全力で逃げて何が悪い!

茄子

006 歌唱の授業・・・ですよね?

「ごきげんよう、アタシのかわいい生徒たち!アタシが歌唱クラスの教師、ベルナルダン=コロネル=ブランヴィルよ。でーも、アタシのことはレディベルって呼んでね」

 突然ですが、歌唱授業が、たった今開始されましたが、担当教師がしょっぱなから濃いです。オネエ系っぽいですが、燕尾服の男性です。
 服に隠れていますが、歌を美しく歌うには筋力が必要ですので、細マッチョと推測できますわね。
 それにしても、強烈なキャラのおかげで、このクラスの生徒が全員硬直してますよ。私は今こうして、ある意味現実逃避していることでなんとかなってますけれど、顔が引きつっている自信があります。

「ちなみに、アタシの授業は課題をクリアすれば合格点を出してあげる形式だから、皆頑張ってクリアしてちょうだい。まずは腹筋100回よ」

 ………は?

「先生、ちょっとよろしいでしょうか?」
「どうぞ、デルジアン嬢」
「妹もおりますので、ランジュミューア、とお呼びいただけると嬉しく思います。歌唱の授業で腹筋をする意味をお教えいただけますでしょうか?」

 いや、声を出すのに腹筋が必要なのは知ってますけど、100回とかしょっぱなから厳しすぎませんかね?武官や騎士、兵士を目指してるならともかく、普通の貴族子女に腹筋100回とか、ダンスの練習でもしませんよそんなこと。

「美しい声は美しい筋肉により作り出されるのよ。安心して、アタシの授業では毎年喉から血を出したり、喉をつぶしたり、肉離れを起こす子も出るけど、わが校の校医は優秀な回復魔法使いよ」

 OH……。

「腹筋100回が終わったら背筋100回、その後はずっと壁に背をつけてまっすぐ立つ練習よ」

 おかしいですね、歌唱授業ってもっと優雅なものかと思っていたのですが、これは思いのほか体育会系というものなのでしょうか?
 ほら、私を含め10人いる生徒が全員顔を青ざめているじゃないですか!入学式の後に時間割を兄様に見せた瞬間、目をそらされたのはこれが原因なのでしょうか?
 というか、前世兄ことヴァランティーヌ様は絶対知ってましたよね!言わなかったのはわざとですか?カラオケとは違う、というのはこういう意味でしたかこんちくしょう!
 日当たりの良いピアノ以外何もない広い部屋に、確かに違和感を覚えてはいましたが、そういう理由ですか。横に積まれてるマットは腹筋などの筋トレ用だったんですか。

「ほらぁ、早く開始しなさいね」

 なまじ美形なだけに、オネエ言葉が似あいますね。
 それにしても腹筋ですか。ストレッチで多少はしてましたが、100回もできませんよ。私病弱設定でしたし。
 生徒が動きやすい服に着替えている間に、各自マットをお付きに用意してもらい、敷かれたマットに寝そべって足を押さえてもらい、腹筋を始めます。
 皆様腹筋のやり方は先ほど黒板に書いてもらったのでわかるのですが、出来ませんよね。出来てるのは一部の方ぐらいですよ。
 あ、私ですか?50回ぐらいなら普通にできます。森で暮らしてましたので、筋肉がちょっとはつきましたし、ダンスを実家に居た時に叩き込まれてますので、あれって意外と全身の筋肉を使うんですよ。
 でも、10回を超えたところで脱落者が出始めてますね。マリオン様とかいかにも筋肉なさそうですからねえ、無理ですよねえ。
 30回を超えて残ってるのは私とマドレメル様、あと男子が2人ですか。まあ歌唱クラスは女生徒が多いですし、2人しかいない男子が意地にかけて残ってるのかもしれませんね。マドレメル様は騎士を目指しているだけあってお流石です。

「56~」

 う~ん、そろそろきつくなってきました。でもまあ、まだギブアップには早いですね。家で行うストレッチではウエストを絞るために、腰にひねりを加えてましたし、それがないだけ楽かもしれませんね。
 あら、男子生徒の2人が脱落してしまいましたね。マドレメル様も……だめでしたか。頑張ったほうじゃないでしょうか?ダンスぐらいしか基本しない令嬢ですものね。騎士を目指していたならランニングとか、少しは運動していたかもしれませんけど。あ、乗馬とかをしてたかもしれませんね。乗馬いいですよね、今年は取りませんでしたが来年は受講してみるのもいいかもしれません。

「93~」

 ぐぅ…これは、きついです…。お腹がプルプルします。いえ、贅肉が動いているってわけじゃないですよ、筋肉がぴきぴきしてるっていう意味ですからね。
 もう令嬢らしからぬ汗が出てきてますし、お風呂に入りたい気分です。ファンタジーの世界なのでルネサンス時代っぽくてもお風呂とシャワーがあるんですよ。
 ちなみに我が家では、私が作成したシャンプーとリンスと石鹸を使用しております。兄様と侍従、メイド2人も使用しておりますが、お父様にはあげておりません。あの親ばかは妹にもあげちゃいそうですからね。
 どこから何が漏れるかわからないので、そういう今の世界にはないものは、スティーロッド様の許可がないと、表に出してはいけないことになっているのです。
 ちなみにスティーロッド様も現物は見てますし、我が家に遊びに来たときに使用してますが、持ち帰りはしておりません。流石そういうところは徹底してますね。

「99~」

 うう、思考をそらして現実逃避してますけどこれはきついです。っていうか、やっぱり初回から腹筋100回とか鬼教師ですよね。この後背筋100回ですよね?死ねます。

「100~」
「ぅっぐ…ぐっ……っだぁ!」

 令嬢らしからぬ声が出ましたが、もうこの際どうでもいいです。すでに汗だくで化粧とか全部剥げ落ちてますし、取り繕うとか今更ですよ。
 息苦しい、喉痛いっていうか肺が痛い!

「お嬢様、お水です」
「ぅ…」

 声を出すのもしんどいので、そのままカップを受け取って、ゴクゴクと飲んで深く息を吐き出してやっと、文字通り一息つけました。

「すっごいじゃなーい!初日からクリアする子がいるなんて思わなかったわぁ!」
「そぅ、…すか」

 だったらもっと回数減らせよとか思うんですけど、このスパルタ教師には通じる気がしませんね。
 周囲を見ると皆様マットの上に座ったり、寝そべったりしながらこちらを見ていらっしゃいます。
 すみません、仮面をかぶってるとはいえ今汗だくでひっどい顔をしているので、凝視しないでいただけると嬉しいのですが、無理ですかね?
 レディベル先生が近づいてきて、もう一つ水の入ったカップを渡してくださったので、これも遠慮なく飲み干させていただきます。

「汗だくでしょぉ?」
「はい」
「その汗が美しい歌声に繋がるのよぉ!」

 然様でございますか。

「でも、流石はすでに魔法使いとして開花して、森の中で修行をしていただけあって、素晴らしい根性よ!アタシが求めてたのは貴女みたいな生徒よ!」
「はあ…」
「10分間休憩して次は背筋よ!皆、このランジュミューア嬢を見習いなさいねぇ」

 10分しか休憩、ないんだ…。
 レディベル先生が離れていってマットの上に寝転がって息を整えていると、マリオン様とマドレメル様が近づいていらっしゃいました。

「すごいですわランジュミューア様!私なんて10回しか出来なくてお恥ずかしいです」
「私も家で訓練はしてましたけど、50回ほどしかしてませんでしたので、まだまだだと実感させられてしまいました」
「お2人とも、これは歌唱授業であって、運動系でも武術系授業でもないのですわよ」

 この様子を見れば完全に運動系か武術系の授業の大惨事の後ですけれど、これは間違いなく芸術系の歌唱授業なのですよね。
 起き上がってタオルを受け取って汗を拭きますが、仮面部分が拭けませんね。

「少々お見苦しいかもしれませんが失礼します」

 一応そう断ってから仮面を外して顔の汗をぬぐっていると、私以外のこの部屋にいる人の視線、つまりお付きを含めて20人分の視線が私に集まってますね。
 うーん、この銀の蔦模様はそんなに奇異な者なのでしょうか?
 オンリーヌも流石に見慣れているでしょうに、お風呂の時とか着替えの時とかも、結構見てきますよね。

「きれい」
「ええ、綺麗ですね」

 マリオン様とマドレメル様の呟き声をきっかけに、ほかの皆様も頷いたり同じように綺麗・美しいとおっしゃってくださいます。
 兄様やオンリーヌには何度か言われてましたが、慰めるためのお世辞と思っておりましたので、他人に言われるとなんだか照れてしまいますね。お世辞なのでしょうけど、その、やはり恥ずかしいです。

「あの…、気持ち悪くはありませんか?」
「そんなことはありません!真珠のように白く美しい肌に銀の蔦の模様が、まるで飾り細工のように描かれていて、精巧なビスクドールのようで!」
「マ、マリオン様?」

 私の両手を握りうっとりするマリオン様に、思わず顔を引きつらせてしまいましたが、その後ろではマドレメル様も何度もうなずいていらっしゃいますので、個人的な感性によるものではないようですね。

「そうよぉ!こんな綺麗なものを仮面で隠すなんてもったいないわぁ!決めた!この授業では仮面は禁止よぉ、皆もそれでいいわよねぇ?」
『イエス!マム!』

 軍隊?というか、『イエッサー』じゃないあたり、皆様短時間で理解なさっていらっしゃるのが素晴らしいですね。
 けれども、確かにこのような授業が続けば、汗をぬぐうのに仮面を外すことも多いでしょうし、皆様が嫌でないのならかまいません、でしょうか?
 思わず頬にある模様をやっと離していただいた手で触れながら、首をかしげているとレディベル先生が自信満々にうなずいてくださいました。

「では…」
「お預かりいたします」

 オンリーヌに仮面を渡して、ついでに手袋も外しておきます。武術の授業でももしかしたらこうなるかもしれませんね。
 私って綺麗好きというか、潔癖症ではありませんが汗だくのままで仮面をかぶる趣味はありませんもの。
 それにしてもまだ腹筋がビクビクしている気がします。恐るべし腹筋100回。これで背筋もしたら立ち上がれないんじゃないでしょうか?
 背筋が終わったら壁に背を預けて立つとか言ってましたよね?スパルタ授業ですね、本当に。
 歌唱授業を受けているのは私を入れて10人ですが、皆様体力系という感じではありませんよね。マドレメル様は騎士を目指しているので、ほかの令嬢よりはましなのでしょうが、この筋肉育成授業に皆様ついてこれるのでしょうか?
 1年過ぎるころには皆様細マッチョになっているんでしょうか?

「先生、ちょっとよろしいでしょうか?」
「なぁに?」
「芸術系の授業はほかもこのような感じなのですか?」
「ものによるわぁ。絵画系ならそこまでじゃないけど、石膏を作ったりなら腕力はつける必要があるし、楽器系も肺活量が必要なら、やっぱり腹筋や背筋は必要よねぇ」

 なるほど、音楽系は体育会系なのですね。でもバイオリンならそこまでではないのでしょうか?腕力?大きな楽器なら必要かもしれませんね。

「ちなみに、ピアノの授業だと体力をつけるために走り込みや握力や背筋を鍛える訓練があるわ」
「OH…」

 乙女ゲームの絵画授業ではそんな描写ありませんでしたけど、音楽系の授業ってどこもこのような感じなのでしょうか?
 確かにこの学校出身者の芸術関係者、特に音楽関係者に著名人は多いですけど、このような努力を乗り越えてのことだったのですね。
 歌唱授業なのに、歌を歌えるようになるのはいつの事なんでしょうねぇ。

 その後、背筋100回チャレンジが始まりましたが、腹筋の疲れが回復していなかったので、40回であえなく脱落してしまいました。
 マットの上で死人のようにうつぶせで息を荒くしつつ、残念そうな顔をしているレディベル先生を、死んだ魚のような目で見上げます。ちなみに、40回というのは一番回数が多かったんですよ。100回とか鬼ですよね。

「うんうん、やっぱり無理よねえ。よかったわぁ、初日から全部クリアされちゃったらどうしようかと思ってたのよぉ」

 クリアできないこと前提ですか。まあそうでしょうけどね。
 もう立ち上がるどころか起き上がることもできないんですけど、このあと立つ訓練があるんですよね?
 無理です、このまま寝てたいです。
 せめて気分をリフレッシュするレモン系のものが入ったお水を飲んで疲れを取ってからでないと、動きたくないです。

「オンリーヌ、レモン水を所望しますわ」
「かしこまりました」

 そう言ってどこかに行ってしまったオンリーヌを目で追って、寝そべったまま手を上げる。

「なぁに、ランジュミューア嬢」
「全員に水分補給ともう少しの休憩を所望します」
「いいわよぉ。レモン水というのがなんなのかはアタシも興味があるものぉ」

 この世界ではお酒はありますけど、水に何かを入れて飲むというのはありませんからね。
 寝そべったままでいるのも令嬢としてどうかと思いますので、ある程度息が整ったところで何とか起き上がって、所謂お嬢様座りでマットの上でオンリーヌを待っていると、カートに4つの水差しと幾つものカップを乗せて戻ってまいりました。言わなくとも全員分と毒見用のカップを用意するのは、流石オンリーヌですわね。

「お嬢様、どうぞ」
「ありがとう」

 カップを受け取ってゴクゴクと飲んでお代わりをすれば、ほかの皆様も水差しから水を入れたコップの中を飲んでいきます。

「わっレモンの香り?」
「さわやかな味」

 あちらこちらからそんな声が上がり、レディベル先生に至ってはとても気に入ったようで、水差しのの中を覗いてレモンを8つ切りにしたものが一つ入っているのを見て頷いています。
 ちなみに、八つ切りにしたものが一つ入ってますが、レモン果汁を絞って入れてもいるのですよ。

「これはいいわね、すーっとするし」
「森に住んでいるときに考案したものなのです」
「なるほど」

 納得したようにうなずいて、もう一杯飲んだレディベル先生がコップをカートに戻したところで、それぞれのお付きの人もカップを戻していく。
 充分な水分補給と、レモンのクエン酸による疲労回復効果という感じで、皆さま多少元気が戻ったようです。
 そんなすぐに効果が出るものではないですけど、アロマテラピーというのもありますからね。リフレッシュ効果ですよ。

「さて皆、次は立つ訓練よ。ただ立つんじゃないの、壁に背中をつけるけど、寄りかかってはダメよ。美しく真っすぐ、上から糸で吊るされたように立つのよ」

 難しいことをおっしゃいますね。壁を背にするのはよろけても倒れないようにとの配慮ですね。いずれは壁から離れて立たされる未来が見えます。
 けれど、確かに美しく立つには腹筋と背筋が必要ですよね。でも脚力も必要ですけど、美しく立つという部分で脚力を鍛えるのでしょうね。つまり、美しく歌うには背筋腹筋、そして踏ん張る脚力が必要だということなのですね。
 本当に体育会系ですわ。
 壁を背に、けれども寄りかからないように立ったところで、レディベル先生が一人一人の頭に本を乗せていきます。
 揺らして落とさないようにということなのでしょうが、授業の残り10分間この姿勢を維持するのは、結構辛いものがありますね。
 ここはやはり現実逃避をして気を紛らわせるに限ります。
 そうですね、何を考えましょうか…。
 レディベル先生、本名ベルナルダン=コロネル=ブランヴィル様。伯爵家の4男として生まれましたが、歌の才能に恵まれており、幼い頃より神童ともいわれていたお方。
 王立楽団所属の歌手でもあり、その歌声は誰もを魅了すると有名です。美しい顔、鍛えられているのに均整の取れた彫刻のような体つき、ほほ笑まれれば老女も貞淑な淑女も頬を染める、ともいわれていますわね。
 もっとも、まさかのオネエ系とは思いませんでした。女装系でないだけいいのかもしれませんけれども、彼の恋愛対象は男性でしょうか?女性でしょうか?
 我が国は一応同性婚は認められておりませんので、同性愛者であった場合は苦難の道かもしれませんね。
 女装と言えば、我が国は女装には意外と寛容な国です。というか、男装にも寛容です。神への奉納の一種に異なる性の衣装を身に着け舞を舞う、というものがあることが関係しています。
 これは前世の日本でもありましたので、私も特に難なく受け入れてます。
 なので、もしレディベル先生の普段着が女装であっても、「あらまあ」で済ませる自信がありますので、もしそのよう時に遭遇しても大丈夫です。
 そういえば、ベルナルダン=コロネル=ブランヴィル様は歌手でもありますが、舞台役者つまりオペレッタを行うこともあると聞きます。もしかしたらその時は女装なさっているのかもしれませんね。
 なんといってもテノールからメゾソプラノまで発声することのできる奇跡の歌手でいらっしゃいますもの。
 そう考えると、なぜこの学校で教師をなさっているのでしょうか?趣味でしょうか?副業でしょうか?確かに歌唱の授業は週に一度しかありませんので、もしかしたら新人発掘を兼ねているのかもしれませんね。
 あら、私は新人発掘されても魔法使いなので歌手にはなれませんし、あまり関係がないかもしれません。
 話しは戻しますが、この城塞国家である我が国はとても閉ざされた国家ですが、完全に閉ざされているわけではありませんので、他国の芸術の発展具合も冒険者や外交官、商人経由で入ってまいります。
 我が国は決して芸術系は未発展の国というわけではありませんが、楽器などを見るに他国に劣っていると思える面は多々あります。
 ピアノに関しましても、この国のものはフォルテピアノと呼ばれるもので、前世で言う、ピアノの原型となったものと言われているものです。ここにある物は3オクターブのものですね。
 他国ではグランドアクションのものやもっと幅広い音域を出すことのできる物が開発されているそうです。
 つまり現時点ではピアノの音域よりも人間の発声音域のほうが幅広いということです。
 ファンタジーなので基本ルネサンス期なのですが、いろんなところがご都合主義です。魔法がある時点でご都合主義ですよね。まあ、乙女ゲームでは死に要素でしたけど。
 さてレディベル先生ですが、音域はテノールからメゾソプラノと言われていますが、その気になればソプラノまで出せるとも聞きますので、神童と呼ばれていたのもわかります。昔はそれこそ美しいソプラノ歌手だったそうですよ、声変わりする前はですけど。
 そういえば、昔は声変わりを阻止するために、去勢なんて恐ろしいこともした歴史がありますよね。もしかしてレディベル先生もそうなのでしょうか?
 いえ、声変わりしてるので違うと思っておきましょう。でもオネエなのは、もしかしてその名残を受けてとか影響を受けているのかもしれません。女っぽくしておけば声変わりしない、とか信じられているとか…あほくさいですね。
 もっとも、ベルナルダン=コロネル=ブランヴィル様は声変わりをしても歌手として成功しているので、何の問題もありませんね。

 ところで、そろそろ授業終了の時間にはならないのでしょうか?現実逃避もそろそろ飽きてきてしまいましたよ?

「はい、ここまで。落とさなかったのはランジュミューア嬢だけのようね」

 あら?その声に頭の本を取りながら左右を見ると、確かに皆さま本を落としてしまっているようですね。
 私のように現実逃避をすればよろしかったのに、きっと真面目に授業を受けていらっしゃったんでしょうね。私も見習わなければいけませんね。
 それにしても、とにかく私は次は授業がありませんので、学校のバスエリアにいってシャワーを浴びたいところです。あ、でも髪も洗いたいですし湯船の方にしましょうか?この学校男女別に30スペースですが個別のお風呂があるんです。広い温泉じゃないところが残念ですけど、家族や使用人以外に肌を見せるのはあまりいいことではありませんので、同性と言えども見せないようにするのは仕方がありませんね。
 シャワーは男女各50スペースあります。運動系や武術系の授業もありますからね。

「ランジュミューア様、バスエリアまでご一緒いたしませんか?」
「ええ喜んで」

 マリオン様とマドレメル様と連れ添ってバスエリアに向かいます。お2人ともこの後は授業はないそうですで、同じように髪も洗うそうです。
 それにしても、この学校は私服、つまり女生徒はドレスが普通なのですが、今の私たちは騎士や兵士の訓練用のような服、ジャージの上にロングスカートをはいているような感じを思い浮かべてくださればいいのですが、ちょっと変な恰好ですよね。運動系や武術系の授業では当たり前の格好なのですが、乙女ゲームをしている時から思ってますが、ぶっちゃけダサいですよね。ジャージでいいじゃないですか。なんでロングスカートをはくんですかね?
 まあ、足のラインを見せるのはちょっとはしたない、という思想からなのは理解できますが、前世の記憶が戻ってからというもの、この格好がどう考えてもダサいです。あと動きにくいですよ、スカート!

「それにしてもランジュミューア様は素晴らしいですわね。私はほとんど一番最初に脱落してしまいました」
「私も感心してしまいます。騎士を目指すものとしてもっと精進しなければと思い知らされます」
「そんな、たまたまですわ」
「流石は白タイということなのかもしれませんわね。けれども、途中で随分お辛そうに……あら」
「あら」

 マリオン様が言葉と途中で切って前方を見たので、私もその方向を見ると、エジッヴォア先生と何かを話しているアレクシアの姿がありました。
 あちらは絵画の授業だったようですね。イベントか何かでしょうか?うーん、何かあった気もしますけどあまり覚えていないのですよね。
 確か、最初の授業で出る課題のモチーフについてエジッヴォア先生に相談する、という選択肢があった気がしますので、そのイベントかもしれませんね。
 そうそう、私の仮面ですが今はちゃんとつけてますよ。いつ装着したのかと言われれば、授業が終わって顔の汗を拭き終わった後です。
 廊下を歩くので仕方がありませんね。お風呂に入って髪を洗ったらお化粧もしないといけないですし、こういうのが貴族令嬢の面倒なところです。
 というか、授業に余裕を持たせるように学校側が調整するのは、こういう理由もあるのでしょうね。
 高位貴族の子女なんて、基本的なことは家で家庭教師に習っているものですし、完全に社交と趣味の領域ですよね。
 社交という面では私はちょっと…かなり…大分不利なのですけど、魔法使いになってまた森に家でも建てて引きこもればいいですし、もしくは冒険者的な感じで旅をしてもいいですからね。
 そう考えると、体力づくりをする歌唱授業はいい選択だったかもしれません。

「先生、私の課題のモチーフなんですが、時計塔にしようか、神殿のステンドグラスにするか悩んでしまっているのです。先生はどちらがいいと思いますか?」

 そうそうこんな感じの選択肢でしたね。どちらも好感度が上がりますが、時計塔を選んだほうが好感度がより上がるんでしたっけ?

「好きな方を選んでいいですよ。描きたいものを描きなさい」
「では、時計塔にします!」
「そうですか」

 にっこりとほほ笑むエジッヴォア先生に、アレクシアはぽーっと頬を赤らめています。まあ、攻略対象なだけあってイケメンですからね。
 年上好きのユーザーに大人気のキャラクターでしたっけ?確かスランプに陥っているところをヒロインの助言で救われる、いえヒロインがモデルになる?あら?ヒロインが気合を入れるんでしたっけ?
 まあともあれ、私には関係ない人なのでここは素知らぬ顔で通り抜けましょう。
 バスルームに行くには、あの二人の横を通る必要がありますけど、狭い廊下ではないので端によれば問題ありません。

「あっお姉様!」

 なんで声をかけてくるんですかね?気が付かないふりをするという芸当は出来ないんでしょうか?わざとですか?

「あらアレクシア、ごきげんよう。そちらは?」
「申し遅れましたエジッヴォア=ニルス=ボーヅビートと申します。絵画授業の教師をしております」
「ランジュミューア=リル=ユルシュル=デルジアンでございます」
「マリオン=ゼガラ=フィロベレニスと申します」
「マドレメル=アング=ランジュレですわ」

 挨拶も終わったのでこれで失礼します、と足を進めようとしたところで、アレクシアがまた声をかけてきます。

「お姉様、そのお姿から見るに運動系か武芸系の授業だったんですか?私、お姉様も絵画授業を受けると聞いていましたのに、いらっしゃらなくてびっくりしました」
「いえ、私は…」
「この時間はすべて芸術系授業になってますが、授業によっては体力づくりをしなければならない授業もあるので、そのように動きやすい格好をしているのでそう。バスエリアに向かう途中でしょうし、お引止めしてはいけませんよ、デルジアン嬢」

 いい事言いますね。流石大人です。

「お姉様も同じ家名ですので、私のことはアレクシアと呼んでください」
「……わかりましたアレクシア嬢。では貴女のことはランジュミューア嬢と呼んでもよろしいでしょうか?」
「かまいませんわ。では私たちはこれで失礼いたします」
「お姉様!」
「……なんでしょう?」
「なんでウソをついてまで他の授業を取ったんですか?私がそんなに嫌いなんですか?」

 何を大声で言いやがってくれるんですかねこの子。嘘をついた覚えもないですし、嫌ってもいませんよ。全力で逃げているだけです。

「何か誤解をしているようですが、今すぐに選択するとは言っていませんでしたでしょう。3年間もあるのですからね。それに、アレクシアを嫌うなんてあるはずがないじゃないですか、貴女は私のかわいい妹なんですから」

 全力で関わるのを避けてますけどね。まあ、かわいい(容姿の)妹であることに間違いはありませんもの、私は嘘はついておりませんわよね。
 何かショックを受けたようによろけたついでにエジッヴォア先生によりかかってますけど、アレクシアには見えないかもしれませんが、エジッヴォア先生の顔、迷惑そうですよ。
 スランプで他人に構ってる暇なんかないでしょうし、今すぐにアトリエに引きこもって絵を描きたいでしょうからねえ。
 攻略するなら引き際も大事だってことを、理解すべきですよアレクシア。まあ、助言なんてしませんけど。

「では、今度こそ失礼します。参りましょうか、お2人とも」
「「ええ」」

 ごきげんよう、と3人で言ってその場からそそくさと撤退します。いやあ、アレクシアも転生者の可能性が出てきてますよねえ。なんとか私を悪役にしようとしてるのが言葉の端々からうかがえますよ。
 でも、昔からお母様がなくなった私を馬鹿にしたようなところもありましたし、使用人の前でわざと私に悪くされたように演じていたこともありましたから、まだ断定できませんね。

「お2人はあまり、その…仲がよろしくないのですか?」
「マリオン様、あまりそういった立ち入ったことを聞くのは…」
「いいのですわ。お2人もご存知でしょうが異母姉妹ですし、私のお母様はもうなくなっているということもあり、少し行き違いがあるのは事実ですもの。姉として寂しく思うことも多いのですが、こればかりは仕方がありませんわね」

 そう言って苦笑を浮かべれば、お2人は同情したような顔でお気の毒にとか、いつか理解し合えますとかいってくださいます。
 うん、やっぱりいい子達ですよね。

「それにしても、歌唱の授業があのように体力づくりとは、想像もつきませんでした。他の楽器系の授業も似たようなものとおっしゃってましたし、音楽系というのは厳しい世界なのですね」
「騎士を目指すものとしては良い訓練になりそうですが、もし運動系や武術系の授業がこれ以上の体づくりをすると思うと、今から心が折れてしまいそうです」
「私も驚きましたが、実際に歌の練習になっても、ほら…、喉から血を出すとか喉をつぶすどもおっしゃってましたでしょう?体力づくりが終わっても厳しい世界なのかもしれませんわ」
「確かに…レディベル先生は有名な歌手でいらっしゃいますので、こういった訓練を乗り越えているのでしょうね」
「体づくりに関してだけは、兵士に負けていないのかもしれませんね。あの服の下は筋肉なのかもしれません」
「ええ、きっとそうですわね。武器や武術こそ扱わないのでしょうが、きっと劣らぬものなのかもしれませんわね」

 話しながらバスエリアに到着すると、それぞれ分かれて個室に入ります。
 浴槽の在る個室は、前世で言うユニットバスではなく、猫足の浴槽があるタイプです。温泉ではありませんが、蛇口をひねればお湯が出るご都合主義の便利仕様です。
 オンリーヌは浴槽に入りませんが、髪を洗ったり体を洗うのに濡れてしまうので、使用人用の服、薄手の作務衣のようなものを着用します。私も服を全部脱いで裸になると、オンリーヌに軽く汗を流してもらいお湯のたまった浴槽に入ります。
 はあ、この瞬間がたまりませんね。思わず「ふへ~」と情けない声が出てしまいそうになります。

「ふんふーん」

 魔法を使って薔薇の花びらの身を召喚し、浴槽に浮かべて優雅なバスタイムの開始です。薔薇の香りがたまりませんし美容効果もあるんですよ。
 私がそんな風にまったりしていると、頭の方ではオンリーヌが丁寧に髪を洗ってくれます、首の後ろにタオルを置いてもらって浴槽の縁に首を乗っけてるので美容室的な感じです。
 誰かに頭を洗ってもらうのって気持ちがいいですよね。今世に生まれてから自分で頭を洗ったこととかないですよ。なんせ侯爵令嬢ですから!
 その気になれば洗えますけど、今の私ってピンクブロンドの猫っ毛なので、洗うのも乾かすのも結うのも大変なんですよ。
 まあ、ルネサンス期の世界観なので、未婚の女性は髪を結い上げないのですけどね、飾りはつけますよ。
 浴室に広がった薔薇の香りと、私が作った薔薇の精油を使ったシャンプーとリンスの香りが最高ですね。
 石鹸も薔薇の香りです。一応薔薇しか出せないということになってますからね。
 湯上りは絶対薔薇の香りしますけど、薔薇だったら言い訳が出来ますので、そうしてるんですよ。それに薔薇は好きです。
 家ではハーブなんかのアロマを使ったりもしますけど、召喚した薔薇を湯船に浮かべた、ぐらいは言ってもいいとお許しを頂いております。

「はあ、気分がいいですわ」
「それは何よりでございます」

 泡を洗い流し、リンスを髪に付けながらも、ちゃんと応えてくれるオンリーヌは本当にいいメイドですよね。
 オンリーヌ以外が髪を洗うと、乾かした後にごわごわになったりもしましたし、髪油をべったりつけられたりと大変なんです。
 いっそ髪を切ってしまおうかと思いましたが、兄様に泣かれ、オンリーヌ達に泣かれ、お父様に号泣されて諦めました。女性の髪は伸ばすもの、という風潮ですものね。遠くの国では短くする女性もそれなりにいるという噂も聞きますし、冒険者になったりすると女性でも髪を短くしたりします。
 お湯で髪を洗い流されて、軽く水分を拭きとられてタオルで巻かれてまとめ上げられたところで、浴槽から上がります。
 体についた花びらをお湯で流してもらい、今度は立ったまま体を洗ってもらいます。家ですとプールサイドにあるような椅子に座って洗ってもらうのですが、ここにはないので仕方がありませんね。
 この時代はごしごしと布でこするのが普通ですが、私は石鹸を作り、アロエを乾燥させてスポンジを作成してそれに石鹸の泡をつけて洗ってもらいます。
 この時乾燥させておいたアロエには十分に水分を吸わせて柔らかくしておくことがポイントですよ。
 あ!ついでに言うと女性の永遠の課題の脱毛ですが、ここはファンタジーなので、脱毛クリームはあります。しかも一回使えば一週間は毛が生えてこないというご都合主義!なんなんだよ!人体の神秘舐めてんのか!とか知った時は叫びそうになりましたが、今は愛用しております。
 体を洗い終えたところで、浴槽や浴室に散っている薔薇の花びらを消滅させて、体の泡を流してもらいタオルで体を拭かれます。
 そのまま着替えスペースに移動して、オンリーヌが体を拭いて服を着替える間、水分補給をしつつまったり待っていると、オンリーヌが着替えを準備してくれるのでそれを着ます。コルセットに関しては、装着という感じです。鉄製ですもん。
 ドレスを着用し終えて、化粧を軽くしたところで仮面をつけて、ヘッドドレスを装着して髪に飾りをつけ、完了です。
 バスエリアを出たところで、2限目の授業終了の鐘が丁度鳴りました。長湯してしまったようですね。
 マリオン様とマドレメル様のお姿は見えませんので、この後はどうしましょうか?今日はあとは古代学の授業が午後にあるぐらいですね。昼食の時間を考えると研究するには少し時間が足りない気もしますし、お散歩でもしましょうか。
 確か、この学校の神殿のステンドグラスは素晴らしいと有名ですもの、見に行くのもいいかもしれません。
 アレクシアは時計塔を描くと言っていましたので、教会の方にはいかないでしょう、反対方向ですものね。それに神殿の方には購買があったはずですので、今日はそこでサンドイッチでも購入して頂くことにいたしましょうか。
 神殿に向かって歩いていく途中は、休憩時間ということもあり人が多かったのですが、それなりに注目を浴びてしまいました。ちょっと恥ずかしかったですが、これは慣れるしかありませんね。
 まあ、授業が始まったら人も少なくなりましたので気にならなくなりました。
 20分ほど歩くと神殿が見えます。ゴシック風建築の古い教会ですが、なぜかステンドグラスが使われてます。もう本当にファンタジーですよね。
 普段の日中は自由に入っていいことになっているので、そのまま扉を開けて入れば、礼拝堂というのにふさわしい感じの場所ですね。ステンドグラスには神の姿ではなく、天秤に短剣と杯がそれぞれ置かれています。その周囲には羽や花が舞っている。それが中央のステンドグラスで、右のステンドグラスにはこの国の初代聖人であり王の姿が描かれ、左のステンドグラスには初代聖女であり王妃の姿が描かれております。

「荘厳ですわ」

 王城の神殿にも同じようなステンドグラスがありましたが、この神殿の雰囲気の相乗効果で、これはこれで荘厳な雰囲気がすばらしいですね。
 隅の方にピアノが置かれているのは、聖歌隊の伴奏用でしょう。聖歌隊は歌唱授業を修了した人の中から希望者を募り結成されるもので、それは美しい歌声と言われていますので、いつかぜひ聞いてみたいものですね。
 ふたを開けて鍵盤を押せばちゃんと音が出ます。演奏は出来ませんけど、音を出すぐらいはできますよ。
 誰もいませんし、カラオケではありませんが歌でも歌いましょうか?せっかくですしね。今は気分がいいんです。

「月は見ている 失ったものを探し 泣き声を上げる私を
 月は見ている 手から零れた何かに 泣き声を上げる私を
 あなたを探し彷徨う私を
 あなたを求め彷徨う私を
 いつまでも探し求め彷徨い迷う私を 月は見ている
 零れた雫は杯に注がれ 貫いた剣は雫を零す
 陽の昇らぬ永遠の夜を 失いながら零しながら
 泣き声を上げて彷徨う私を 月はいつまでも見ている

 剣は私の心臓 杯は私の心臓
 どちらもなくてはいけないのに見つからない

 いつまでと尋ねた私に 月はすぐそこに在ると答える
 どこまでと尋ねた私に 月はすぐそこに在ると答える
 近くにある何かを探し彷徨う私に
 近くにある何かを求め彷徨う私に
 どこまでも探し求め彷徨い迷う私に 月は答える
 剣はもう雫を零さず 杯にもう雫は注がれない
 陽の昇らぬ永遠の夜を 失うことすらできずに
 泣き声を上げて彷徨う私に 月はすぐそこに在ると答える」

 アカペラで歌うのは少し寂しいけど、歌い終えてほっと息を吐き出す。
 少し悲しい歌だけれど、前世で好きだった歌。自分の半身を求めて彷徨う、二人の主人公を題材にしたアニメの主題歌。
 もっと長かったけど覚えてるのはこの部分だけ。もしかしたら、後半の歌詞ではちゃんと出会えたのかもしれないし、陽が昇ったのかもしれない。
 もう忘れちゃいましたね。前世兄なら覚えてるでしょうか?でもアニメは見ない人だったし知らないかもしれませんね。
 そういえば、この世界を舞台にした乙女ゲームも、半身を探すというのが副題にありましたっけ。運命の赤い糸の相手。
 まあ、聖女になれば赤い糸も何もないんですけど、乙女チックですが、そう言うのって素敵だって思いますよ。
 本当に、私が悪役令嬢役じゃなかったら楽しんで観覧してたのに、悪役令嬢役のせいで全力で逃げなくちゃいけないじゃないですか。

「本当に、神様ってば意地悪ですね」

 ステンドグラスの天秤を見ながらそう呟いて、オンリーヌを連れて神殿を出た私は知りませんでした。歌ってる姿を、エジッヴォア先生に見られていたこと。
 気が付いてたら全力で逃げだしてましたよ。

「全力で逃げて何が悪い!」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「恋愛」の人気作品

コメント

コメントを書く