異世界ものが書けなくて
(12)焦ってももがいてもどうしても、書けない
◇ ◇ ◇
8月の頭。
文芸部の合宿があるその日、僕は、道場にいた。
真織からたくさんの着信が入っているのは気づいている。
だけど、僕は、逃げた。
評価される場から。
小説から。
もうすぐフルコン空手の試合に出るのだという鈴鹿先輩の組手の相手を、今日も土方理宇がつとめている。
『見とり稽古』と称して、僕たちはそれを見つめている。
(――――――なんてカッコいい動きなんだろう)
見とり稽古もなにも、僕はただ、それに惚けて見とれていただけだ。
道場に来ているほかの女子たちが、鈴鹿先輩をひとりじめしている状態の土方を、ずっとにらんでいる。
だけど、鈴鹿先輩と土方理宇、このふたりは道場のなかでも明らかにレベルが違っていて、僕にも誰にも入り込むことはできないだろう。
いまのところ、土方が女の子だということは、鈴鹿先輩にはバレていないようだ。いたしかたない。はっきりと鈴鹿先輩は公言した。土方は俺よりも強いと。僕もそう思う。自分より体格の大きい相手を前にしてもなお、土方は、強い。
(道場のなかは、いいな)
ぽつんと、僕はそんなことを思った。
(評価される立場にならなくていい。
勝負をしなくていい。
ただ、こうして、すごい人の組手を見ていればいいんだ)
文芸部の後輩たちに会ったあの日から。
僕は一文字も書けていない。
パソコンに向かうことも、スマホのメモ帳を開くことも、プロットのノートを開くことさえ、恐かった。
真織を救うなんて、おこがましかった。
真織に生きていて欲しいから小説を書くだなんて考えていた少し前の僕の思い上がりに、虫酸が走る。
こんな弱い人間に、誰かを救うなんて、できるわけがなかったんだ。
ぬるま湯にいたかった。
勝負なんてしないで、優劣なんてつけられないで、僕がいかに劣った人間なのかという残酷な事実を突きつけられないで、おとなしく生きていたかった。
そうやっていきていきたい人間が、なにかを成し遂げようなんて。それどころか、誰かを救おうだなんて。
鈴鹿先輩と土方の組手の終了を示すアラームが鳴る。
ふたり、礼をして離れる。
カッコいい。
うらやましい。
妬ましい。
何度生まれ変わっても僕がなることはできない、主人公たちが、そこにいた。
しかし、ずっと鈴鹿さんの相手をさせられ通しだから、さすがに土方も休むだろう。そう思って、ふいに僕の注意力が切れた、その時だった。
「次、尾嶋さん、お願いします」
「………え?」
突然、土方から僕にお呼びがかかった。
土方が、切れ長の目をこちらに向けている。
本当にこの目、心臓に悪い。
先程まで、素手と素足で鈴鹿さんの相手をしていた土方が、さっそく、グローブを手につけようとしている。
「えっ、ぼっ…わ、たしでいいんですか?」
思わず敬語になる僕だったが、土方さんは問答無用で、くい、と、あごで待機線を指す。
僕は、防具なしでいいということか?
「いいから」
「………………」
僕は、くちにカポリとマウスピースを放り込むと、土方の前に出た。
彼女は大きめのグローブをつけていたし、足にもクッション性の防具をつけていた。たぶん、僕に怪我をさせるつもりはないという意思表示なのだと思う。
僕にスーパーセーフをかぶせないということは、たぶん、顔面を狙うつもりでもない。
土方理宇。身長167センチ。体重53キロ。
対する僕、尾嶋稲穂。身長153センチ。体重44キロ。
高い身長と長い手足。
その時点で、体に攻撃が届く気がしない。
そして彼女は黒帯、かつ、普通の黒帯より遥かに強い。
僕が土方の相手になるわけがないのに、いったい、なんで僕を呼んだんだろう?
開始の号令。
その瞬間、頭のなかがリセットされる。
僕は、ステップを踏み始めた。
◇ ◇ ◇
もちろん相手になるはずはなく。
僕は、ただの一発も土方に有効打をいれることはできなかった。
土方の攻撃はほとんど受けようも避けようもなく、食らうしかなかった(たぶんものすごく手加減されていたけれど、痛かった)。
どうにか2分、闘いきったとき、ぽん、っと、鈴鹿先輩が僕の頭にねぎらうように触れた。
だけど、何も誉められる要素はなかったと思う。
ただ、小説と違って逃げられなかったから、土方の前に出ただけなのだから。
◇ ◇ ◇
道場終わり、いよいよ真織に連絡を取らないといけないと、僕は重苦しい気持ちになっていた。
僕が、女子たちのなかで一番最初に着替えて更衣室を出ると、既に私服に着替えた土方が、道場のなかで鈴鹿さんと、なにか、話をしていた。
土方が女子更衣室を使っていないのには理由がある。
道場の女子たちは、土方理宇本人にまで直談判をしたらしい。鈴鹿さんに対して、女であることを隠してくれ、と。
土方本人がなぜそれを承諾したのかはわからないが、ともあれ、土方理宇はいつもトイレを使って着替えているようだ。
「あ、じゃあ、私は先に出ます」
土方は僕の姿を見ると、急にそんなことを言って鈴鹿先輩に会釈した。
(………え、また僕とタイミングいっしょ?)
いや、彼女の意図は、わかっている。
この前、帰り道に僕は、ちょっとたちの悪い男子たちに絡まれた。
同じ連中が僕を待ち伏せていないか、彼女は心配してくれているのだ。たぶん。
わかっているのだけど。
(やっぱり、なんか心臓に悪いんだよなぁ。このひと)
僕は土方から微妙に距離をおきながら、土方とともに道場を出た。
8月の頭。
文芸部の合宿があるその日、僕は、道場にいた。
真織からたくさんの着信が入っているのは気づいている。
だけど、僕は、逃げた。
評価される場から。
小説から。
もうすぐフルコン空手の試合に出るのだという鈴鹿先輩の組手の相手を、今日も土方理宇がつとめている。
『見とり稽古』と称して、僕たちはそれを見つめている。
(――――――なんてカッコいい動きなんだろう)
見とり稽古もなにも、僕はただ、それに惚けて見とれていただけだ。
道場に来ているほかの女子たちが、鈴鹿先輩をひとりじめしている状態の土方を、ずっとにらんでいる。
だけど、鈴鹿先輩と土方理宇、このふたりは道場のなかでも明らかにレベルが違っていて、僕にも誰にも入り込むことはできないだろう。
いまのところ、土方が女の子だということは、鈴鹿先輩にはバレていないようだ。いたしかたない。はっきりと鈴鹿先輩は公言した。土方は俺よりも強いと。僕もそう思う。自分より体格の大きい相手を前にしてもなお、土方は、強い。
(道場のなかは、いいな)
ぽつんと、僕はそんなことを思った。
(評価される立場にならなくていい。
勝負をしなくていい。
ただ、こうして、すごい人の組手を見ていればいいんだ)
文芸部の後輩たちに会ったあの日から。
僕は一文字も書けていない。
パソコンに向かうことも、スマホのメモ帳を開くことも、プロットのノートを開くことさえ、恐かった。
真織を救うなんて、おこがましかった。
真織に生きていて欲しいから小説を書くだなんて考えていた少し前の僕の思い上がりに、虫酸が走る。
こんな弱い人間に、誰かを救うなんて、できるわけがなかったんだ。
ぬるま湯にいたかった。
勝負なんてしないで、優劣なんてつけられないで、僕がいかに劣った人間なのかという残酷な事実を突きつけられないで、おとなしく生きていたかった。
そうやっていきていきたい人間が、なにかを成し遂げようなんて。それどころか、誰かを救おうだなんて。
鈴鹿先輩と土方の組手の終了を示すアラームが鳴る。
ふたり、礼をして離れる。
カッコいい。
うらやましい。
妬ましい。
何度生まれ変わっても僕がなることはできない、主人公たちが、そこにいた。
しかし、ずっと鈴鹿さんの相手をさせられ通しだから、さすがに土方も休むだろう。そう思って、ふいに僕の注意力が切れた、その時だった。
「次、尾嶋さん、お願いします」
「………え?」
突然、土方から僕にお呼びがかかった。
土方が、切れ長の目をこちらに向けている。
本当にこの目、心臓に悪い。
先程まで、素手と素足で鈴鹿さんの相手をしていた土方が、さっそく、グローブを手につけようとしている。
「えっ、ぼっ…わ、たしでいいんですか?」
思わず敬語になる僕だったが、土方さんは問答無用で、くい、と、あごで待機線を指す。
僕は、防具なしでいいということか?
「いいから」
「………………」
僕は、くちにカポリとマウスピースを放り込むと、土方の前に出た。
彼女は大きめのグローブをつけていたし、足にもクッション性の防具をつけていた。たぶん、僕に怪我をさせるつもりはないという意思表示なのだと思う。
僕にスーパーセーフをかぶせないということは、たぶん、顔面を狙うつもりでもない。
土方理宇。身長167センチ。体重53キロ。
対する僕、尾嶋稲穂。身長153センチ。体重44キロ。
高い身長と長い手足。
その時点で、体に攻撃が届く気がしない。
そして彼女は黒帯、かつ、普通の黒帯より遥かに強い。
僕が土方の相手になるわけがないのに、いったい、なんで僕を呼んだんだろう?
開始の号令。
その瞬間、頭のなかがリセットされる。
僕は、ステップを踏み始めた。
◇ ◇ ◇
もちろん相手になるはずはなく。
僕は、ただの一発も土方に有効打をいれることはできなかった。
土方の攻撃はほとんど受けようも避けようもなく、食らうしかなかった(たぶんものすごく手加減されていたけれど、痛かった)。
どうにか2分、闘いきったとき、ぽん、っと、鈴鹿先輩が僕の頭にねぎらうように触れた。
だけど、何も誉められる要素はなかったと思う。
ただ、小説と違って逃げられなかったから、土方の前に出ただけなのだから。
◇ ◇ ◇
道場終わり、いよいよ真織に連絡を取らないといけないと、僕は重苦しい気持ちになっていた。
僕が、女子たちのなかで一番最初に着替えて更衣室を出ると、既に私服に着替えた土方が、道場のなかで鈴鹿さんと、なにか、話をしていた。
土方が女子更衣室を使っていないのには理由がある。
道場の女子たちは、土方理宇本人にまで直談判をしたらしい。鈴鹿さんに対して、女であることを隠してくれ、と。
土方本人がなぜそれを承諾したのかはわからないが、ともあれ、土方理宇はいつもトイレを使って着替えているようだ。
「あ、じゃあ、私は先に出ます」
土方は僕の姿を見ると、急にそんなことを言って鈴鹿先輩に会釈した。
(………え、また僕とタイミングいっしょ?)
いや、彼女の意図は、わかっている。
この前、帰り道に僕は、ちょっとたちの悪い男子たちに絡まれた。
同じ連中が僕を待ち伏せていないか、彼女は心配してくれているのだ。たぶん。
わかっているのだけど。
(やっぱり、なんか心臓に悪いんだよなぁ。このひと)
僕は土方から微妙に距離をおきながら、土方とともに道場を出た。
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