星乙女の天秤~夫に浮気されたので調停を申し立てた人妻が幸せになるお話~
05. 不倫相手と
「え、お義父さん?お義母さんも……」
リビングはめちゃくちゃに荒らされていた。それこそ泥棒に入られたあとのように。いや泥棒の方がプロな分マシかもしれない。
荒れた部屋の中に、俊彰と女、そして俊彰の両親が立っている。
蔑むような目でこちらを見ているその女、神代早苗を目の当たりにして、私は床に釘付けされたように動けなくなってしまった。
不倫しておきながら、堂々と家に乗り込んで来るなんて……。腸が煮えるってこういう時に使うんだ。腹の奥から血が逆流しそうだった。大声で罵りながら、ここにいる全員をめちゃくちゃに殴り付けてやりたい衝動に駆られて、自分が嫌になる。
「今日は早かったんだな」
俊彰の冷たい声に頭が冴える。
私は震える手でスーツの胸をぎゅっと掴んだ。
「まさかとは思うけど、金目のものをとりに来たの……?」
私の問いかけに俊彰は無表情で答えた。
「そうだ。別にいいだろう?」
「でも、家具や家電はほとんど私が買ったものよ……?」
「だから何だよ」
馬鹿だ。私は何でこんな男と一緒に暮らしていたんだろう。クソバカじゃないか、こいつ!
「お義父さん、お義母さんもお手伝いですか。酷いですね。まだ離婚してませんよね?」
私がそう言うのを、神代早苗が嘲るように笑う。
「そうそう。まだ離婚届、出してくれてないんですよね?困るんで、早く離婚届を書いてくれませんか?今ここでもいいですよ?ねぇ、俊彰さん」
勝ち誇ったように神代早苗は笑い続けている。美人なはずなのに、私にはその顔はひどく醜く見えた。
それを無視して私は俊彰に話しかける。
「私はまだ離婚届は書きたくない。話がしたいの。俊彰、時間を作ってくれない?」
笑いが堪えきれないという様子で神代早苗が口元を手でおさえる。
「うふっ!何を話し合うんですか?もう遅いのに」
見せつけるようにお腹をなでさすり、俊彰の腕にもたれかかった。
―――それは私の夫よ?
吐きそうだ。
「赤ちゃんのためにも、早く書いてくださーい」
私たちが言い争ってる間に、俊彰の両親がそそくさと荷物をまとめている。
私の知ってる俊彰の両親はこんな人達だったかな。別人みたいに冷たい顔をしている。
「神代さん、あなたは本当に妊娠してるの?」
「私が嘘ついてると思ってるの?キャハハ!エコー写真見せてあげようか?ほら、可愛い赤ちゃん写ってるよ。あ、でも梓さんってこども出来ないんでしたっけ。嫉妬しないでくださいねえ」
私は不妊ではない。だが流産したのは事実だ。たとえ早期流産の割合が妊婦の6人に1人だとしても、その1人が私だった。お腹の中で死んでしまった子供の命を思い出すと、さすがに堪える。あの時の痛みが記憶をよぎり、全身の震えが止まらなくなって奥歯がガチガチ音を立てていた。
「もう、いいから。さあ、帰りましょう」
焦るように義母が横から言った。
「……俊彰、あなたまさか、練馬の……自分の実家に、その人も一緒に?」
「そうだよ!一緒に住んでるんだよ!もう家族だもの。梓さんって同居は絶対やだって言ってたんでしょ?ひどいよね!私は優しいおとうさんとおかあさんを大事にするから、安心して離婚してね?」
「いい加減にして!俊彰に質問してるのに、なんでさっきからこの女が答えてるのよ!!」
私は思わず甲高い声で怒鳴ってしまった。
「うわ、オバサンコワーイ」と神代早苗がふざけて身をすくめる。
神経を逆なでしてくるその態度に、もう同じ空間にいることが耐えられなくなってきた。誰か助けて。
「同居を拒否したのは事実だけど、それは俊彰も同じじゃない」
「でも金遣いも荒くて、料理とか全然しなかったんでしょ?妻失格だよねー!」
平日遅くなったら、お総菜買って帰ることも多かったよ。でも俊彰が一切準備しないから、残業した日は、そうせざるを得なかったんじゃない。休日は料理してたじゃない。
「俊彰……なんで嘘ばっかりついてるの……?そんなに私が嫌いだったの……?」
悔しくて泣く事しか出来なかった。情けない情けない情けない!
「あらら、元奥さんおかしくなっちゃった。顔、青いよ。惨めすぎてかわいそうになってきたわ。帰りましょう、俊彰さん」
「待ってよ、俊彰!返事してよ!」
私の懇願を無視して家を出ていく4人の背中を見ても、これが現実だと思えなかった。
部屋に独り取り残された私は、初めて俊彰のご両親に会った時の事を思い出していた。
お義母さんは「うちは俊彰ひとりだから、娘が出来てうれしい」って言ってたじゃないですか。一緒に買い物したり、結婚して1年目には家族旅行にも行ったじゃないですか。リビングに置いてあったその沖縄旅行の写真を見て心臓が苦しくなった。私はまたスーツの胸をぎゅっと掴む。
リビングにはたくさん写真を飾っていた。付き合い始めた頃の照れてる俊彰が若い私の隣で笑っている。格好よくて優しくて一番人気だったバイトの先輩。告白されたとき、結婚したとき、皆に祝福されたあの瞬間。このリビングで一緒に映画をみたり、キスをしたりした、そんな思い出が苦しくて、泣くしかなかった。
ぶるぶる震えながら私は電話を掛ける。
ほんの数コールが永遠に感じていた。
先生!先生!先生!早く出て先生!!!
『こんな時間にどうした?何かあったのか?』
電話の向こうのその人に、私は叫ぶしかなかった。
「助けて!桐木先生、助けて!」
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