わかりました、結婚しましょう!(原題:橘部長を観察したい!)

ゆきづき花

66. 橘部長の秘密保持契約_2


「早かったですね。タクシー使ったんですか? 路面電車だと駅から三十分くらいかかりますよね。でも私、あの路面電車好きです。ガタンゴトンって音が……」
「……桜」

 宮燈さんが相変わらずの無表情で私を見下ろしている。悪い事して立たされてる生徒みたいだなと思った。
 店員さんが、近づいていいのかどうしようかと躊躇っているのが視界の端に見えたので、宮燈さんに「座ってください」とお願いした。

 コートを脱いで席についても、やっぱり宮燈さんは黙っていたので、私が代わりにコーヒーを注文した。いつものように、お砂糖無しでミルクをつけてもらう。私はブラックなのに、宮燈さんは必ずミルクを入れる。
 それが私はとても好き。
 私は宮燈さんがとても好き。
 だから、これから、何を言われるのか、とても怖い。

 知らないままでいた方がいいのか、聞いてしまったら取り返せないことなのかと、想像すると怖い。
 怖くて宮燈さんを直視できないから、手を握り締めて外を見ていた。窓際の席だから、長崎港が見える。

 グラバー園の中を独りで散策しながら私はずっと考えていた。私は心が狭いから、もし浮気が本当だったら絶対に許さない。仮に許しても根に持ってしまって、うまくいかなくなると思う。だからもし、杉岡さんの言う「過ち」があったとしたら、私は別れようと思う。それだけは心に決めていた。

「話せる範囲で君に伝えたいことがある」

 コーヒーが運ばれて、しばらくしてから宮燈さんが言った。もう目を反らせないから、真正面から夫の顔を見据えた。
 ヤバい、顔がいい。
 宮燈さんがあまりにも美しくて、何でも許してしまいそうになった。危なーい。私は冷静になるよう努めて、小さな声で言った。

「何でしょう?」
「私が好きなのは君だけだ」

 宮燈さんが、今まで見たことないくらい真剣な表情をしていた。

「なぜ、あの人とお食事に? どこで知り合ったんですか?」
「話があると言われたからだ。何度も断ったが執拗で。新聞報道では何回も食事に行ったように書かれていたが、あれは記者が適当に書いたのだろう。行ったのは二回だけ」

「二回……だけ、だと? 二回も、だろうが」

 おっと心の声が駄々漏れしてしまった。宮燈さんが黙ってしまったので「続けてください」と促した。

「どこで知り合ったかは言えない」
「秘密保持契約は誰と結んだのですか?」
「それも、言えない」

 私に堪忍袋があるとしたら、もう緖はぶっちぶちに千切れてると思う。それでも場所を考えて声を荒げなかった私は、自分で自分を褒めてやりたい。

「隠し事ばっかりで、それで信用しろと?」
「……君の、言う通りだ。杉岡さんにも言われた『言葉で行動は覆せない』と。その通りだと思う。言葉を連ねても、行動が伴わなければ信頼関係は崩れる」

「だから、こうして来てくれたんですか?」
「君が私から離れていくのが耐えられなかった」

 昨日、エントランスで私を呼んだ宮燈さんの声が甦る。いま、目の前の宮燈さんも、無表情だけど必死で叫んでるみたいだった。

「他の全てを捨てていいから、君に側にいて欲しい」
「私もですよ。私は元々持ってませんけどね。他に何にもいらないけど、宮燈さんを失うのだけはいやです」

 私がそう言うと、宮燈さんが一瞬笑った気がした。
 おかしい。夫婦喧嘩をしてたはずなのに、告白しあってる。
 宮燈さんが無表情のまま手を伸ばしてきて、私の頬に触れる。冷たかった。クリスマスイブの日に寒い中、私に会うために待っていてくれたのを思い出した。

 もしかして、私はとても愛されているのでは?
 こんなに私を愛してくれるのは、両親以外では宮燈さんだけなのでは?

 宮燈さんの手に自分の手を重ねて、私は最後の質問をした。

「結婚式を延期したいのは何故ですか?」

 私の質問に、宮燈さんが表情を変えた。
 消したのではなく変えた。答えるのを躊躇っている。まるで怯えた小さな子供みたいだと思った。


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