わかりました、結婚しましょう!(原題:橘部長を観察したい!)

ゆきづき花

80. 橘部長と春の始まり_1


【春】


 二月、私はもうすぐ引き払うアパートで、これでもかとバックパックにトイレットペーパーを詰め込んでいた。結婚式が終わったら、私は念願のインド一人旅に出かける。二週間で北インドの主要都市を巡るつもりなので、結構タイトなスケジュール。まず、香港経由でニューデリーへ行き、空路でコルカタへ。それから列車に乗って陸路でニューデリーへ戻る。

 相変わらず消音でつけっぱなしにしているテレビは夕方のニュースを流していたが、「俳優 山崎雄輔が死去」のテロップが出たから思わず手が止まってしまった。
 ステージIVのがんを患って、十二月には心筋梗塞を併発し、ずっと入院していたことを初めて知った。森羅さんが「父はもうほとんど口がきけない」と言っていたが、本当にそうだったんだろう。お父さんが大好きな娘から見たら、明らかに死期が近づいている父親に何かしてあげたくなったのも少しはわかる気がした。それと宮燈さんの気持ちを無視した行動は全く別問題だけれど。

 映画のワンシーンなのか、いまテレビ画面に映っている斜に構えたような若い頃の写真を見ると、確かに宮燈さんにどことなく似ている。勿論私は、この人に直接会ったことも話したこともないけれど、テレビで見たこともあるし、家族を知っている。だから他人の私でさえ胸が痛い。


 私は「会いたくなったから東京に行きますね!品川駅に九時過ぎに着きまーす!」と連絡して、返事も待たずに新幹線に飛び乗った。

 新幹線の中でぼーっと車窓を見ながら、長崎から帰ってきた私を、お母様が訪ねて来てくれたことを思い出していた。「ごめんなさいね」と謝られたけど、男女の事なんて当事者以外には何も分からないし、秘密保持契約の事は聞いていたから、私は黙って頷くことしか出来なかった。
 長崎でのお土産話や結婚式準備の話をして、何となく私はお母様に聞いてみた。

「お義母さん、結婚式ってどうでした? 楽しかったですか?」
「あーっちゅう間で覚えてへんの! うちと結婚した時、義仁さんは府議会議員やったから、政治家やらなんやらの人もぎょうさんいて、スピーチは長いし、肩は凝るし、にこにこしてたら終わっとったわぁ!」
「ひええ、それは大変そうです! 身内だけの式・披露宴で良かったです。私、絶対粗相する……」
 
 そういう重圧も受け止めて、ふわふわ笑っているお母様は、やはり物の怪なのではと思った。帰り際にお母様が言った。

「いま、大事にしてもろうてるから、周りに何を言われても平気なんよ」

 確かに夫婦仲は良さそうで、宮燈さんも、血の繋がりは無くても社長の事が好きなんだろうなあというのは伝わってくる。


 実父の事を思い出すことさえ、社長に悪いと思ってそうだから、きっとまた宮燈さんは感情が動くのを我慢するんだろう。新幹線が小田原を過ぎる頃に宮燈さんから『待っている』と一言だけのメッセージが届いた。いきなり行くのは迷惑だったかもしれないと心配していたから、とりあえずほっとした。
 品川駅で新幹線を降りたら、何故かホームに夫がいた。

「え?!『待っている』ってホームで待ってるって事だったんですか?!?」

 宮燈さんは無言のまま、いきなり私を抱き締めた。もう人もまばらになっているとはいえ、公衆の面前でこんな事されるのは恥ずかしいから腕の中でもがいたけど、何故か宮燈さんはしばらく私を放さなかった。私は抵抗をやめて(ああ、来てよかったな)と思っていた。


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