大学生の日常エッセイ

さくれ

それでも私は虫になりたくない

高校2年生の弟が、読書感想文で高校の代表に選ばれた。
本人は、3年生は自由提出やからと謙遜していたが、わざわざ好きで提出する3年生たちよりも優れたものを書いたという意味で、よりすごいのではないかと思う。

中学生の時分、彼はカフカの「変身」で読書感想文を書き、賞を貰っている。
青空文庫で読めるので、私も電子書籍を利用して読んだことがある。が、とりあえず最後まで読んだものの、感想文を書くほどのエッセンスがどこにあるのか全くわからない。ぜひみんなにも読んでもらって、感想が聞きたいところである。

カフカの「変身」で読書感想文を書くことを可能にしている要素として、読解力はもちろんの事、彼の引き出しの多さだろう。
Aという文章を読んで、aとしか感じない人、bという似た事柄を自分の知識から引っ張って来れる人、cという一見Aとは似ても似つかぬ事柄を、独自の観点から結びつけ、表現することが出来る人。優れた読書感想文を書く弟は、最も後者の人間なのではないだろうか。



読書感想文は必要かどうか。

こういった議論がSNSだったかはわからないが、とにかくどこかしらで巻き起こったことは記憶に新しい。

私の意見を述べさせて貰うと、「必要」である。
読書したそののちに、感想を自分なりの表現で書く。どの時代にも必要な力に思われるし、何より、本当に不必要ならば、とっくに文部科学省が「ナシ」を通達しているだろう。事前、事後指導次第では、今後印象が大きく変わる課題であると思う。

今回の議論の面白さは、ものごとを形而上学的に捉えようとしている点にあると私は思っている。

形而上学的のことを今はメタ的、超次元的という意味で使っている。一言で言うと「そもそも論」である。

読書感想文のことを我々は当たり前のように受け入れ、文句を言いつつもなんとか規定の枚数の原稿用紙を埋めて、提出してきた。本当にこれが必要なのかどうかなんて、真剣に考えたことが一度でもあったか。

それを考えたのが今回の議論である。
非常に意味のあるものであると思う。

いる派といらない派でわかれるのが普通だが、書くの苦手だからいらない、とか、本好きだからいる、とかそういったレベルで終わらせるのはすごくもったいない気がした。

なぜ自分がそれを必要、または不必要だと思うのか。自分と反対意見の人の根拠は何だ。なぜ私たちは分かり合えないのか。折り合いをつけられる場所はないか。
こういった意義ある議論のきっかけにもなるべき話題である。まさに哲学的思考の第一歩ではないか!



「高校代表に選ばれて誇らしい」とか「頑張って書いた文章が評価されて嬉しい」といった感覚は確かにそこに存在するわけで、それは言うまでもなく、読書感想文という課題ありきのものである。

今度、弟が書いた読書感想文を読ませてもらう約束をした。それを読めばまた意見が変わってくるかもしれない。


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