冷徹御曹司の無駄に甘すぎる豹変愛

あいすらて


会場を出た後、肩を落としながら駅に向かう。
バス停前のスタンドに差し込まれたパート情報誌が目に入った。
一冊抜こうとした瞬間、烏丸さんの声が頭の中に鳴り響く。

『考えない真面目はただの馬鹿だ』。

身がすくみ、そっと情報誌をスタンドに戻した。

(きっと私は正しい道を選べない……)

ああ、これ、絶対よくない感じ。
元々少ない自己肯定感が、穴のあいた砂時計みたいに、ポロポロこぼれ落ちていく。

『卒業してからの3年間、倉田さんは本当に無駄にしたわね』

3週間前に投げかけられた、どこか嬉しそうな声が頭に鳴り響き、首を思い切り左右に振った。
耳にこびりついたその言葉に、烏丸さんの言葉が重ねられる。

『無駄のテンプレートさん』。
なんて、情けない称号だろう。そして私にぴったりだ。

その時ひゅーっという、聴き慣れない音色が耳に飛び込んできた。
音の場所を追って視線を横に向けると、小さな公園が目に入った。
公園の中央には象の形をしたアスレチックのトンネルがあり、その前のベンチに高齢の男性が座っている。

日焼けした肌に真っ白な短髪。
カーキ色のつなぎを着た、七十歳は超えていそうなその男性は、口に緑の葉をあてて、熱心に息を吹きかけていた。

(草笛……! こんな音がするんだ)

初めて聞く音なのに懐かしさを感じる、柔らかな音色。
それに合わせるかのように鳥がさえずる。
楽しそう。

こんな感覚、忘れてたな。
仕事とか将来とか、誰かに聞かせるとか役に立つとか、全然関係なく、ただ奏でたいから奏でる音楽。
立ち止まりしばらく聞き惚れていると老人は顔を上げた。
視線が合う……と同時にニコッと笑いかけてくる。
フレンドリーなその笑顔にほっこりして、私も思わず笑顔を返した。

「吹いてみるかな? お嬢さん」

老人は私を手招いた。
普段なら、見知らぬ人の誘いに応じたりしない。
でもその人の笑顔と草笛の音は優しげで。
なんとなく誰かと話したい気分で。
嫌なことを別な何かで上書きしたくて。

手招かれるまま、私は公園に足を踏み入れる。

「どうぞ」

男性は、もうひとつの草笛を渡してくれた。
息をふくと変な音が鳴った。

「体が緊張しとるから鳴らんのじゃよ。力を抜いて。リラックスして」

彼の言いつけに従うと、素敵な音が鳴った。

「あんたはなかなか筋がいい」

その人はニッコリと微笑んだ。



老人はタツキさんと名乗った。
会社を退職して悠々自適な毎日を過ごしており、今日は朝から都内の公園をまわり、バードウォッチングを楽しんでいたのだという。

「その格好、就活かい?」 

尋ねられ、私は違うと答えようとしたが、思い直して頷いた。

「会社説明会に参加してきたんです」
「ほお。成果は」
「大失敗。途中で出されちゃいました……私が軽い気持ちで参加していたから」

傾聴モードのタツキさんに促されるまま、私は数分前の出来事をぽつりぽつりと打ち明けていた。とはいえ誰にも迷惑をかけたくなかったため、烏丸商事は某大手企業、烏丸さんは魔王系CEOと言い換えておく。
タツキさんは終始神妙な顔で聞いていた。
愚痴っぽくならないよう、淡々と話したつもりなのに……私の言い方が悪かったのだろうか。

全てを聞き終えた後、タツキさんはきっぱり言った。

「わしはただの年寄りじゃが、その話を聞いて一つだけ、はっきり言えることがある。その魔王はアホじゃな。かよわい女性をいじめてどうする。恐らくモテたことがないんじゃろう。モテる男は絶対に女性に対してそんな態度はとらんもんじゃ」


「そうでしょうか? どちらかと言えばモテる要素しかないような人なんですけど」
「本気で惚れた相手は逃すタイプじゃ。感情がバグっとるのじゃよ」

やっぱりタツキさんの例えはよくわからない。
が、バグる、などというIT用語が出てくるあたり、ただものじゃないな、という気がする。

「まあ、ひかりさんに自覚はないようじゃが、あんたは魔王を拒絶したのじゃよ。だから振られた気がしてムッとしたんじゃろ」
「振られた……? そんなつもりはありません。本当に……就職目的じゃなかったらそう言っただけで」
「ダメ元で何かアピールすれば良かったのじゃ」
「わざわざ声をかけたのは、あんたに何か感じたからじゃ。それなのに、就職する気はないと言われてがっかりしたのじゃよ」
「私は、失礼な事をしてしまったんでしょうか」
「いいや。興味の持てない会社に興味のある振りをする必要はあるまいよ」

興味がなかったわけじゃなく、自分には資格がないと言いたかっただけなのに……。しかしタツキさんにもうまく伝わってないということは、烏丸さんに誤解された可能性は高い。
タツキさんは続ける。

「人生には無駄こそが必要なんじゃよ。無駄を積み重ねてこそ、人生は輝く。ほら、今、あんたと過ごしとるこの時間も豊かじゃろ? 人生には無駄の積み重ねが必要なのじゃ」

私は不思議な気持ちでタツキさんの目を見つめた。
確かに今はちょっと楽しい。
でも、ハートの片隅がちくちく痛む。多分、自分の道が定まってないからだ。
この時間が現実逃避だと、心の隅では思っているからだ。

「まあ、ひかりさんも、せっかくの縁をもう少し大切にした方が良かったかもしれんな。もしかしたらその男は、運命の相手じゃかもしれんぞな。求められたら1度はこたえる道を探す。人生予定調和ばかりじゃないからの」
「求められたわけじゃ……あれはたまたま」
「たまたまの出会いを運命にしていくのが人生の醍醐味じゃよ」

謎のような言葉を吐き、タツキさんはにっこり笑う。

「そうじゃ、ひかりさん、連絡先を交換せんかの。こんな年寄りでも、あんたの助けになることがあるかもしれん」

タツキさんはスマホを探してか、サバイバルリュックをあさりはじめた。リュックの中がチラッと見え、中にある大きなペットボトル3本に、私は両目を丸くした。
(こんな重いものを持って歩いていたの?)
と、タツキさんの動きが止まった。
リュックに視線を向けたまま、不自然なほど動かない。
「タツキさん?」
名前を呼ぶと同時にゴッという鈍い音がして、タツキさんがリュックに突っ伏した。

(えっ?)

立ち上がってタツキさんの前にしゃがみ込めば、紙のように真っ青な顔が目に入った。

「タツキさん!! しっかり!」

焦りながらも小柄な体を起こす。
タツキさんは荒い息を吐いていた。


 
病院につきそって2時間ほどたった。
不安な気持ちのままロビーの隅で待っていると、医師がやってきて、タツキさんが熱中症になりかけていたと教えてくれた。

「年齢の割に鍛えてらっしゃるようですから、すぐに良くなると思いますよ。とはいえ、処置が遅ければ危なかった。親切な方がそばにいて幸運でした」
 
どうやら、心配なさそうだ。私は心の底からほっとする。
 
「患者がお礼を言いたいそうです。是非顔を見せてあげてください。508号室です」
「ありがとうございます」

医師が立ち去った後、すぐに病室へ向かおうとしたが、踊り場の鏡に映った自分の姿を見て足が止まる。
顔に血のようなものがこびり付きスーツはよれよれ。
あまりにも悲惨な格好だ。

(とりあえず顔を洗っていこう……)

手洗いを探してロビーの中をぐるぐるしていたら、10メートルほど離れた入り口の自動ドアが開き、すらっとした体躯の背の高い男性が入ってきた。とても焦っているらしく、カウンターの角に体をぶつけて呻いている。
髪の毛はボサボサでネクタイも乱れてはいるものの、全体的な雰囲気が烏丸さんに似ている気がして胸がどんよりと重くなった。
(……疲れてるんだわ……幻覚が)
烏丸さんは、もっと颯爽としてクールだった。
間違っても、あんな風にバタバタ走ったりしないタイプ。
氷のように冷徹な魔王だもの。
くるりとその人に背中を向けた。今、魔王に似た人などと会いたくない。靴音が近づく。被害妄想だとわかってはいるが確かめるのが怖くて私は逃げるように早足で階段をのぼる。手洗いに入って、ふう、と安堵のため息をついた。



顔を拭き身繕いを済ませて病棟に向かう。 
病室のドアをノックすると「はい」というタツキさんの声が聞こえてきた。

「失礼します」 

ドアを開けて中に入る。
点滴につながれたタツキさんがベッドで半身を起こしていた。 
目が合うと嬉しげに微笑みかけてくる。

「おお、ひかりさん」
「タツキさん……」
名前を呼んだ後言葉に詰まり、私は無言で彼の傍に駆け寄った。 
タツキさんは背筋を伸ばし目を細める。
「あんたのおかげで助かった。ありがとう。本当にありがとう」
タツキさんの声には、張りがあって、数時間前、苦しげに喘いでいた人とは別人のようだった。 点滴が効いている。良かった。改めてホッとする。
「あんなに重たいリュックで歩いてたなんて……タフですね。タツキさんは」
そういった時ドアが開いて、誰かが入ってきた。
「失礼します」
耳に残る涼やかな、声。
振り向いてその人の顔を見た瞬間……私の心臓はぴたりと止まった。

涼しげな目、すらりと伸びた長い手足、少し長めの艶のある髪、明らかに全身から漂う眩いオーラと圧倒的な王者感。
それは魔王烏丸その人だった


無機質な病室が、一気に魔の巣窟へ変わる。

全身からじっとりとした汗が噴き出す。蛇に睨まれたカエルの気分だ。
被害妄想……ではないと思う。私たちの経緯を知れば、誰だってこの場から逃げ出したくなるだろう。
「会長の好きなトマトジュース。自販機になくて売店まで行ってきました」
烏丸さんから缶ジュースをうけとり、タツキさんは顔を綻ばせる。
「そうそう。これが欲しかったのじゃ」
「医者によると明日まではここにいて欲しいそうです。万が一が心配だからと」
よく響くバリトンが、タツキさんに告げる。
「……もう大丈夫じゃというのに。まあ医者も商売じゃからのう。付き合ってやるか」
タツキさんは茶目っ気たっぷりにそう言った。
「こちらの方は?」
烏丸さんの視線がこちらに向けられる。
私は髪の毛をとっさに肩へと垂らし、顔面積を圧倒的に狭くする。
「紹介しよう。孫の怜じゃ。総合商社烏丸商事の社長をしておる。そしてこちらが倉田ひかりさん。さっき話した通り、わしの命の恩人じゃ」

孫……。

混乱し怯えきった頭の中に、烏丸商事のサイトに書かれていた情報が浮かび上がる。
烏丸商事会長の名前は確か……龍樹《たつき》だった!
かっこいい名前だなあ、と一瞬思ったのを覚えている。

(仁、って苗字だと思い込んでたら……名前だったのね……)

私は孫から受けた仕打ちをその祖父に、ペラペラ喋ってしまったのだ。

(詰んだ……)

ロビーで烏丸さんを見た時気づくべきだった。
いや、たとえ気づいたとしても、危険は回避できなかったろう。
タツキさんと関係があるなんて思いつくわけがない。

「はじめまして。祖父が大変お世話になりました」

烏丸さんは頭を下げた。
はじめまして、という言葉に、はっとする。

(もしかして私のことを覚えていない?)
私にとってはトラウマ級に衝撃的な出来事だったけれど、烏丸さんにはよくある日常の一コマで、しがない元音楽講師のことなんて、すでに頭の中から消えているのかもしれない。

おそるおそる彼の目を見る。
そこには、訓練された礼儀正しさ以外の、どんな感情も読み取れない。 

少し気が楽になる。

「クラタヒカリデス」

それでも超早口で挨拶した。烏丸さんは不思議そうな表情になる。
ネクタイは整えられていたが、髪の毛は乱れ、てっぺんがぴん、とはねている。しかし表情は会社説明会やドキュメンタリー番組で見た時と近いイメージ。
ロビーでは随分慌てているようだったけれど……。
そんな事を考えていたら、しれっと爆弾が投下された。

「彼女は会社説明会に参加しておってな、ろくでもない社長に追い出されたんじゃと。しかしそのおかげでワシと出会えた。人生万事塞翁が馬。運命はうまいことできとるもんじゃ」

はい。終了。
心の中で涙を流す。これで思い出さないわけがない。

悪口を言ったつもりじゃなかったんです!
本当はそう叫びたいが、無礼な魔王の正体を知れば、今度はタツキさんがショックを受けるだろう。
私はここで口をつぐみ、時がすぎるのを待つしかない。
「まさに天の配剤ですね」

烏丸さんは頷く。私は首を傾げた。
もしかしてまだ気がついていない?
私にとってはラッキーだけど……烏丸さんの体調が心配になってきた。
すぐに余計なお世話だと自らを戒める。
私に必要なのは、この危機をどう乗り切るか。
その、偉大なるミッションに集中しなくてはならない。
タツキさんは、目を細めながらこう言った。

「彼女はな、救急車を手配した後、道路ばたから人を呼び込みわしの介抱をしてくれた。そして躊躇なく救急車に乗り込みわしの手をずっと握り励まし続けた。素晴らしい行動と判断力じゃ。そしてその上」

一命を取り留めた、は過大表現だが、タツキさんの声は流れるようで割り込む隙がない。

「わしが戻したものをこの人は素手で受け止めたんじゃ。優しげな言葉なら誰でも言える。しかし行動に移せるのは一握り。いざと言う時、なかなか体は動かないものじゃ。咄嗟の時にこそ人としての真価が問われる。彼女こそが磨かれる前のダイヤモンドじゃ」
「そんな……」
私はふにゃ、と表情を崩して頭をかいた。
感謝を期待していたわけではないけれど、喜んでもらえれば単純に嬉しい。 

「なるほど」

しかし、冷ややかな相槌にびくっとした。
デレてる場合じゃなかった。早くこの場を退散せねば。
私の身元がバレて、また罵倒されるのは耐えられない。
私は笑顔を作ってこう言った。

「ありがとうございます。でもお気になさらないでください。あ、そう言えば私、今から予定が。失礼します!」
バタバタと病室を出ようとすれば、
「まちんしゃい」
しっかりした声で引き止められる。
振り返ると鋭い目つきのタツキさんと目があった。並ぶと烏丸さんの目と似てる。
ああ、血が繋がってるんだ、としみじみ思う。
タツキさんは私に向かってこう言った。
「ひかりさん。明日から烏丸商事にきんしゃい。怜の秘書になりんしゃい」
「例の避暑……ですか?」
突然すぎてトンチンカンな答えを返せば、タツキさんはこう付け加えた。
「烏丸商事、社長の秘書じゃよ」
ひしょ。秘書。
烏丸……魔王の。
「ええええっ!」
大声を上げてしまった後、ここが病院だったと思い出す。

「ど、どど……な、なな」
「どうして」「何故」の二言が動揺しすぎて皆まで言えない。
背中に冷たい汗がこぼれる。怖くて烏丸さんの顔が見られない。

「ちょうど求職中なのじゃろう? 悪い話ではないはずじゃ」
「それは……」
私ったら、どうしてあんなにペラペラと自分の身の上を喋ってしまったんだろう。
数時間前の自分をタコ殴りにしたいが、そんなことを言っても仕方がない。

「機転がきき思いやりのある社員。喉から手が出るほど欲しいものじゃ。なあ。怜。これは良い出会いじゃろう?」
烏丸さんは、不気味な笑みを浮かべた。
「ええ。実に幸運な出会いです」
私は初めてまともに彼の目を見た。
本当に本当に気づいてないの?
だとしても、このままじゃバレるのは時間の問題だ。
「あの、私」
お断りします、と言おうとしたが、烏丸さんが距離を縮めてきた。
「よろしくお願いします。倉田さん」
片手を差し出す。ぽかんとしている私の手を無理やり取ると、握りしめてきた。温かい手の感触が伝わってくる。ドキドキしすぎて、顔が熱い。もう、本当にこれ、なんとかしなきゃ。

「いいえ、私、御社には……」
断ろうとすると、烏丸さんの顔から笑顔が消えた。
「……黙れムダ女」
「……え?」
早口すぎて聞き取れずに、私は耳をそばだてる。
タツキさんからは見えない位置で、烏丸さんは私をじっと見る。
手が離れた。
同時に看護師が現れる。
「点滴取替えますねー」
烏丸さんは体を返し、張り付いたような笑みを浮かべて、タツキさんに向きあった。
「会長。ここで話すのもなんですから、諸条件について説明してきます。突然のことで戸惑ってらっしゃるでしょうから」
「おお、そうじゃな。怜、頼んだぞ」
「わ、わ、私」
また烏丸さんはくるりとこちらを見て……。
「行きましょうか」
いかにもな、胡散臭い笑みを浮かべた。
口角はきゅっ、と上がっていたものの、瞳の奥にある光は不穏な色をたたえている。
「は、は、はい」
もうこれは、蛇に睨まれたカエル状態。
背中を押され、ギクシャクとロボットみたく歩いていると、ドアの前で呼び止められた。

「ひかりさん」
「はい!」

振り向けば、タツキさんが、まっすぐに私を見つめていた。

「孫をよろしくお願いします」
「は……はあ……」

私はもう何も言えなくて、ただペコリと頭を下げた。



廊下に出た途端、烏丸さんに腕を掴まれた。

「あ、あ、あのっ」

恐怖に私は震えあがる。
首と背中を大きく逸らせて見上げれば、冷ややかな目と視線があった。1秒前、病室にいた時とはまるで違う。これはまさに魔王モード。

「ちょ……なっ……」

また悲鳴をあげそうになるが、背後から抱えられるようにして大きなてのひらで口を塞がれた。

「うっ……ううっ」

私の呻き声が、大きなてのひらに吸収されていく。

「静かにしろ」

ばたつく私を難なく抱え込み、烏丸さんは大股で廊下を歩く。
いかにもな拉致スタイルだが、すれ違う人たちは皆、烏丸さんの素敵なルックスに目がいくようで、ぽっと頬を赤らめている。
私など眼中にないらしく、助けてくれそうな人は皆無だ。
烏丸さんは階段を下り、暗い踊り場で立ち止まった。
やっとてのひらが離されて、私ははあっ、と息を吐く。

「す、す、す、すみませんっ」
恐怖のあまり私は情けない声を上げた。
「なんで謝る?」
「なんとなく!」

片方の目が値踏みするように細められる。
彼が一歩足を前に踏み出し距離を縮めてきた。
逃げを打つ。が、すぐに壁へと追い詰められる。
お約束のようにどんと右肘を壁に押し付け、威圧的な眼差しがひた、と私を見据える。彼の体の熱が伝わってくるほどの至近距離だ。怖い。やたらと胸がドキドキする。
「おいこら、無駄が大好きな音楽講師」
「気付いてたんですか?!」
「当然だ!」
顎を摘まれ上向かされる。
まるでキスの直前みたいなジェスチャーに、心臓が大きく跳ね上がる。
「君は一体何者だ? 老人を騙して利を得る詐欺師か? それとも俺に復讐したいのか? 元ピアノ講師の経歴も嘘か?」
「嘘なんかじゃ……」
「ならば何故、俺から逃げた」
「逃げてなんか……」
弁解しかけて、すぐ、ロビーでの事だと気がつく。
「……それは……」
私は追い詰められた小動物の気分で縮こまる。ただ、怖いから逃げ腰になる。そんな弱者の心理なんて、この人にはきっとわからない。
そして……。
伝えるスキルを、私は持っていないのだ。

「俺が確かめてやる」

ごまかしを許さぬ鋭い目でしげしげと見つめられた。
多分、ほんの数秒間。それが永遠に続くかと思えるほど長く感じる。
やがて指と体が離れた。熱い体温が遠ざかるのを感じ、私はやっといつもの呼吸をする。

「何か企める顔じゃないな。典型的なアホづらだ」

彼は腕組みしてそう言った。
どうやら疑いは解けたらしい。
私は死ぬほどほっとした。

「そ、そ、そうですよ。こうなったのは、ただの偶然で……」

この期に及んで怒るでもなく、まだ言い訳を続けるなんて、私は本当に小心者だ。
ああ……自分で自分が嫌になる。

「なら、なんでそんなにビクつく。理由がないとは思えない」
案の定突っ込まれ、
「ううっ」
これ以上、隠せない。

「すみませんっ」

私は烏丸さんに一部始終を話した。
タツキさんとの出会い、そして……流れで烏丸さんとのことを喋ってしまったこと。

「……悪口を言うつもりじゃなかったんです! 会社名も、烏丸さんの名前も伏せましたし……でも、でも! ごめんなさいっ!」

そう言って頭を下げると肩の荷が落ちた気がしてホッとした。
やっと言えた……。
沈黙が続く。
恐る恐る顔をあげると、烏丸さんは顎に手を当てて不可思議な表情を浮かべていた。

「……君の頭の中はゴミだらけだな」
目が合った瞬間、そう言われる。
「は?」
「全く、よくもまあ、そんな無駄なことで悩めるもんだ」
「あの、どういうことでしょう?」
「言いか。聞け」

烏丸さんは鋭い目で私を睨む。

「君が俺の悪口を触れ回ったところで、俺様には何の影響もない。俺を舐めんな」
「ひいっ」
「……それ以前に、そんなのが悪口になるか!」
「えっ……そうなんですか?」

私は両眼を見開いた。

「あれだけ酷いことを言われたんだ。愚痴ぐらい言いたくなって当然だろう」
「酷いって、自覚してたんですか?!」
「……ああ、悪かったな」

踏ん反り返った、王様みたいな傲慢な顔で烏丸さんは言った。

「謝った……!」

心は絶対伴っていないとわかるけれど、それでも私は、彼が頭を下げてきたことに驚きを隠せない。

「どちらにしても、ノーダメージだよ」

断言されて、肩からすーっとちから抜けていく。

「良かったぁ……」

自分が極悪人にでもなった気でいたが、どうやら、さほどの事はなかったらしい。烏丸さんは呆れ顔で私を見ている。

「全く……最初から堂々としていればいいのに。嘘をつくから疑われるんだ。嘘はこの世で一番、リスクの高い行為だ」

そう言われると、少しだけ反発したくなる。
私はジト目で彼を見た。

「烏丸さんだって……」
「は?」
「タツキさんに隠してるじゃないですか。私とのこと」

ぐっ、と烏丸さんが言葉に詰まる。

「それは……」

目が泳いだ。
魔王らしくない、新鮮な表情に私は引き込まれるが、
しかしそれも一瞬で、

「別にそんな事はどうでもいい」

明らかにごまかされてしまった。
私はほーっとため息をつく。知られざる烏丸さんの一面が見られることを期待していたのに、ダメだったことで、これまでのストレスが、どっと肩にのしかかってくる。

「……疑いは晴れたようですし、もう帰らせていただきますね。失礼します」

私は頭を下げ、烏丸さんの傍らをすり抜ける。
これ以上、ビクビクハラハラするのは限界だ。
階段を下りる途中で呼び止められた。

「おいこら、待て」

ビクッとしながら振り返る。

「ったく、そんなにビクつくな」
「無理です……トラウマになっちゃいました。多分今日の夢に出てきます」

もう会わないと思ったら、何とでも言える。
すると、烏丸さんはくすりと笑い、

「受け取れ」

何かを投げてきた。慌ててキャッチする。
それは青い紐付きのネームプレートだった。
表側にkから始まるローマ字が印字されてある。
 
「本社ビルの入場パスだ。明日朝7時半に社長室へ来い」
 「え?」
「履歴書はサイトに送れ。それ以外の準備はいらない。体一つでウチに来い」

さっきの就職話が生きていると知り、私は慌てた。

「あれはタツキさんが言ってるだけで……本気になんてしてませんから」
「いいから来い。これは命令だ」
「でも」
「ここで迷うのが無駄なんだよ」

彼はあっという間におりてきて、至近距離で私を見下ろす。
 
「烏丸商事の採用倍率を知ってるか? 結構な狭き門だぞ。そこに君は一足飛びで行ける。このカードはプラチナチケットだ。それなのに君は捨てるのか? 落ちてきた運を掴まないのは怠慢だと俺は思うが」
 
もしかして、この人は本気で私を採るつもりなのだろうか。
 
「でも……どうして……」
「会長が君を気に入っているからだ」
「それだけ……?!」
「当たり前だ。でなきゃ、ウチに興味もないただのゴミをわざわざ拾うか」

無駄やバカ、だけでなく、ゴミまでもが、私の肩書に付け加えられたらしい。

「石ころを道具に変えるのはビジネスの基本だ。しかし君はただ、居るだけでいい。君の唯一の価値は会長に気に入られていること。しかしその価値は最強だ」

そして彼はまっすぐに私を見つめてこう言った。

「何も考えずについて来い。俺には君が必要だ」
 
よく通る声。
私の気持ちなんて完璧に無視してる。
それなのに……私の心は大きくはねた。

1週間前の出来事が頭をよぎる。
友人と会って落ち込んで、やる気をなくして悶々としていた時、テレビから流れてきた美しい声。

『立ち止まっている時間は一秒もない。必要なのは一歩踏み出す勇気だ』

私は背筋を伸ばし食い入るようにモニターを凝視した。

「一歩……踏み出す勇気……」

目の奥の光に釘付けになりながら、何度もその言葉を反芻する。
もちろん私に言われた言葉じゃない。
それなのに、強く胸に響き、私は思わず拳を握りしめていた。
番組が終わった後、スマホで彼の名前を検索した。
会社説明会の情報をゲットし、ドキドキしながら会場に向かった。
凛とした声で紡ぎ出される言葉は、私の心を1センチほど上げてくれた。
しおれかけていた勇気が、頭をもたげた。
だから……生の声を聞きたいと思った。そうしたらきっと、進むべき道がわかるはず。根拠なんてないけれど、その時の私はそう信じていた。
よく通るバリトン。とても好きな、いつまでも聴いていたいような声。
彼の声が止まっていた私の時を動かした。
 
そして、今その彼から手を差し伸べられている。

 (どうしよう。どうしよう。どうしよう)

魔王を前にして、へっぽこ勇者はタジタジだ。
やはり私は自分で自分の道を選べない。
それならば、差し出された手を握って、流れに身を任せるのも、アリかもしれない。

「よし」

魔王は大きく頷く。
たった今落ちてしまったことが、きっと見抜かれてしまったんだろう。
ああ、始まった。
心の声が、そう囁く。

始まった。
始まってしまった。
無駄ばかりな私の、新たな冒険の日々が。

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