛んでいた。
空を飛んでいるといっても、もちろん自分で、ではない。
これから向かう島から自分をスカウトしたおじさんが乗ってきたらしい飛行船で、である。
お昼過ぎに飛行場から飛び立ち、今は海の真上を飛んでいる。
壁一枚隔てた向こうは自分の顔と同じく真っ青だ。
空にはただ一つ、金色の輝きが在るだけだった。
「……落っこちないだろーなぁ」
思わず独り、呟いてしまう。
自慢じゃないが空なんて飛んだことは一度もない。
空は一般的に鳥の領分で、たまに雲と見まがう飛行船がぷかぷかと浮いているのを地上から見上げて、すげーなーとか思うばかりだ。
高いところから落ちれば死ぬ、という事実を知っていればこの高さはまさに青ざめるすげー高さだった。ふいに、
くすくすっ、と聞こえた。
藤はまるで今からこの船は落っこちるぞ、とでも聞いたような勢いで青い顔を声の方へ向けていた。つまりびびりまくっていたわけである。
が、見るとなんのことはない。隣の席の女の子が控えめに楽し気に笑っていた。
同い年くらいの女の子。おそらく自分と同じように魔法使いにならないかい、とか言われて船に乗せられたクチだろう。
その女の子が笑っている。顔を下に向け、ポニーテールを揺らし、くちに手を当てて、堪えられないといった風に笑っている。
可愛い女の子だ。船に乗り込んだときは初体験の期待と緊張で隣の席に座っている奴がどんな奴かなんて見向きもしなかった。
窓の外を眺めてて、あまりの高さに期待など窓の外から落っこちてしまい、恐怖で座席にしがみついていたのだ。
それで今、ぐうぜん隣に座る子が笑顔の可愛い女の子だと知ったわけだが、笑われているのはまさに自分だろう。
どういう顔をしようか迷ってすぐ、藤は窓の外へぷいと顔を逃がしてしまった。
人見知りが激しいとは思わない。でも、初対面の女の子に自分から自己紹介をするような気安いタイプではないことは確かだ。
笑われるくらいなら、初めから何もしないといったタイプの子供だった。
だけど女の子の方は違ったようだ。後ろで慌てたようにばたばたしたかと思ったら、藤が怒ったと思ったのか、ごめんなさい、と謝ってきた。
さすがにこれは無視することなんかできずに藤は振り返る。
女の子はしょぼんとした申し訳なさそうな顔でこっちを見ていた。
藤は怒っていないことを示すように笑顔を浮かべ、別にいいよ、と照れくさそうに言った。
すると女の子はぱっと花咲かすように笑顔を輝かせた。
一言言葉を交わしてしまえばあとは雪山を滑る雪玉の如しだった。
鈴城凛、と女の子は名乗った。自分と同じ十三歳だという。
「出身? 志津岡だよ」
藤が答えると、えーっと凛は大声を上げた。
すぐに、わたしもわたしもだよ、と興奮気味に告げてくる。
少し驚いた。すぐに凛が聞いてくる。
「どこ?」
「志摩田」
「えーっうそっ! うそうそ!」
凛は指差してばたばた暴れる。
あまりの反応のでかさに思わず笑ってしまった。
「嘘ついてどうすんのさ」
「だってだってっ! わたしも志摩田。志摩田第一中学!」
凛はさらに興奮した様子で声をあげる。
「僕は第二だ」
えーっとまた凛は声をあげた。
第一と第二は本当にすぐ側に学校がある。
知らないうちに何度か会っているかもしれなかった。それくらいの距離だ。
偶然と呼ぶにはあまりにも近すぎる。
「あの辺でしかスカウトしなかったのかな?」
そんなわけないだろうけど、そう思っても仕方ないくらいの偶然だと思う。
そうなのかな、と凛は小首を傾げる。
それからすぐに、照れた顔を隠すように俯くと、ぽつりと呟いた。
「あのね……」
「ん?」
藤が聞き返すと凛は探るように、上目遣いで藤を見ながら言った。
「藤くんって呼んでもいい?」
藤は言葉を吟味するように数秒黙り、上目遣いでこちらを見る凛の目を見返してすぐに、
「うん、……いいよ」
にこっと笑いかけた。凛はぱっと上げた顔を、花が咲いたような笑顔に変えて声をあげた。
「やったあ! じゃあ! じゃあね! わたしのことも、り、ん、……って呼んでね!」
「う、うん」
藤は凛のあまりのはしゃぎ様に、ただただ頷く。
凛は藤の様子になどまったく気にせずに一頻り喜び、はしゃいでいた。
が、そのあとはまた顔を伏せて、幸せそうな笑みを口元に浮かべると、ぽつりと言った。
「……でも良かった」
藤はその言葉に惹かれて凛を見る。凛のはにかむような微笑を見て思わずドキッとしてしまい、その気持ちを隠すように慌てて口をひらき、訊ねた。
「な、なにが?」
凛は顔を上げ、にこりと笑う。そんな笑顔のまま楽しそうに言った。
『一人じゃなくて、だよ』
■
夜の南天に輝く月がある。
彼女はいつも一人だなと、いつも思っていた。
■■■
二ノ月 夜空の月①
六月十三日。月曜日。晴れ。
広沢藤が魔道学園ウィザルドに転入してから一ヶ月ほどがたっていた。
ずどどどどど……と藤は赤い絨毯の廊下を走っていく。
バックを背負い、慌てて寮の部屋に帰るのか、といった様子だ。
だけどまだ時間は昼休みにもなっていない。走っているのは理由があるからに他ならない。
簡単に言ってしまえば追いかけられているからだった。
前方に階段が見えてきて、藤は一度振り返った。
やはり同じように廊下を突っ走り、数人の男子が追っかけてきている。
先頭を走るのはあいつだ。金髪ニキビ面のちび。あのバカ殿のコシギンチャク。足だけがとりえのちびっこギャング。マイク。あいつだ。
別に鬼ごっこをしているわけではない。
つまるところ、これは生意気で気に入らない転校生を捕まえて小突き回すという、楽しい遊びだった。
が、いじめられる方はおもしろくもなんともない。
なんで魔法習いにきて毎日毎日ぢべた走らにゃならんのだ、といつも思う。別にオリンピックに出たいわけじゃあないのに。
階段まであと数メートル。振り返る。追っ手とはまだ五十メートルほども差があるだろう。問題ない。
階段についた。
階段は真中の段で折り返す、くの字型のやつである。手すりで真中が仕切られていて、無駄な場所をなるべく省いたあれだ。
上と下がある。選択肢は屋上か3階だ。
藤は考えるまでもなく手すりを乗り越えて、じゃんぷ。
垂直の距離でいうと二メートルちょっとあるその高さを、当たり前のように落下。
タイミングを計って、
「フロー」
落下速度にブレーキがかかる。
身体を軽くする簡単な魔法だ。
ここにきて二日目、四番目に覚えさせられた本当に簡単な魔法である。
今のところ一番の得意魔法だろう。なんせ毎日使っているのだから。
魔法を解除。着地。階段の脇でおしゃべりしていた女子連中が驚きを見せる。
だけどすぐに、またこいつかといった顔をした。
彼女たちを横目に藤はもう一度手すりを乗り越える。
タイミングを計って、「フロー」、魔法解除、着地――もう2階だ。
1階には降りず、無人の廊下を走る。
すぐに曲がって魔法訓練の特別教室に入り、息を殺す。どたばたと階段を駆け下りる音が聞こえてきた。
下だ下だ!下行け!、とマイクの子犬みたいな甲高い声が叫んだ。
続いて誰かが言った。
「逃げ足ばっかり速くなりやがって」
誰のせいだ、と言い返したい。
毎日毎日毎日、逃げまくってればいやでも速くなる。
ここに転入して一週間ですべての教室を覚えた。
一ヶ月、どこの階のどの教室があいているか大体わかるようになっていた。
落下、タイミングを計って「フロー」、解除、着地、人の有無を一瞬にして見分け、確実なルート、隠れる教室を一瞬で判断する。
無駄という無駄を省いた逃走は追っ手を易々と振り切る洗練されたものとなっている。
なんでンなもん洗練しなくちゃならん、言いたい。
じっとしていると音がなくなった。
休み時間はもう少しある。
このままここで時間を潰そう。藤は息をついて、ぢべたにしゃがみこんだ。
どうしてこうなったのだろうか、もう一度考えてみる。
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