わかりました、結婚しましょう!(原題:橘部長を観察したい!)

ゆきづき花

終話 橘常務を観察したい!_2


 彼女が言うには、総務部の社員さん発で、今年の新入社員に橘常務の妻がいるということがすでに一部に広まっているそう。名前が「桜」だということも。
 社会保険を切り替えたし、これまでと違って隠さずに手続きをすすめてるから、人事部や総務課福利係の方以外にも分かってしまったんだろうなと思った。
私が黙っていると、吉岡がぷるぷる震えていた。

「嘘でしょ? なんで、あなたみたいな生意気な女と? 女優との方がまだマシだったわ」
「生意気なのは吉岡さんも一緒じゃん。どうして他人に向かって上から目線なの?」
「別に上からじゃないわ。あなた、縁故採用? それで人を馬鹿にしたの?」
「や、やめようよ、二人とも。林さーん!」

 周囲から好奇の視線も感じるし、早紀ちゃんが林さんを呼んでたから、もう逃げ出そうかなと思っていたら、口を開きかけた吉岡の動きが固まった。

「彼女は公平な選考で採用された。縁故じゃない。それは資料を見ればわかる」

 そう言って私の視界に入ってきたのは杉岡さんで、吉岡と私の間に割り込んで立っているから(え、おっさん、カッコイイ!)と思っていた。
 杉岡さんがいる、ということは――

「その名札を返してもらえるかな?」

 ――宮燈さんが私の肩を左手で抱いて、右手を伸ばして、背後からそう言った。
 その瞬間、私は初めて会った日の事を思い出していた。

 離れると絡まった髪が引っ張られて痛いから、エレベーターから人事部のフロアまでの廊下を、くっついて歩いていた時の事を。
 知らない人だったのに、嫌じゃなかった。肩に触れてる手が優しかった。
 まだ一年前なのに随分と昔な気がする。吉岡が目の前にいるから、内定式の夜も思い出してしまって、何だか恥ずかしい。

 吉岡が少し震える手で名札を返してくれる。受け取った宮燈さんが「ありがとう」と言うと、吉岡がガクガク首を縦に振っていた。それを見て私は(そういえば、笑わなくても人とコミュニケーションって出来るんだ、変なの~と思ってたけど、案外出来るもんなんだね)と考えていた。

「……橘常務、ありがとうございます」

 私は笑って見上げたけど、宮燈さんは無表情だった。当たり前のように、宮燈さんがその名札を私の左胸につけてくれたから、さすがにちょっとドキドキした。杉岡さんが睨んでるのが視界の端に見えている。やべっ。

「同期とは協力しあって、切磋琢磨して欲しい」

 それだけ言い残して、宮燈さんは無表情のまま壇上へと歩いて行った。杉岡さんが私の前に仁王立ちして、小声で「家に帰っていちゃつく分には誰も何も言わないが、社内には他人の目が常にあることを忘れるなよ、小娘」と言って、宮燈さんを追いかけていた。
 確かに距離感がおかしかったかもしれない。でも自重してないのは宮燈さんの方だから、自分の上司に言えばいいのに。何か私のせいにされてるみたいだから、あとで文句を言っておこう。

 さっき宮燈さんに触れられた胸に手をやって、動悸がおさまるのを待ってたら、早紀ちゃんが言った。

「…………え、桜ちゃんの結婚相手って本当に橘常務なの?」
「うん」

 私が答えたら早紀ちゃんは絶句して、吉岡は「嘘でしょ、嘘よ……」と呟いていた。
 明日から始まる約二ヶ月間の初期研修も色々言われるんだろうなぁとちょっと気が重くなったけど、想定の範囲内だったので受け流すことにした。受け流す!
 配属先は初期研修の様子も見て決めるそうだから、頑張らなくては!


 入社式で常務兼営業本部長として橘社長の隣に座ってる宮燈さんは、やっぱり無表情だった。
 でも、私は知っている。あの人は強くてとても優しい。
 私はこれからも、宮燈さんを観察する。
 彼の隣で妻として。





おしまい

めでたしめでたし

「わかりました、結婚しましょう!(原題:橘部長を観察したい!)」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「恋愛」の人気作品

コメント

コメントを書く