冷徹御曹司の無駄に甘すぎる豹変愛

あいすらて

5


朝。
ベッドの上でぱちりと目を開いた瞬間、怒涛のように昨日の出来事が頭の中に蘇った。
(烏丸さん……)
烏丸さんにディナーをご馳走してもらえた。
たわいのない話に付き合ってくれた。
私の話で笑ってくれた。

波が押し寄せてきたみたいに、頭の中が烏丸さんでいっぱいになった。

(ああっもうっ……信じられないっ)

枕を抱いてケットの中で足をバタつかせる。
信じられないくらい……楽しかった。魔王なのに。ロボットなのに。

最初はかなり緊張した。
出会いは最悪だったから……また落とし穴があるんじゃないかと警戒した。
でも、そのうちシャンパンがまわって……気づけばケラケラ笑ってた。
最後まで、烏丸さんは王子のままでいてくれた。
魔王に戻らずいてくれた。

それに烏丸さんは……。

私にありがとうって言ってくれた。

感謝されたくて、タツキさんを助けたわけじゃない。
でも誰かのために行ったことが、認められるのは嬉しかった。
私の両親は教員で、真面目でちょっとだけ厳しくて……あまり褒めてくれなかった。いい成績をとっても、ピアノが上達しても、学級委員に選ばれても「まだ足りない」と言われ続けた。
無職になってしまった時、母は電話の向こう側でため息をつきながらこう言った。
「……ピアノなんかやらさんかったら良かった」
チッと舌打ちが続き、電話が切れた。
もちろん、ピアノ講師を選択したのは私で、こうなったのは自己責任で……励ましてもらえるなんて期待してはいなかったけど。
とても……悲しい気分になってしまった。

心から笑えたのは久しぶりだ。

烏丸さんの笑顔はとても綺麗で、笑うと白い歯がキラリと光り、その度に心臓がドキドキした。

ワーカホリックな烏丸さんが、私だけのために時間を費やす。
それがそれほど贅沢なことか、バカな私にだってわかる。

ありがたいな。

烏丸さんのためにお仕事頑張らなきゃ。
そう思うとワクワクして……。
私はベッドから飛び起きた。



研修室で私は昨日と同じように、長椅子に座っていた。
水上さんはプロジェクターを設置していた。

(水上さんって……読めないわ……)

今のところ、水上さんのアドバイスはズレまくってる。
烏丸さんはタツキさんを大切にしていたし、私を女避けになんてしなかった。
そう。女避けなんて、誰にとっても最悪な行為だ。どんなに冷たい冷酷ロボットの魔王でも、そこまで女心を踏みにじったりしない。多分、好きになってくれた相手には真摯に向き合うタイプだ。
好き、と言う自分で浮かべたフレーズにドキッとし、打ち消すために思考を進める。

(わかってるようでわかってないじゃない……幼なじみなのに)

その不満が伝わったんだろう。

「あの、何か僕に言いたいことあります?」

水上さんが尋ねてくる。
この会社にはエスパーが沢山だ。
迷ったあと、やはり言うべきことは伝えることにする。

「あの、昨日のことなんですけど私、女避けになんてされませんでしたよ? ずっと烏丸さんは紳士でした」
「へーえ?」
「そもそも私が女避けになるとは思えませんし」
「いやいやいや、十分でしょう。でも、そうか。怜も変わったんだなー。昔は十分下衆な奴でしたよ」

水上さんはニコニコしている。

「下衆って……」

と、ドアが開き烏丸さんが入ってきた。
たちまち心臓が変な音を立てる。

「昨日はどうもありがとうございました」

真っ赤になって頭を下げる私を、水上さんがじーっと見ている気がする。
赤面してるのがバレたくなくて、しばらく顔をあげられずにいると、烏丸さんが話しかけてきた。

「今日も夕方あけておけ。今夜7時から、永保カンパニーの創立10周年パーティーに出る」
「お、やめたんじゃなかったんです?」

水上さんが不思議そうに尋ねる。

「気が変わった。美人とパーティーは相性がいい。女避けになる」

え? 
一瞬耳を疑った。
水上さんがニヤリと笑う。

「社長、女避けって、どういう意味か倉田さんがわからないみたいですよー」
「えっ! 私は別に!」
「俺様くらいになると、金目当ての女が寄ってくるんだよ。鬱陶しいことに」

烏丸さんは、しれっと言う。

「鬱陶しい……」

その言葉の持つ強さに衝撃を受けていると、烏丸さんはにっ、と笑った。

「と言うわけで、君が秘書だってことは秘密な」
「ええっ」
「じゃ、後で」

烏丸さんは風のように去っていく。

「やー、怜は本当に紳士だなー」

水上さんが面白そうに笑い、私は再び顔を赤らめた。



パーティー会場は渋谷の中心地のホテルにあった。
会場入り口の壁にはホログラムの妖精やゴブリンたちが、『ウェルカム!』と言いたげな笑顔を見せている。

「すごいですね……」

前衛的な仕掛けに私はたちまち気圧されてしまう。

「一応このビルもうちの系列」
「そうなんですか?」
「後で案内してやるよ」

会場に続く廊下には赤いビロードの絨毯が引かれてあり、細身の若い男性スタッフが待機していた。
VIPのコサージュが胸につけられ、ドアが開かれる。

「烏丸商事CEO、烏丸怜様ご入場です!」

スタッフがマイクでそう言うと、フロア中の視線が波が打ち寄せるようにザーッと入り口に集まった。
人数は恐らく1000人くらい。それだけの視線が一気に動く様は圧巻だった。
こんなに注目されたのは初めてで、私は思わず立ち尽くす。

「どうした?」

烏丸さんがちらりと私を見下ろした。

「私、変じゃないでしょうか。ちょっと、鏡を見てきます」

レモンイエローのふんわりとしたドレスに白いハイヒール。
編み上げられた髪の毛には金色のラメがふられている。
薄化粧に見えるが凝ったメイク。
昨日より、うんと背伸びした装い。
ちゃんと着こなせているだろうか。うまく動けているだろうか。
不安ばかりが押し寄せてくる。
あわあわしている私の背中に片手を回し、烏丸さんはぐっと引き寄せた。

「プロのヘアメイクにスタイリング。君の魅力は超一流の技術で底上げされている。自信を持て」
「でも……」
「そもそも変だったら、俺が横に置かない。わかってるか。今日の目的は?」
「女避け……」
「使えない女を選んだりしない。俺を信じろ」

背中に回された掌の感触に、私は胸をとくん、とさせる。
烏丸さんはフロアに踏み出し、私もそれにならった。
私たちの動きを、沢山の視線が追う。
もちろん烏丸さんを見ているのだ。

「烏丸社長よ。相変わらず美しいわねえ」
「隣にいるの、誰かしら」

烏丸さんの横にいるというだけで、私にも関心が向けられている。
そして、それこそパーティーの目的。
『女避け』。
私はそのためにここにいる。



「烏丸社長、お久しぶりです」

ウェイターにシャンパンを手渡された頃、小柄で肌艶のいい30代後半くらいの男性が、満面の笑みで近づいてきた。

「永保社長だ」

烏丸さんは私にそう囁く。
日本を代表するトップクリエイターたちが集結する動画広告会社、永保カンパニーのCEOは、ニコニコと話しかけてくる。

「烏丸社長が女性を同行するのは珍しいですね」

烏丸さんはすかさず私の背中に片手を回して引き寄せると、

「ええ。彼女は特別な人です」

甘いスマイルを浮かべてそう言った。
どきん、と心臓が大きく跳ねる。
恐らくは考え抜かれて発せられた言葉だけに、その影響力は抜群で、その場にいる人たちの顔が一瞬固まり次の瞬間には、きゃー、と、文字通り黄色い悲鳴があがる。
とうとう女避け作戦が発動したらしい。私の足が緊張にガクガク震える。

「難攻不落と言われた烏丸グループの貴公子もとうとう……いや、素晴らしい」
「お似合いです」

永保社長を始めとする周りの方々が、口々に祝福の言葉を投げかけてくる。

(……どうしよう。耐えられない……)

私は引きつった笑顔を浮かべ硬直した。
嘘は元々苦手な上に、大勢の注目を浴びることに慣れていない。
早くこの苦行から抜け出したい。

「ん、どうした?」

人の波が落ち着いた後、烏丸さん私の顔を覗き込んだ。
「あの、お話ししたいことが」
私は蒼白になりながらもそう言った。
「なんだ」
整った眉根を寄せ尋ねる烏丸さんの袖を引き、私は彼を物陰へと連れて行く。

「申し訳ありません! 私、もうこれ以上無理です!」

私は烏丸さんの前で頭を下げた。

「ちょっと待て。早すぎるだろ。パーティーは始まったばかりだぞ」
「ごめんなさいっ!」

もう一度深く頭を下げる。

「こんなあからさまな嘘、ついたことなくて、みんなを騙しているようで心苦しくて心臓がもうはち切れそうなんです」
「大げさな」

烏丸さんの心に私の叫びは全く響いていないようだ。
焦燥感に拳を握る。

「だいたい烏丸さんじゃないですか。嘘はこの世で最もリスクの高い行為だって言ったのは」

烏丸さんは面倒そうに頭をかく。

「俺は嘘なんかついてない」
「私の事、特別だ、って」
「嘘じゃないだろ。君は俺にとって唯一無二の特別な女だ」

瞬きもしない表情で詰め寄られ、私は思わず逃げを打つ。
唯一無二の大切な女だなんて、一体どういうこと……?
深読みしてしまい、心臓がバクバクはち切れそうだ。

「社員には全員少なからぬ金を払っている。社員は俺にとっての資産だ。もちろん君も」
「えっと……それだけ?」
「それ以外に何がある」

一気に足から力が抜ける。
何を私は期待をしていたんだろう。

「でも……誤解させるように言いましたよね」
「当然だ。目的があるからな。嘘じゃなくて戦略だよ」

なんだか、ああ言えばこう言うで丸め込まれ、心の中がもやもやする。

「まあ、とにかく君がそこまで言うなら、この作戦は無しにしても……」
「お、そこにいるのは烏丸王子じゃありませんか?」

痩せ型の男性がヨロヨロと近寄ってきた。
年齢は烏丸さんと同じか少し上くらい。あから顔でトロンとした目をしている。
連れが彼の体を支えていた。かなり酔っているようだ。
振り向いた烏丸さんは、慇懃に頭を下げる。

「珍しいですねー。しかも女連れ。仕事ばかりと思いきやそこそこ遊んでるんですねー」

言葉の隅々に嫌味が走る。

「そういえばこないだテレビで見ましたよ。社長、相変わらず青臭いこと言ってますねー。大切なのは一歩踏み出す勇気とか。しょせん綺麗言ですよ。何もかも手に入れたサラブレッドのくせに」
「おいおいやめろよ」

止めようする手をふりきって、彼は烏丸さんに詰めよった。

「みんな言ってるますよ。社長はただの甘ちゃんだって。見た目と頭と育ちがいいからって自惚れるな」

この人絶対喧嘩を売ってる……!
私は烏丸さんの顔を見た。
ところがその表情はまるで動いていない。
何事もなかったみたいに平然としている。

「ちょっと待ってください。その言い方はないんじゃないですか」

私は思わず一歩足を踏み出していた。

「何だお前」
「烏丸さんだって苦労してるんです。人知れず……でないと会社のトップなんてつとまらない!」

そう。たった二日しか付き合ってないけれど、私は彼の一面を色々知った。
両親を亡くしていること。
タツキさんを大切にしてること。
病院でヨロヨロになっていた烏丸さんを思い出した。
ネクタイの結び目が緩み、髪の毛はボサボサ。
カウンターに体をぶつけてよろめいていた。あの時の彼は焦っていて……。
心からタツキさんを心配していた。
「俺にとっては恩ある人だ。あの人にはまだまだくたばってもらっちゃ困る」
そう言っていた彼の表情は、凛としていて
「助けてくれてありがとう」
私を見る目は澄んでいた。
彼は感謝を伝えられる人だ。

「烏丸さんはロボットなんかじゃありません! 感情があるんです! 傷つけないでください」

ゼーゼー言いながら反論して、その後ではっとした。
酔いが覚めたのか、男性は「知るかよ」と呟きながら去っていく。
恐る恐る烏丸さんの顔を見ると『何を言ってんだコイツ』という文字が額の上に見えた気がした。
出過ぎた真似を後悔しても、もう遅い。

「……ひとつ聞くがロボットって何だ?」

私はハッとした。

「や……それは……ごめんなさい」
私は烏丸さんに頭を下げた。
「だから息を吸うように謝るな。説明しろ」
「烏丸さんのこと……冷たくて意地悪で感情のないロボットだと、思われてる気がしまして」
「……それは君の本音だろ」
「うう……」

反論の余地がないツッコミに私は俯く。

「いらないことを言ってしまいました」
「別に俺にとってはどうでもいい」

私はまじまじと彼の顔を見た。
私の行動に対してか、それとも嫌味に対してか。
『どうでもいい』はどちらにかかっているのだろう。

「どうして言い返さなかったんですか? 烏丸さんだったら100倍にして返しそうな気がしたんですけど」
「そんなのは時間の無駄だ」

烏丸さんはきっぱり言った。

「その場では勝ったつもりでいても、恨まれると面倒だ。ビジネスでなら絶対に勝つが、それ以外はどうでもいい。感情を揺らすのは……人生の無駄だ」

一瞬烏丸さんの横顔が陰った気がして、私は思わず息を飲む。
だが、
「……ま、君の反撃は面白かった。弱いくせに両手両足踏ん張って。良いもの見たな」
「うっ……」
「戻るぞ」



フロアに戻ると、烏丸さんは飲み物を取りに去っていく。
しばらく壁の前でポツンとしてると、

「……もしかして倉田さん?」

聴き慣れた声がした。
見るとそこには短大時代の同期、田中さんが、ドレスアップして立っていた。
たちまち胃のあたりがきゅーっとなる。

あれは3週間ほど前のこと。
職安を出たところで、田中さんとばったり会い、誘われるがままに喫茶店へ行った。

「教室がつぶれた? じゃあ、今無職なの?」
私の現状を聞き、田中さんは驚きを隠せないようだった。

「クラス1の優等生がそんな事になってるなんて……世の中わからないものね。竹内先生とヨーコと、早苗に連絡しとこ。みんな凄く驚くだろうな」
田中さんは何故かウキウキしているように見えた。
「心配かけちゃうから、内緒にしてて」
私が言うと田中さんはああ、と何か含みのある表情を浮かべた。
「みんなの忠告無視したから、決まりが悪いんだね。わかるー。だから私もあれほど言ったのに。音楽業界に未来はないよ、って」
真剣な表情でそう言う彼女に、私は両眼を見開いた。
彼女は大手建築事務所の秘書をしている。
私が紹介した会社だ。
インターン中に正社員の声をかけられ、僅差でピアノ教室が決まっていたから辞退した。
『本当に断るのかい? もったいないなあ。よりによって……ピアノ教室を選ぶだなんて』
担任の竹内先生は、私の選択をとても残念がっていた。
『悪いけど音楽業界に未来はないよ』
そうだろうか?
私はあまりピンと来なかった。
アルバイト先のレッスン生たちは、どの人もとても楽しそうで、彼らの笑顔を見ているだけで幸せになれた。
音楽教室が潰れるなんて、その時は想像できなかった。
教室を出ると、そこにいた田中さんが廊下まで追いかけてきた。

『倉田さん、断りづらいでしょ。私が穴埋めをしてあげようか』
『え?』
『私を推薦してもいい、ってこと』

ダメ元で担当者に言ってみると、倉田さんの推薦なら、ととんとん拍子で採用が決まった。 

『うふふ。倉田さんを助けてあげられて良かったわー。あ、ピアノ講師頑張ってね。倉田さんにはお似合いよ』

田中さんはそう言って笑ってた。

つまり、「音楽業界に未来がない」と言ったのは田中さんじゃなくて先生だ。
彼女は逆に、背中を押してくれていたはずだったのに。

「それにしても、ちっとも落ち込んでないみたいね。私ばかりが心配してあげて。損した感じ」
そう言われてハッとした。
「落ち込んでるよ……これでも」
「嘘だー」
田中さんは笑った。
「前から思ってたけど、倉田さんってロボットみたい。なーんか人間っぽくないんだよね。でも、ロボットのわりに、選択を間違ってる気もするけど。本当に無駄な時間を過ごしたわね。これからはちゃんと人の忠告を聞くことね」

ロボット。そして無駄な時間。
その後はどんな話をしたのか、覚えていない。
ただ、すごく傷ついてしまった。

(私の選択肢は間違っていたの……?)

この3年間は無駄だったのだろうか。



(そう言えば私も言い返さなかった。きっと言い負かされる気がして……それに……)

自分の感情を揺らすのは無駄な気がした。

(あ……私も烏丸さんと同じだ……動揺するのが好きじゃないんだ……)

田中さんは嬉しそうに近寄ってきた。

「やっぱり倉田さんだ。わあ……こんなところで何してるの?」

説明しようとしたが、烏丸商事の秘書として来ていることは内緒だったと思い出す。

「ちょっと……気分転換に」

自分でも情けなくなるほど陳腐な説明をしてしまう。
何故か田中さんはニヤリと笑った。
ああ、この顔、と胸の中がもやもやする。
彼女がこういう表情を浮かべた後は、必ず胃が縮むような一撃がくる。

「へえ。婚活? こんなところで男漁りとか。倉田さんも落ちたもんねえ」

やっぱりだ。
落ちた……なんて、どうして?
婚活じゃないけど……違うけど。
もし、そうだったとして、それの何が悪いんだろう。

「私は社長の付き添いで来てるの。仕事がとても充実してるわ。あの時倉田さんを助けてあげて本当に良かった。人を助ける人間にはご褒美があるって本当ね」

田中さんは笑った。
……助けてなんて、言った覚えはないわ。
せり上がってきた言葉を飲み下す。

「ここって、エリートが沢山いるから。婚活にはもってこいよね。さすが抜け目ないわあ。そう言えば烏丸商事のCEOも来てるらしいわよ。ま、あんな高嶺の花は無理だろうけど」
「……」
「じゃ、私はこれで。みんなに倉田さんのこと、伝えとくね。驚くだろうなあ。クラス1の優等生だったのに」

喫茶店で言われたのと全く同じセリフを吐き、田中さんは離れていく。

「……君も言い返さないじゃないか。他人の事は首を突っ込むくせに」

間近で急に声がして、私はビクッと肩を揺らせた。

「烏丸さん……聞いてたんですか?」
「ああ」

カクテルが渡される。

「いつもあんな感じなわけ? 嫌な女だな」
「……短大の同級生だったんです。特別仲が良かったわけじゃないんですけど、ちょっとした繋がりがあって」
「なるほどね」

烏丸さんはふと、何かを思いついたように、ニヤリと笑った。

「そう言えばここにはスタインウェイピアノがあるんだよ。講師をしてたくらいなんだから、当然ピアノは弾けるんだよな?」

私は驚きに両目を丸くした。
まだ烏丸さんは経歴詐称を疑っているのだろうか。

「もちろんです……」
「じゃ、待ってろ」



男性スタッフ二人組が、舞台上にピアノを運ぶ。
舞台袖でそれを眺めながら、私はゴクリと唾を飲む。
スタインウェイピアノといえば、ピアノ弾きなら誰でも憧れる名器だ。
安いものでも数千万はする。
黒いボディに金色のラベル。スポットライトを浴びたそれは神々しいほどの光を放っていた。

「無理です…………余興でピアノだなんて、無理無理無理」

突然降って湧いたオーダーに、私は両眼を見開いた。

「……これは命令だ。やれ」
「私はピアニストじゃありませんから……!」
「緊張するとかほざくなよ」
「緊張します!」

烏丸さんはムッとしたが、ここは引き下がれない。

「ピアノ講師とピアニストって全然違うんです。私は人前に立つの苦手ですし、ましてやこんなパーティーでなんて……無理無理」

そもそも烏丸さんは、なぜこんな無理難題を私に突然ふっかけたのだろう。
もしかして意地悪?
少しは……人の気持ちがわかる、いい人だと思っていたのに……。

「いいからやれ」

烏丸さんはきっぱりと言った。

「君は女避けの仕事をパスした。なら、もう一つの仕事ぐらいは全うしろよ」
「仕事……」

私ははっとした。
背筋が一瞬ですっくと伸びる。

「いいか。俺は音楽なんて無駄だと思っている。音楽なんてなくてもいいとピアノなんて無駄だと思ってる。しかし君はその無駄に長い時間を費やしてきたんだろ? 自信を持てよ」
「烏丸さん……」
「まずは俺に音楽の良さを気づかせてみろ。そしたら今すぐお前には価値があると認めてやる」
「え……?」
「認めさせられなければ、評価はゴミのままだ。君も、そして音楽もな」

戸惑っている私を一瞥すると、烏丸さんは険しい表情で言った。
奇妙なことになってしまった。

(別に私は承認して欲しいわけじゃない……)

自分のことなんてどうでもいい。

でも……。
私は誰かの役に立ちたい。
仕事だと言うならやり遂げて見せる。
それに。

私はつまらない無駄ばかりな人間だけど。
音楽は。
芸術は、決して無駄じゃない。

私は顔を上げ烏丸さんとしっかり目を合わせた。
彼の整った眉が片方だけあがる。

「弾きます」

血を吐くような低い声。

「タツキさんが、おっしゃってました。無駄なものにこそ価値があるって。音楽の価値を烏丸さんに証明してみせます!」
「よし。その意気だ」

烏丸さんはにやりと笑った。



一通りのスピーチが終わり、歓談のテンションも落ち着いた頃、私は永保社長に呼ばれて舞台に上がった。

「ピアノ演奏が始まります。音楽万歳!」

ほろ酔い加減の永保社長がそう言って、一瞬だけフロアがしん、とした。
皆の注目が私に集まる。緊張が高まる瞬間だ。
私は舞台下の烏丸さんに目をやった。ビジュアルに華があるのですぐわかる。
彼は腕組みをして、まっすぐに私を見つめていた。
目と目があった瞬間、ニヤリと笑う。

『お手並拝見。ま、想像はつくけどな』。

心の声が聞こえた気がして、背筋が震える。
少し離れた場所に、田中さんと昔インターンをしていた時の社長が見えた。
社長は私に気がついたらしく驚いている。
田中さんも不思議そうな表情を浮かべていた。

(知ってる人たちもいる。恥ずかしい演奏はしちゃだめだ)

そう思った瞬間、手が震え始めた。
これは武者震いだ。
自分で自分に言い聞かせ、フロアに向かってお辞儀をすると、たちまち拍手に迎えられた。
烏丸さんも無表情なまま手を叩いている。
私は椅子に腰掛けると、深呼吸をした。
少しおさまりが悪い。
ハイヒールのせいだと気がつき、靴を脱ぐ。
何故か小さな歓声がわいた。
そんな緩い空気の中、私は鍵盤に指を置く。
チョイスしたのはベートーヴェンの『月光』だ。烏丸さんのための選曲だった。
クールで魔王のように神秘的で、凛とした彼にはこの曲が一番合うと思う。第一音を聞いた瞬間に心が震えた。
流石のスタインウェイだ。音色が普通のピアノとはまるで違う。
思ったより軽いタッチなのが意外だった。
気持ちがいい。音が指を使って体へと侵入し、フロア全体へと広がっていく。
聞く人たちの心をきっと震わせられているはずだ。
指が走る。ようこそ。皆さま、音楽の世界へ。
私はこの世界の魔法使い。非現実の魔法を、クールな魔王とそしてここにいる全ての人に届けてあげる。

無我夢中の数分が過ぎ、演奏が終わると拍手喝采が待っていた。
笑顔で応えながら、彼を探す。永保社長はさっきと同じ場所にいて、両手を高く上げて拍手をしていたが、その横に烏丸さんの姿は見あたらなかった。
田中さんは何故か、赤い顔で私を睨み、その横で社長が両手を高く上げて拍手をしていた。不思議だ。こんなに沢山の人が私に注目している。
それなのに……一番聞いて欲しかった人は、今どこにいるんだろう。
拍子抜けしつつも靴を履く。もう一度見回してみたが彼はいない。
飽きてどこかに行ってしまったのだろうか。音楽に興味はなくとも勝負事には好きだと思った。だから聞いてくれると信じていた。それなのに……。
がっかりしながら舞台袖に向かう。

(……そんなに、つまらなかったのかな……)

フロアの反応を見る限りでは、いい演奏ができたのだと思う。
しかし音楽には好みがある。中でも烏丸さんは『音楽は無駄だ』と公言している人だ。きっと退屈だったのだろう。
音楽の魅力を教えるだなんて、宣戦布告のような真似をしてしまったが、本音はただ聞いて欲しかった。なぜならば……。

(彼のために弾いたのだもの……)

例えるならそれは「ありがとう」と書きつけた音の紙飛行機。
彼の胸へと届けたくて一音ごとに心を込めた。
偶然とはいえ彼は私に新たな道を指し示してくれた。
そのお礼を伝えたかった。
届かなかったみたいだけれど。
鼻の奥がつん、となるのを堪えながら、袖に入り切った瞬間、誰かに手首を握られた。ハッとして顔を上げると、そこにはたった今思い描いていた顔があった。

「烏丸さん?」

緊迫した表情に、心臓が跳ねる。
握られた手首が焼けつくように熱い。

「抜けるぞ」

小声で言うと、烏丸さんは私の手首を掴んだまま、四段ほどの短い階段を下りる。

「でもまだ」

私の疑問を正確に読み取り、烏丸さんはこう答える。

「永保社長に挨拶は済ませた。ここまで盛り上げれば十分だろう」

そんなものなのだろうか。私にはわからない。フロアの皆に気づかれないよう、逃げるようにその場を立ち去る理由も、子供みたいに手を引かれてエレベーターに乗り込むわけも。

『お膝に手を置いていればいいんだよ』。

水上さんの声が頭に響く。まだ烏丸さんと出会って2日目だ。
しょっぱなから、こんなに翻弄されて、私は仕事をまっとうできるのだろうか。
繋いでない方の手が、1のボタンを押し2人を載せた箱が降下を始める。やっと手が離れ、くるりと烏丸さんはこちらを向いた。至近距離で見下ろされ、心臓が早鐘を打ち始める。

「私のピアノはいかがだったでしょうか?」

上擦りながらそう尋ねた。本当はあまりにも奇妙な空気感に怯え、そんなことは気にならなくなっていたが、他に話題が見つからなかった。

「わからんな」
「え?」
「音楽の良さというもんだ。綺麗な曲なんだろうが……ただそれだけだ。曲、音色、どこをどう面白がればいいのか、さっぱりだ」

あっさりと言われて、肩の力がぬける。
ここまできっぱりされると、いっそ清々しい。

「……そうですか……ですよね……生意気なことを言ってすみませんでした」

私は微かに微笑んだ。
音の紙飛行機は届かなかった。
私の実力なんてそんなものだ。
心を込めればきっと、なんて、思いあがっていたのが恥ずかしい。
彼は無駄なことは一切しない、魔王烏丸怜なのだから。
と、彼が食い入るように私を見た。

「……綺麗だな」
「え?」

長い指先が頭上に伸びまとめられていた髪の毛が、一瞬ではらりと肩に落ちる。
ひた、と私に据えられた瞳に意味不明な恐怖を覚え、私は後退る。
とん、と壁に背中がついた。ちん、と音を立ててエレベーターが一階につく。ドアが開きホッとしたが烏丸さんは待ち人がいないのをいいことに、何故か閉と最上階のボタンを続けて押しエレベーターは勢いよく上がっていく。
私を見据えたまま、彼は両手を壁に置いた。
しげしげと顔を覗き込まれる。

「音楽の良さはわからないが君がピアノを弾く姿はいい。全身がざわつく……君から目が離せなくなる。これは一体どういう感情だ?」

熱に浮かされたようなかすれ声。
次第に凄みを増す目の光に、胸の鼓動がはやくなる。

「烏丸……さん?」

あからさまに怯えたような声が漏れる。と、彼の目が細められた。

「怯えてるのか?」
「……」
「そそる」

意味不明な言葉を吐いた後、彼は苦笑した。

「すごいな。心臓の音」
「えっ?」

彼は私の手首を再び握るとてのひらをスーツ越しの胸へと押し当てた。

「ほら、みろよ」

熱い声が流し込まれる。分厚い布地の上からでは鼓動なんてわからない。しかし烏丸さんが動揺している事だけはハッキリわかる。目つきと、そして空気が蕩けそうに甘い。私の顔は多分ゆでだこみたいに真っ赤っかだ。

「……あのままパーティーにい続けたら、それこそ沢山の虫が寄ってくるだろう。それは我慢ならないと思った。君を誰にも見せたくない。君を……俺だけの物にしたい」

譫言のような声が彼の唇から流れてくる。

「あの……」
「この気持ちは……なんだ? 君は俺に何をした?」

ごくり、と私は唾を飲む。
彼の心を揺らしたのが私なら、心当たりはひとつしかない。

「烏丸さんのために……あなたの事を思って……ピアノを弾きました……それが……届いたって事ですよね?」

彼の目が大きく見開かれ……不安げだった瞳に光が戻ってきた。
ちん、と音がして再びドアが開く。当然のように烏丸さんは私の手を取り外に出た。だけど今度は繋ぎ方が違う。指と指をしっかり絡ませ合う……俗に言うこれは恋人繋ぎだ。

「あの……烏丸さん、どこに?」
「スイートルーム」
「えっ」
「このビルは烏丸グループのものでね。幸運なことに俺は鍵を持っている」

あっさりと告げられたその言葉に、私は思わず硬直した。

「ちょっと待って……待ってください」

てのひらを振り解き、彼から距離を置く。

「ん? どうした?」

彼が歩みを止めて私を見下ろした。

「行けません……何を考えてるんですか?」
「……何か想像してるなら、きっとその通りだよ」
「……!」

彼の指が私の顎を摘んで上向かせた。

「口を開けろ」

王さまのような傲慢さで、烏丸さんは私にそう命じた。
なぜ?
私は今、拒絶したはずなのに。

「あけるんだ」

吸引力のある鋭い瞳が真っ直ぐに私を見つめている。
頭の中に飛び交う言葉は一言も発せられず、私はそっと唇を開く。
悪魔に魅入られたみたいに、瞳の引力から抗えない。

間近になる顔にドキドキしすぎて、過呼吸になってしまいそうになる。
熱い吐息が口の端にかかり、緊張に耐えられなくなった私は思わず顔を背けようとした。が、その瞬間、彼の唇が重なり、長い舌が口腔へと押し込まれる。

「んっ……んんっ」

目を見開いたまま、受けるキス。
彼は貪るように私の唇を吸っていた。

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